ハードボイルド·セブン
オニタカ
episode 1. 渋谷 (1/3)
衝突。
そろそろ空気が熱くなってくる6月21日の渋谷。だぶだぶの半袖Tシャツに軽いジャケットを羽織っただけの今日の赤見(あかみ)は、スクランブルの中間にぴたりと立ち止まり、アスファルトの床の上を転がっているカフェオレを見下ろした。赤見 は他人の精神を操ることができる催眠術師だったが、そのような赤見でも、すでにこぼれてしまった飲み物を再び拾い上げることは不可能だ。信号機の緑色の光が不安そうに点滅する。 赤見は少しの迷いもなく振り向いて、今まで通りかかった方向へ歩いていった。
先ほど赤見とぶつかったのは、スリーピーススーツをきれいに着飾って濃い黒髪を眉の上に短く切った若い男性。赤見が男にぶつかってカフェオレを逃した瞬間、目と目が合ったが、男は何の謝罪の言葉もなく赤見を通り過ぎてしまった。構わない。今日の分はカフェオレの謝罪だ。これからいくらでも受け取ることができる。 もしかすると男の残りの一生をすべて消耗させてでも。
男はかなり長身で、複雑な街の多くの通行人の間に黒い後ろ姿が刀の柄のようにそびえていた。そのままつまんで思いっきり振り回してやる。 赤見は少し足を速めて男に追いつき、堂々と彼の前に立ちはだかった。煩わしいように男の眉間が歪むと同時に、再び目と目が合う。 赤見の瞳が真っ赤に沸き立った。
「表情をほぐせ。 生意気だな」
赤見がゆったりと命令した。 男の顔がすぐに無表情になった。赤見はもうこの男をどうするかしばらく悩んだが、とりあえずもったいなく浪費されたカフェオレから取り戻すことに決めた。指一本動かさず、ただ望む場面を考えるだけでも、赤見は初対面の男を前面に出して、どんなところでも引っ張っていくことができた。行きつけの喫茶店に連れて行こうかと思ったが、気が変わった。 赤見は目の前に見えるスターバックスに入ってカフェラテを注文し、飲み物が出るやいなや男を隅の席に連れて行き声をかけてみた。
「おい」
男は赤見の呼び掛けを認識し、まっすぐ見つめながらも、別に返事はしなかった。このようなケースは珍しいですが、男がここまで素直についてきたことから推測してみると、赤見の催眠が通じないのではなく、男の性格が本来非協力的なせいのようだった。赤見が片方の眉を斜めに引き上げた。 扱いにくい奴が引っかかったな。確かにそんな性格だから、ぶつかった相手を無視して通り過ぎたのだろう。 赤見は目の前の男がますます気に入らなくなった。単に飲み物と謝罪を受け取るだけでは不十分だ。 自分の時間と努力を消費するようになっても、もう少し念を入れて徹底的に苦しめてあげるという、どこかねじれた意志が赤見の中で強烈に燃え上がった。
「名前を言って」
出力を増やした催眠術に男がようやく口を開いた。
「日光(にっこう)、正義(まさよし)」
男とはまったく似合わない感じの明るくて清い名前だ。しかし、それよりもっと印象的な事実は、首の内側のどこかが少し擦れて出てくるような深みのある低音が、男の赤見が聞いても感嘆するほど立派だということだった。男であれ女であれ、他人にあまり気を配らない赤見としては、今まで意識していなかったが、この日光という男は、まるでヤクザのように鋭い雰囲気があっても、それなりに見栄えの良い顔をしていた。背もすらりと伸びて、ぱっと見ても筋肉質に。 多分、女性にかなり人気があるタイプなのか。 恋愛などには全く興味のない赤見が無頓着に聞き流した。
「言葉が短い。やっぱり生意気なのは我慢できないな。普通はここまではしないが···お前は私を心から尊敬している。お前なんかよくも私に接するのが難しいくらいだ。これからは態度に注意しながらちゃんと敬語を使ってね」
