【BL】BESIDE YOU

せり

第1話 きっかけとも呼べないできごと

「もういいよ、ありがとう」

「……ゲイだと思ってたんだけどさ、やっぱりイけなかったから、俺、ゲイじゃなかったんだわ……ほんとごめん……」

「あのさ……そういうのあんまり人前で話さないほうがいいよ」


なんで?とバカみたいな間の抜けた声がぼくを追いかけてきたので、慌てて両足に力を入れてその場を走って離れようとして、靴の先端から丸みを帯びたかかとの先まで神経に集中して、そして両手を構えて。その間数秒だったはずなのに。いざ走ってみたらどうでしょう、俺の片手が目の前のヤバいやつにがっちりと捕まれてしまっていた。ぶんぶんと振ってみても相手はびくともしない。参ったな。参ったっていうか、正直こいつともう一緒にいたくない。一秒たりとも一緒にいたくなくて、この先に起きる恐ろしい出来事を回避するために、俺は必死に両手を動かした。動かしたのに、びくともしない。そうだよなあ、こいつ体がっちりしているもんな。俺なんかひょろひょろだからヌけないってかなりの回数、同居人に言われているし。いいなあ、肉体だけ置いていってほしい。幽体離脱とかなんとかやって、これからは俺がそのガワを着て生きていくからさ。つーか同居人は同居人で、俺でヌこうとしないでほしい。そんなのあんまりだし、俺は残念ながら自他共に認めるゲイらしいゲイだし、もうなんていうか、やってらんねえなって気持ちが強いので。今日のことは同居人に絶対に言ってやろうと心の中で決心をする。そんな現実逃避を繰り返して繰り返して、もう一度繰り返して、それでもやっぱり解放されていない。走り出そうにも周りの視線も気になるし、穏便に離れたいんだけど。それでもそれを許してくれないって一体何なんだ。早く解放してほしい。おまえがどういう考え方をしているかには一切興味が無いし、そこまで残酷なことをよくもこの衆人環視の環境で言ってくれたなあと思ってはいるけれども、残念ながらそれ以上はもうなにもないのだ。同情もしないし、ケアもこれ以上してやらない。俺がノンケ食いのバリタチだったらもっともっとよかったんだろうな。路地裏に連れ込んで青姦して口もきけなくしてやりたいぐらいに、今、俺はイライラしている。これ以上口を開かないでほしい。これ以上、かわいそうな人間としてこの人通りの多いところに置いておかれたくないのだ。ほーら、こうやって俺が離れられないでいるのを見て、ギャラリーの輪ができはじめたじゃないか。こういうことをされるの、俺は嫌いだって何百回言ったらわかってくれるんだろう。わかんないままなのかな。じゃあわかんなくてもいいから早く離れてほしい。肉体はよかったのにな。イけなかったってマジかよ。これでも俺、中性的で儚い容姿とか言われてるんだぜ、バイト先で。バイト先なのもどうなのよって話だけど、人間いろんな人生があるから大丈夫でしょ。俺だって大学をちゃんと出て就活もして、それからキラキラした一流ビジネスマンになる予定だったんだけどな。大学で派手にゲイバレして以来、行くのやめちゃったから、近所にある知る人ぞ知るみたいなあやしい雰囲気のバーの求人広告を見て飛びついちゃっただけなんだけど。両親と一緒に暮らしながらゲイとしてこそこそ生きていく、みたいなのはどうにも自分的に好きになれないんだよな。おおっぴらにしたいわけでもないし、最近「はやり」のゲイパレードだとかプライドだとかにまるで興味も無い。同居人には当事者の自覚を持てと言われたけれど、とにかくああいう大仰なのは好きになれないんだから仕方ない。レインボーパレードの存在に救われるのがゲイだっていうステレオタイプがもうだめだよなあ。今は多様性の時代。ゲイプライドなどの催しものに救われるゲイがいる一方で、そういうものに人一倍嫌悪感を覚えるゲイだっている。俺は興味が無いだけだけど、嫌っている人間がいることも知っている。後者が同居人がもつ性質のようなものなので、俺はとにかく気を遣って神経をすり減らしながら生活している。ウソだけど。まあまあ楽しく過ごさせてもらってます。

