マジックはとつぜんに

このはな

マジックはとつぜんに

 テレビの前のソファで、のんびりくつろいでいるときだった。

 昼食のあと片づけを終えた妻がリビングに戻ってきて、ぼくの左側に腰をおろした。

 そのまましばらくテレビを見続けていたものの、妻の様子が気になった。というのも、ほおづえをついては時折「はあ」とため息をもらすからだ。この一週間ずっと、妻はこの調子であった。こっちまで気が滅入りそうだ。

 だが、こういうときこそ、夫の出番である。夫の悩みは夫のものだが、妻の悩みは夫のものなのだ。番組がコマーシャルに切りかわるのを待ってから、話を切りだした。

「陽一は?」

「え、陽一?」

 ハッと夢から覚めたように、ほおづえをやめて身を起こした妻は、ためらいがちに答えた。

「お昼寝してる。ゴハンを食べたら眠くなったみたい。よく寝てるわ。一時間ぐらいは寝るかしら」

「そうか、どうりで静かだと思ったよ」

 陽一とは、四歳になるカワイイひとり息子だ。午前中、ぼくと陽一は愛犬べスの散歩に出かけた。小春日和のぽかぽか陽気に誘われて、少し遠くの公園まで足をのばしたから疲れたのだろう。じつにいいタイミングだ。

「きみに見てほしいものがあるんだ。ちょっといいかな?」

「急にどうしたの? あらたまった言い方なんかして」

「いや、ちょっとしたマジックをしようと思って。成功するかどうか自信がないけど」 

 ぼくはそう言いながら、ズボンのポケットに手を突っこんだ。クシャクシャに丸まったハンカチを取りだし、目の前のテーブルの上に置く。

 そうしたら、妻の手厳しい質問が飛んできた。

「そのクシャクシャ、昨日のハンカチじゃない。洗濯に出さなかったのね」

 しまった。この展開は予想していなかったぞ。

 思わず苦笑いを浮かべた。

「まあまあ、黙って見ててよ」

 妻の冷たい視線を尻目に、ハンカチの上に手の平をかざす。

 そして、呪文を唱えた。

「ちちんぷいぷい、ちちんぷい。ぼくの奥さんが元気になるもの、出てこいこーい!」

 われながら気恥ずかしい呪文であったが、ぼくはマジシャンじゃないし、ほかに思いつく呪文もないので仕方あるまい。

 妻に突っこまれる前に、ササッと両手を動かしてハンカチを広げた。すると、中から銀色に輝く指輪があらわれた。

「あっ、わたしのプラチナリング……!」

「きみのため息の原因は、これだろう。ちがうかい?」

 妻の手のひらを上に向けて指輪を置くと、

「ええ、これよ」

 うれしそうに妻の眉のあいだが開いた。

「あなたにずっと言えなかったけれど、一週間前に失くしてしまったの。どこかで失くしたか、落としたみたいだったの。いったいどこにあったの? 家中、隅々まで探しても見つからなかったのよ」

 ところが、「あら……」と言って、妻がぼくの顔を見た。指輪を間近に見て、やはり気づいたようだ。ぼくは妻の疑問を解いてやることにした。

「ごめん、白状するよ。それピカピカだろう。じつは新品なんだ。あちこち探しまわって、同じものをやっと見つけたんだよ。本当にすまない。見つけてあげられなくて」

「ありがとう、あなた。失くした指輪じゃなくても、うれしいわ。でも、どうしてわかったの? 何も言ってないのに」

「なあに、カンタンな推理さ。元気がないきみの様子を見ていたら、いつもしている指輪がないことに気づいたんだ。だから、すぐピンときたよ。ははあ、指輪を失くしたんだなって。ただ、それだけさ」

 ぼくの説明に、妻は納得したようだった。満足げな笑みを浮かべ、指にはめたばかりの指輪をしげしげと眺めだした。

 どうやら夫の役目を果たすことができたらしい。内心冷や汗ものだったぼくは、妻の笑顔を見て、ようやく息をついた。

 妻はすっかり新品だと信じこんだようだが、真実は別にある。

 その指輪は新品ではない。妻が失くした指輪そのものだ。

 指輪を見つけるために、ぼくは散歩と称し、愛犬べスとともに毎日探し歩いたのだ。その苦労が実ったのは、三日前のことである。

 ぼくの手元に戻ってきたとき、指輪はすごく汚れていた。そのうえ、とても匂った。妻に渡せる状態ではなかったのだ。

 こんな状態では、クリーニングを頼むこともできない。指輪が新品同様の輝きを取り戻したのは、僕が一生懸命に洗って磨いた結果だった。

「じゃあ、お礼をしなくちゃね。今晩のメニューは、あなたの大好物のすき焼きにするわ。さっそく買い物に行ってくるから、陽ちゃんのことよろしくね」

「本当かい? ありがとう、楽しみだな。ああ、ゆっくり買い物に行っておいで。こっちは大丈夫だから。そうだ、陽一の好きなおやつを買ってきてやってくれないか、頼むよ」

「ええ、わかったわ。行ってきます」

 ぼくの事情など知る由もない妻は、足取り軽く買い物へと出かけた。

 指輪が見つかった場所を知っているのは、ぼくと陽一とべスのみだ。

 妻には黙っておいた方がいいだろう。知らない方が幸せなときだってある。家庭の平和とぼくのへそくりを守るためにも。


 失くした指輪の手がかりは、身近にあった。わが息子、陽一が犯人を目撃していたのだ。

「あのね、パパ。べスがね、ママのだいじのキラキラ、おくちでパックンしちゃったの。どうちよう、パパ。べス、おこられる?」

 それは、入浴中の何気ない一言だった。



おわり

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