すると、日光の単調だった無表情が和らぎ、この上ない好感の証拠が次々と現れた。 すらりと持ち上げられ、警戒心が感じられた黒い眉毛がぐにゃぐにゃになり、青白い頬に日焼けするように紅潮が広がっていく姿を見て、赤見は驚いてしまった。
普通、催眠術で洗脳をすることは他人の精神を操ることであり、感情を自由に手を加えることができるわけではなかった。 「どんな心を持て」と命令したとしても、それはその役割を魂なく遂行する人形のような姿に近かった。しかし今、赤見の前の日光は、本当に手厚く赤見を尊敬するように振舞っていた。 姿勢ももう少しきちんと直して座った日光は、もう赤見の小さな身振り一つにも集中するようになった。まれに好奇心が動いた赤見が首を横に傾けながら日光をじっと見ると、日光の視線がしばらくさまよったが、下に落ちた。 何がどうなったのかは知らないが、いらいらしていたさっきよりはずっとましだね。 赤見がにっこり笑った。
「年は?」
「27歳です」
日光が慌てて答えた。 赤見の見当よりはやや幼い。 日光の顔がそれよりもっと老けて見えるというよりは、日光が備えた重厚で危険な雰囲気が彼を20代の真っ青な若者として考えにくくしていた。 とにかく赤見は37歳だから、二人はちょうど10歳差だった。
「職業」
「職業は···」
日光がためらい、赤見は再び驚いた。 この程度の強度の催眠術に抵抗するのは一般人には難しいことだ。それでもこのような状況が最初から不可能なわけではなかった。 相手が本当に言いたくない秘密を言わせた時、このような反応が返ってきたりする。赤見は自分の生まれながらの催眠術を利用して、著名人の秘密を奪って販売する情報上の仕事を長い間していたので、その事実をよく知っていた。
「申し上げられなくて、本当に、申し訳ありません···」
日光がぽつりぽつりと答え、薄い唇をかみしめながら頭を下げた。 広い肩をすくめて息を切らす姿が気の毒に見えるほどだった。尊敬する赤見に自分の職業をあまりにも教えたくて気が狂いそうだが、逆にそのような自分を容認できないので苦しい状況だろう。
「あの、大丈夫ですか? あれ、彰(あきら)さんだね?」
は?!赤見は今度こそ本当にびっくりして席から半分はじけるように立ち上がった。 赤見が行きつけの喫茶店の、やはり行きつけの石原が、特有のあまりにも朗らかな口調で赤見の名前をやたらに呼びながら話しかけてきた。石原のゆらゆらする長い金髪と華やかなシャツの柄が今日も赤見の視界を乱した。
「い、石原さん、こんなところで···」
催眠さえかければ、どんな返事も胸ぐらをつかむように引き出せる赤見は、勝手に命令ばかりしていただけに、催眠術を使わない日常的な会話には、ひどく下手だったので、ぎこちないようにバラバラになった単語だけを、たどたどしく吐き出した。そんな赤見が、むしろ慣れている石原は、適当に赤見の言葉の意味を理解して微笑んで、自分がここにいる理由を親切に説明してくれた。
「今日スターバックスの新メニューが出るのはご存知ですよね? 実は他のメニューはまあまあだと思いますが、スイカ、メロン、バナナ、桃、すももがすべて入るというメガサマーフルーツミックスミックスフラペチーノはちょっと気になって来てみました。ところで、ちょうど彰さんもここにいるね。 やっぱり僕のようにスターバックスの新メニューが気になって来たんですよね? 彰さんは僕と通じるところがあるじゃないですか」
ないよ、そんなの。 それより最近のスターバックスはそんな怪食を作るのか。 赤見はそう思ったが、そぶりを見せずに石原の言葉に下手に相づちを打った。
「そう、そうです。 私も、私もです」
「ビンゴ!これくらいなら探偵に 職業を変えてみましょうか? 最近うちのクラブの売上が良くないんですよ。 ああ、店長がこんな話はするなって言ったのに」
何がそんなに笑わせるのか、一人でくすくす笑っていた石原が、ふと赤見の向かいに座っている日光を振り返った。