まあでもさ、分類でしかないゲイというものに、ここまで過剰反応されるとどうしていいかわからないのが本音でもある。ゲイっていうものにアイデンティティを持つ人間なんか、本当に生きづらそうだなと思ってしまう。ゲイゲイゲイゲイ。なにも大げさに構えなくてもいいのにな。法律の解釈をちょっとだけ広げてもらえれば、俺みたいな普通のゲイはみんなそれだけでちょっとずつ救われていくのだから。財産分与、集中治療室のお見舞い、そういう肉親や男女の関係じゃないとできないことを少しだけ広げてもらえればゲイはもっともっと救われる気がする。だってまあ、一緒だろ。正月の帰省のたびに結婚はどうしただのなんだのと言われてしまうのだって、そんなのはゲイだけじゃあない。最近少子化が進んでいるだけあって、ゲイやバイセクシャル、レズビアンだって、そうじゃないひとたちだって、しつこいくらいに結婚を待たれているような気がする。親族一同に会う親戚行事なんかでは、俺はまだまだ大丈夫なほうだと思う。俺より年配のいとこの姉ちゃんは、相変わらず結婚ひとつしていないし。いとこの兄ちゃんは結婚を目前にした彼女に逃げられてしまったらしいけれど、それだってゲイだからとかそういうものじゃないことをみんなわかっているはずだ。兄ちゃん昔から女好きだし。だから別段ゲイで困ったことなんかないはずだったのだ。なにも無いけれど、それでも大学のゲイバレ事件はまあまあしんどかった。今日の出来事は大学時代の一瞬で終わってしまったゲイバレに継ぐ最悪さかもしれない。大学はね、頑張って勉強して入ったからね、結構きつかったんだよなあ、自分が大学に通えない、というショックから解き放たれるまで、まあまあ時間がかかってしまった。そのおかげで同居人と一緒に住むことができて、家賃も安上がりだし一石二鳥の最強の親友、みたいになったんだけど。まあ俺たちの関係って誤解されるわ誤解されるわでそこもまた大変だったのだ。恋人を家に呼んでやると、なるほど、そこそこ肉付きのいい男がすでに、ルームシェアとしているではないか。恋人じゃないとか好きじゃないとか説明されてもどうしても、ルームメイトにしか見せない顔みたいなものがあるんじゃないかって、それはそれはああだこうだと言われたものだった。今回は失敗しないように、バーでこれ見よがしになんとも思っていない同居人、をアピールしてみたし、それも成功したように思えたんだけど。一難去ってまた一難、今度は相手がまさかのゲイじゃないしバイでもない発言をしてきたのだから、もうなんというかとんでもないことになってしまった。ゲイは人並みのしあわせを求めてはいけないって、誰かがすでに決めちゃったりしてくれたりしたんだろうか。いや、いい迷惑なんです。神様が決めたのなら、じゃあもうゲイというくくりを無くしてほしいわけで。

