やり直し
「なにが……ここは……お、俺の部屋?」
つい先ほどまで山の河原にいたネイサンは、訳が分からず周囲を見渡す。
飾りや小物のない質素な部屋は彼が青年期に住んでいた自宅の部屋であり、どうこにいるかは直ぐに理解できた。分からないのはなぜここにいるのかだ。
「な、なんだ⁉」
更なる驚愕がネイサンを襲う。
ふと見た自分の腕は修練の痕跡である傷が存在せず、岩石のようだった筋肉は見る影もない。それどころか腹も、足も、全てが衰えており、聖騎士の鎧を着れば重さに耐えられず倒れ伏してしまうだろう。
「どうなっているんだ……」
この理解不能な状況にネイサンは混乱するが、厳しい鍛錬を積んできた彼は体の確認を怠らず、一つの結論を導き出す。
「十代……中頃か?」
自分の記憶が正しければ、体が青年時代のものに若返っている。と。
「山の中で黒髪黒目の男を浄化した……そこまでは間違いない。なのになんで俺はここにいるんだ?」
しかし尚更理解できない。ネイサンは山の中で悪を罰するための使命を果たそうとしていたのに、気が付けば体が若返っているなど、誰が理解できると言うのか。
そして現象は本当に唐突で、黒髪黒目の男を切り捨てた途端に起こっていた。
「なにかしらの術に惑わされている? マズいぞ。鎧の耐性を無視してそんなことができる奴がいるのは想定外だ。ゲオルグ達は無事なんだろうな」
しかしその場合は、鎧に施されている様々な防護が貫通してしまったことを意味しており、完全に彼らの想定を上回っていた……強烈な反撃をしない子犬を殺すのと同じ心構えでいた証でもあるが。
そしてネイサンは、惑わされた時の定石である痛みの確認をするため、自分の顔を思いっきりぶん殴った。
「ぐっ⁉ 本当にマズいぞ!」
状況は更に悪くなった。
渾身の力を込めて顔を殴り、目から火花が散るような痛みを感じているのならば、感覚すら掌握する超強力な者の術中にいるとしか思えないのだ。
「ネイサン、なにやってるの?」
「え?」
更に更に悪くなる。
騒いでいるネイサンを心配したのか、恰幅のいい女性がやって来た。
ネイサンと同じ色の長い赤毛に褐色の瞳。普段は穏やかそうな表情なのに今は困惑を浮かべている女性を見たネイサンは、血液が全て地面に落ちたような感覚を味わった。
「か、母さん……」
「た、大変! 顔色がこんなに悪いなんて! 早く横になりなさい!」
ガタガタと震え始め、顔色を青白くしたネイサンを心配する女性は、十年以上も前に亡くなった筈のネイサンの母だった。
(意図が分からない! 態々俺の母を再現して惑わすより、もっと簡単な方法がある筈だ! いや、そもそもどうやってこんな完璧に⁉)
記憶と寸分違わぬ母の姿、母の声、母の雰囲気。それら全てがネイサンを混乱の極致へ追いやる。
普通に考えて十年も前に死去した人物を再現したなら、その当時に会ったことがある筈だ。しかし、ネイサンを惑わすために実家の家や母を再現するなど無駄が多すぎる行いであり、そんなことができるならネイサンを殺した方がずっと安上がりだ。
(記憶から引っ張りだして再現できるのか⁉ だがやはり、そんな絶技が可能なら尚更殺した方が早いだろう!)
納得できないネイサンは自分なりの解釈を試みたが、結局は無駄の産物としか思えず、何者かの意図が全く理解できなかった。
(落ち着け……)
母に促されるままベッドで横になったネイサンは、無理矢理自分を落ち着かせて思考を深める。
(頭のおかしい超人共……いや、連中が俺個人に興味を持つとは思えん。そうなると聖典に記された悪の大将……まさか……俺が母の幻を殺すところを見たいだけなのか? 底なしの悪め! まさしく悪の大将に他ならない)
まずネイサンが疑ったのは、常人では理解できない力と思考を持つ超人百傑だ。しかし、言ってしまえばかなり大雑把な彼らは、ネイサン個人を狙い撃ちするようなことをするとは思えなかった。
そうなるとネイサンの常識が導き出した答えは、彼らが絶対視する聖典に記された存在が悪を成しているというものだ。
直前に殺した男が原因だと思わなかった。死んだ場合に発動する力もあるにはあるが、代償が大きいだけありもっと直接的で碌でもない惨劇を齎す場合が殆どなため、迂遠な幻術と結びつくものではない。
そしてネイサンは確かに男を殺したと確信を持っており、事実としてその通りだった。
(これは神が俺に与えた試練に違いない。ご照覧ください。必ず聖典に従い悪への罰を与え続けます)
ネイサンの脳で今現在起こっていることは、神が与えた聖務の一環となった。
信仰心、功徳、修練は神のためであり、まさに天へ届けと言わんばかりに積み重ねる。
単なる積み木を。
◆
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって」
(偽物だ。偽物だ。偽物なんだ)
それから数日。心配している母にネイサンの心は軋んでいた。
彼の父と母もまた熱心な神の僕だが、父は遠方で聖務を行っているためネイサンにとって最も身近な親族は母だった。
しかし、ネイサンが大人となって初の聖務を達成した頃、母は倒れてそのまま帰らぬ人となった。
聖務に関われたことは誇らしいことだが、碌な親孝行ができなかったことは大きな心残りだった。そのためネイサンは、自分を惑わそうとする何者かに途方もない怒りを燃やす。
(……本当に?)
ネイサンの願望が混じった。
本当の母であってほしい。転がり込んできた親孝行のチャンスであってほしいという願望だ。
しかし、その願望をしっかりと確認する前に、ネイサンは神に使える者達が集う聖地に行く。
「そう……なら、聖堂に行くんだからしっかりね。聖騎士になって悪をやっつけるのよ」
「う、うん」
息子を送り出す母だが、彼女もまた青布族を人と思っていない妄信者であり、その死は世界を浄化するための第一歩だと信じて疑っていない。
そんなことはどうでもいいだろう。
なにかを信じようと、嫌悪しようと、息子を案じようと、親を案じようと。
結局は全て、砂場で城を作るのと変わらない。
◆
どこかの片隅。
「うーん。とりあえず二十年を目安に二十回死に続けようか。ルークさんには……綺麗な青い布を送ったらいいかな?」
黒髪黒目の少年がぐっと背をばして河原から起き上がる。
最恐最低最悪。積み重ねた物を否定する姿は、まさに悪の大将の言葉が相応しかった。
もしくは……。
それこそ……
神か。
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