「そう、こちらの方は大丈夫ですか? 調子がちょっと悪そうに見えるが」
日光が間違った答えをする前に、赤見が先に言った。
「ええ、大丈夫です。 こいつ、だから、だから、偏頭痛があって。 ここでひと休みしたら、たぶん大丈夫になるでしょう」
石原は幸い一歩後退した。
「それならいいのですが。 ところで、どういう関係? 彰さん、いつも一人で通っていたのに、こんなイケメンを知っていましたの?」
「イケメ···?」
「彰さん、本当に流行語に弱いんだから。 こんなにハンサムな知人がいたのか—ということですよ。 年は彰さんより下みたいだけど?」
「ああ···」
面と向かって情報を掘り下げるアナログ方式に固執するため、デジタル的には原始人に近い赤見が新しい流行語に適応する間、石原は日光をあれこれ計りながら、自分が働いているホストクラブにスカウトする工夫をしていた。
「あの、名前は何ですか? うちのクラブで働かない? 少しヤクザぽいな感じがするけど、あんたくらいならナンバーワンも無理じゃないよ」
日光は石原の質問洗礼にも何も言わずに赤見だけを見た。返事をしてもいいのか許諾を求めるような姿に石原はますます好奇心が芽生えたようだった。状況がこれ以上狂う前に、赤見は適当に二人の関係を言い繕った。
「以前の職場の後輩です。 日光って言うんですけど。 私によく従ったので。 こんなに久しぶりに会いに来たそうです。 だね、日光?」
赤い目の赤見と視線が合った日光が従順にうなずいた。
「はい、先輩を本当に本当に尊敬していたので、いつもまたお会いしたかったです」
その荒くて低い低音で可能だとは思わなかった柔らかくて優しい、どんな切実さまでにじみ出る声が日光の口から流れ出た。 簡単に流せない真剣さに石原は当惑の色を隠せず嘆声をもらした。
「へえ、彰さん、すごくいい先輩だったみたいだね」
「今もいい先輩です。 これからも、いつも」
「すごい深さのある関係だね、二人は」
「私にはそうなんです」
くそ、この日光ってやつはどうしてこんなにも感情的洗脳に弱いんだろう? 赤見はできるだけいつも通りに見えるように祈りながら石原を押し出した。
「それじゃ、私たちは話がありますので···」
「あっ、そうだよね? 僕が邪魔でした。 またね、彰さん、日光さん」
石原が2人を離れ、ちょうど自分を呼ぶ店員から妙な色のメガサマーフルーツミックス·フラペチーノを受け取り、2階に上がると、テーブルには再び気まずい沈黙が漂った。赤見はため息をつき、ゆっくりと頭を転がし始めた。 この日光という男はしばらく手放すつもりはなく、石原も行きつけの喫茶店に行く限り、ずっと会うことになるので、日光との関係をもっときちんと設定する必要が出てきた。
「日光」
「はい、先輩」
日光は赤見の声で自分の名前を聞くのがうれしそうに赤見を熱烈に眺めた。 鋭いと思っていた顔も、赤見自身への尊敬の念でゆるむと、少しかわいく見えるような気もした。
「私たちは前の職場の先輩と後輩の間柄。 尊敬心はそのままにして、態度だけもう少し自然に変えて。お前の普段の性格通りにしろ。 当分は少しなら生意気なことも許してやる」
「ふむ。わかりました。 それが先輩が俺に望むことなら」
日光の言い方と姿勢が楽になった。照れた表情も、へらへらと笑う豪快な笑いに変わった。赤見は再び片方の眉を斜めに上げた。どうも無愛想だったのは、まったく知らない相手を対象にする仮面で、本来はこんな茶目っ気の性格なのか。やはり人間の内面は複雑だ。 催眠で操縦できるとしても、絶えず新しい面を発見することになる。 あまり知りたくなかったとしても。
「ところで、彰先輩と呼んでもいいですか? さっき石原とか、その男は先輩の名前をやたら呼んでたけど。 先輩は俺ともっと親しいから俺もそう呼んでもいいですよね?」