人並みのしあわせを求める立場として、譲れないことがいくつかある。まずバイト。収入が不安定だけれど、ゲイバーのような位置づけであるからして、検査をきちんと定期的に受けるという約束で恋人を作ってもいいし、客にアプローチしてもいいことになっている。だから、そういう場所で恋人が働くのが無理、と思うひととは俺は、付き合えないのだ。だって俺はバーでする仕事(色恋的な意味ではなくて、本当にグラスを拭いたりすること)が楽しくて仕方がないし、それに制限をかけられることを良しとしていない。収入は不安定だけれど、俺にとっては立派な社会復帰の場ですらあるのだから。またゼロから人間関係を作り上げて働けなんて言われても、俺は社会の荒波で戦うために必要なスキルである大卒というものを持っていないし、運転免許はペーパー状態のゴールドだし、それになによりめったに話せないハイソサエティな属性をお持ちの旦那様たちと話せるのもバイトの仕事内容でいいところでもある。だから、これはまず譲れないことに入るだろう。それから、それから。もう一つが一番大事なことだから、心して聞いてほしいんだけど。レインボーパレードもなんでも行きたいなら行けばいいけれど、俺を付き合わせるのは無しにしてほしいってこと。だって俺は今の日本の政治や人間観に満足をしているからだ。あ、税金が高すぎるとかそういうのは満足していないけれど。その、ゲイという不思議な生きものをつまはじきにしない日本の社会は、とても優しいと思うから。もっと自由を求めて海外移住するゲイたちも見たことがあるけれども、何回も繰り返すように俺のアイデンティティはゲイではないから、そういう場に引きずり出そうとするのをやめてほしいのだ。だってヘテロのひとはいちいちフラッグを振って自分がどういう人間が好きかを提示しなくていいことになっているし。だったら俺だってよくないかって思うわけ。俺が誰を好きになるかは俺が決めるし、俺の好きという感情がどう扱われるかは俺が好きになったひとが決めるだけの話。それなのに、今回付き合った彼氏は、勃起しないことを理由に俺をフったってわけだ。でもまあ、そっち側のタイプのひとなのかな、というのも想像がついていた。だって興味がないひとは、レインボーフラッグを持ち帰ってきたりしないだろうし。俺が不規則な生活をしているからなのかと思っていたけれど、土日のたびに荷物を持ってレインボープライドに参加していたし、きっとゲイなのに参加をしない俺のことをやけにじりじりと思っていたことだろう。なのに、一回セックスを失敗しただけでノンケだと宣言してくるのだから。きっと俺に失望したんでしょうね、ひとつもほかのゲイたち、仲間たちのために動こうとしねえやつだな、とか思われたのかもしれない。多様性の時代だからそれくらい許してほしいんだよな。俺がなににアイデンティティを感じるかなんて、こんなひとがたくさんの場所で発表なんかしたくない。しかももうすぐバイトに入らなきゃいけない時間になってしまった。早く解放してくれ。今すぐ大声で叫びたい。俺はゲイでもヘテロでもなんでもない、普通のひとですよ、と言いたい。どっちだっていいでしょ、俺の性的指向。グラビアアイドルはかわいいしおっぱいもでっかいから、ベッドの下に隠していた時期だってあったよ。女性の体にまるで興奮しないわけでもないんだし。

じゃあ本当にバイ買っていったら、残念ながらそうじゃない。女性の裸体を見て興奮するのは、なんとも思っていない異性のあられもない姿を見るのと同じだから。珍しいしレアだしで大抵のゲイは興奮くらいはすると思う。まあ興奮した後で興奮した自分に嫌悪感を覚えてゲエゲエやっちゃうやつもいるし、それはそれでこれはこれ、みたいな感覚で楽しんじゃうゲイもいるのも知っている。まあ俺らが全員女性の裸で興奮するかって言ったら微妙なところだし、それってつまりなんでもない男性の裸を見てテントを張るかどうかと言う話につながってきてしまう。男なら誰でも良いわけねえだろうが。好きな筋肉の付き方をしているとか、あるいは素敵な胸筋に抱かれてみたいとか、そういうものも確かにあるけれども。ヘテロが大抵の芸能人を恋愛対象から外すのと同じで、俺たちだって別にそこかしこで発情して回っているわけでもないんだけど。どうもそこをうまく理解してもらえないのがゲイとして恋愛をしていく上で理解されにくいところでもある。バイですら誰彼かまわず発情すると思っていたと言われたときにはもう、すっころびそうだった。恋人の束縛が激しすぎるとバーに泣きつきに来たゲイの彼氏がバイで、どうやらそれなりに筋肉がついている男であれば誰でも良いと思っていたという誤解が元で起きたハプニングだったりする。だからその細やかなところあたりって、どうにもなかなか理解をされにくくて、俺たちとしても説明をしにくくって、なんというかものすごいブラックボックスになってしまっているところがある。好き好んで恋愛のしかたなんか誰が説明するかってんだ。そんなに俺たちのことを興味津々な目で見ないでほしい。普通の人間で、普通に立場を気にして生きているのだから。そりゃあ、そりゃあね、未だにバーでもバイトだからたいした仕事もやらせてもらえていないし、営業時間中の主な俺の仕事と言えばやってきたお客さんのお相手とちょっとしたお色気くらいだから。そりゃあ、安定していないし、ちゃんとしていないように見えるかもしれないけれど。それでも俺は俺なりに頑張って生きているし、同居人のこともさっさと紹介して、何一つこれで障壁がなくなったと思った瞬間のこれだから、なんかもう早くここから逃げ出したい。女性のグループがひそひそと話を始めているのに気付いて、もう一度強く腕を動かした。ガクンと腕の拘束が解けた気がして、さあ待ってましたとばかりに走り出す。バイだと思ってたらノンケでしたってそんな話ないだろう。男として自信をなくしたとかそういうことを繰り返し言っていたけれど、結局は男性同士の不便なセックスに限界を感じてしまったんだろう。いいよいいよ、わかるよ、わかってるって。今まで付き合って来たひとの中にだって、そういうことを言ったやつはいたよ。法的な関係が認めてもらえないからと、バイところか女嫌いのゲイのくせに、別れた数日後に結婚したみたいなやつもいたよ。あれにはびっくりして涙も出なかった。