「リラックスしろとは言ったが、あまりにもリラックスしすぎたのではないか? 尊敬心はそのままに設定しておいたのに···」
「今もすごく尊敬しています」
赤見は目を細め、にやにや笑っている日光をにらみつけた。
「当然だが、名前はだめだ。赤見先輩と呼ぶようにして」
「赤見先輩」
「よし、お前はそれで、当分は、ふむ··· 携帯ある? 出せ」
日光はスーツのズボンのポケットから携帯電話を取り出し、赤見にそっと渡した。 赤見は日光の携帯電話の連絡先に自分の番号を入力し、「赤見先輩」と保存しておいた。日光は赤見から携帯電話を返してもらうやいなや、その番号をショートカットキー1番に指定した。 赤見としてはどうでもいいことだったので気にしなかった。
「私の番号で呼び出されたら、お前は必ず私のところに来る。 そして、私がさせることなら何でもしなければならない。 期限は、私がお前に飽きるまで」
「いいですよ」
奴隷契約と変わらない条件を催眠術にしっかりと取り憑かれてしまった日光は嬉しく受け止めた。···それでは大体整理できたようだから。赤見はもう最後の関門を前にして舌で唇を濡らした。 先天的な催眠術師として20年以上やってきたことなのに、他人の心理的保護膜を破壊し、精神の最も奥深いところに隠された秘密を探り出して手の中に握る前はいつも緊張していた。
「私と話したいことが残っただろ。 日光、もうお前の職業を私に教えてくれ」
その言葉には日光の顔色が一気に変わった。 急に足を震わせて、窓の外に視線を向けた日光は、険しい目つきをしかめながらしばらくためらった後、ようやく口を開いた。
「先輩が」
「ん、言って」
「先輩が俺の職業のせいで俺を嫌がるようになったら」
はっ、何だって?本当にヤクザでも驚いて避けるかのように恐ろしく歪んだ表情をして言う言葉というのが、たかがこんな澄ましたわがままなのか? 赤見は堂々と日光をあざ笑った。
「私は今でもお前のことが少しも好きじゃない。 強いて言えば、そうだね、嫌いなほうに近い」
日光の膝の上で両拳が握り締まっているのが見えた。 日光が首を横に振った。 赤見が見るにはそれは無意識的な行動のように思えた。
「俺も知っています。 分かるけど、今よりも嫌われてしまうのは、我慢できません」
「お前が我慢できるかどうかは構わない。どうせヤクザとか、石原がお前を狙った通りホストとか何かだろう。私はお前がどうしてここまで隠そうとするのか気になるだけだ。お前がそんなに隠すほどそれなりにいい情報なので、どんな方法ででも利用できるならもっといいだろう」
気配りなどまったく見られない悪の幼い言葉が日光の胸をめちゃくちゃに掻いたが、赤見は当然それに対する自覚自体がなかった。 ただ日光を一口で飲み込んでしまう思いに満ちた赤見は、催眠術をより鮮明にするために意識を集中するだけだった。
日光、私を見て。 そして言って。 血一滴が落ちて溶けるように、赤見の黒い目が中心から赤く広がっていく。 その目は日光の精神、心、あるいは魂、果てはすべてを圧倒して日光を追い詰めた。 赤見と向き合った日光の瞳がゆらゆらと揺れた。 よし、よし。 もう抵抗してあきらめてしまえ。 私にあなたという概念を完全に任せて崩れてしまう。
続いて自我が崩れ落ちた日光は、すすり泣きに近い可憐な息づかいの間に赤見に自分の秘密を取り出し、供え物のように捧げる。
「俺は人を殺してお金をもらいます」
「何?」
「俺は殺人請負業者なんです、赤見先輩」
先輩は··· 先輩は知ってはいけませんでした··· 日光が呟く声はあまりにも遠くから聞こえてくるようだと、赤見はぼんやりと思った。
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