「望夢くん!待って!」


待てって言われて待つバカなんかいるわけないだろ。いるとしたらそいつはまだあんたのことを好きなやつだろうし、残念ながら俺はそうじゃない。一回のセックスで失敗したくらいで、自分が傷つかない理由を作り出して、そうして別れ際にはこうやって引き留めてくるようなやつ、もう一気に冷めてしまった。名前を呼ばれても知らん顔。雑踏の中に紛れ込んでしまえばあの大きな図体をしたヤツは、追いかけることを諦めるだろう。友達になってくれとか言われちゃったらどうしようね、なんて気持ちもふつふつとわき上がってきてしまう。この世で俺が嫌いなものトップテンに入るであろう、恋人同士が別れた後に一番の理解者とか言って友達関係を続けるのが、おそらく俺は世界で一番信用ならないと思っているのだから。そんなことを言われてしまった日には絶対、絶対にそいつの言うことを聞くのをやめるようにしている。だって信用ならない。他にも嫌いなものは残念ながらたくさんあるけれども、あなたのことは恋愛対象として見れませんと言われてしまったら、友達なんて甘いことを言っていないで、そのまま連絡先もなにもかも忘れて消してなくしてしまうより他にできることがない。バイセクシャルだなんて言って俺のバイト先で口説かれて、ちょっと良い体だからワンナイトでいいやと判断が鈍ったのがいけないのかもしれない。バイセクシャルだからと言われて、いろんなものを飲み込んでしまったのがいけなかったのかもしれない。もっともっと、俺にできることはあったはずだ。

こんなふうに別れ話でこじれてぐちゃぐちゃになってしまうよりずっと、ずっとずっと相手のためにしてやれることはあったんだろう。だいたい同性間の行為は失敗することが多いこと。初めてならなおさら、うまくいかなくて当然だということ。俺の準備もちょっと足りなかったかもしれない。他にもしてやれることはたくさんあったはずだ。口でしたってよかったんだし、あの思い詰めたような顔をされる前に、こっちから提案をしてやったってよかった。こうやって後悔に似た何かがふつふつと湧き上がってくるのを、俺はもう全部雑踏の中にばらまいた。走りながらスマホの連絡先だって消してやった。客が減ることはマスターの一番嫌うことだから、店に来るなとは言わないでおいてやる。こんな衆人環視の元で別れ話なんかしやがって。しかもバイだのなんだのと今時珍しくもないような、けれどどこか扱いにくいようなものを、大声で言いやがって。それならもう俺がゲイかバイだってことも推測できてしまうだろうし。いや、この雑踏の中のひとたちはみんな、自分の進行方向にいかに歩を進めるかしか考えていないだろうから、ちょうどいい。大事なものを持ってきていなくてよかった。荷物のことなんか考えずに、ぐちゃぐちゃと雑踏の中を走って行く。こういうときは没個性的な肉体を持っていてよかったな、と思う。こういうときだけ。あとはこの肉体はまあまあ不便だ。


「おっと……、」

「あー、すいません。ちょっと急いでいるので……」

「あそこの大きな男性が追いかけてるのって、もしかしてきみ?」

はい、そうです。


急に大きな壁が現れたと思ったら、それは新たな男性との出会いだった。どっかでみたことがあるような雰囲気と表情で、こちらをじーっと見てくるのだ。いいんだよ、普段ならなんでもいいんだけど。今日はこんなところでゲイだと大発表されてしまったので、ちょっと、いや、かなり焦っている。早くこの場を去りたい。ていうかあいつ、名前を呼んで追いかけるのだけはやめてほしいんだけど。それを指摘して近づこうものなら、なにをされるかわからない。レインボーパレードだって別に、あいつは結局理解ある彼氏を演じているだけなのだから意味がない。自分と違う生きものがいるということを、あんまり信じられないタイプの男なんだろうなあ。こんなところで冷静に分析している場合ではないのに、俺は目の前の大きな胸板にダイブしたままで呆然としていた。腹筋すご。お情けで元彼のカテゴリに入れてやったあいつよりずっとずっとがっちりした肉体が目の前にある。頭がパンクしそう。どうして俺はこんなに好みドストライクの男の胸板を独占できているのだろう。どきどき、ばくばく。心臓もすっかりうるさくなった。


「あいつ、追っ払おうか。他人のデリケートな話を大声でする男はさ、やめといたほうがいいよ」


もうなにがなんだかわからない。俺がお姫様ならこのひとを王子に指名することは間違いない。今まで付き合ってきた元彼の誰よりもしっかりした筋肉で、それなのに物腰は柔らかい。それでいて知らない人間を追いかけている、これまた知らないデリカシーのない人間のために自分が動こうかと聞いてくれる。この顔をどこかで見たような気するけれども、その「どこか」がどこなのかがわからないのだ。こんなにいい男なら絶対忘れないだろうに。


「ぼくは小鳥遊湊。小鳥遊って呼んでもいいし、湊とかって呼んでくれても構わない。不快かもしれないけれど、新しい恋人がぼくになったってことにしよう。いいよね?」


迅速な説明を受けながら、片手を絡めて再び雑踏の中を歩いて行く。あのヤバいやつはいなくなった。帰ったか諦めたか。諦めが早すぎるのも玉に瑕だったから、なんていうかやっぱりそうだよな、って気持ちになってしまった。もうあいつにはなんの感情もないけれど、けれど、だ。もうちょっと粘ってくれても良いだろうが。結局俺も追いかけられたいだけだったりしたのかな。初めての行為がうまくいかなかったからってすぐに諦めてバイセクシャルじゃないとか言い出すし、それも俺が悪いみたいな言い回しをしてくれたわけで。そんなやつに追いかけられてもしかたがないし、またああやって大声で名前を呼ばれたら今度こそこまってしまう。だから、きっとこれでいいんだ。


「望夢くん、これでよかった?……複雑な顔をしていたから、ちょっとお節介しちゃった」


かわいい顔が台無しだよ、と付け加えられて、さらに俺は赤面する。こういう言葉がほしかったんだよな、元彼からも。心の底から言わなくて良いから、ちょっと表面だけで俺の努力みたいなものを、わかって欲しかったんだと思う。

恋人同士をカモフラージュするために組まれた腕が、すうーっと解放されていく。ああ、そっか、終わりか。フルネームまで教えてくれたりしたもんだからつい、この先があるのかなんてことを考えてしまった。口には出していないけれど、いつまでも離れようとしない俺に、不信感を抱いてやしないだろうか。見覚えがある顔をチラチラと確認しながら、どこで会ったのかを考える。頑張れ俺の脳細胞。こんなに優しくて親切な人のことだからきっと、ここじゃない場所で会って、そうしてまた俺が助けられたりしたんだろう。想像には難くないけれど、その助けられるようなシチュエーションにどうも心当たりがない。別れ話はドライブの助手席が定番だったし、別れるときはいつも相手から何考えているのかわからないと言われ、最終的に俺が悪いことをしたというような話の流れに持ち込まれてしまうのだ。今回は、イレギュラーこそあったものの俺のせいでだめになったわけではない、はず。だから、ちょっと周りが見えないだけで、ちょっとやり方が強引すぎただけで、悪いやつじゃなかったのかもしれない。いやあ、でもどうだろうな。行為がうまくいかないからって諦めてノンケになりますなんて宣言をするようなやつだから、わかんない。最近の人間は諦めが早すぎるんだよ。ねえ、タカナシさん。


「あの、助けていただいてありがとうございました」

「いいえー……ほら、いつも良くしてくれるから。お礼みたいなものを兼ねているよ」


いつも良くしているって誰がだろう。釈然としない、けれども胸の奥がちょっと暖まるような言葉をもらって、ようやく俺は自宅方面に向かって歩き出した。しばらくそこに止まっていた小鳥遊さんはこちらをずっと見ているだけで、人混みから離れようとしない。人酔いとかしないひとなのかな、だとしたらちょっとうらやましい気持ちがある。いつも良くしてくれる、って、誰が良くしているんだろう。わからない。わからないものをわからないで放置するのがあまり好きじゃないけれど、いつも、なんて言うくらいだからまた会えるかもしれない。会えますように。もう一度振り返って、小鳥遊さんに手を振って、そうして俺は歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る