第47話

 そんな様子を、悠司は目を細めて見守っていた。


 開業した伊豆の施設は順調だった。

 怪文書のことなど始めからなかったかのように、入居者もその家族も、伊豆の風光明媚な環境に満足している。

 そのように施設長から報告を受けた。

 安堵した紗英は、次の案件に取りかかるべく、気合いを入れ直した。

 伊豆の施設が開業してから二週間ほど経過したある日、会社に来客があった。

 突然フロアに入ってきた中年の男性は、にこやかに挨拶する。

「やあ、みなさん。がんばってるかな」

 どなただろう。

 紗英が首を捻っていると、驚いた顔をした悠司が席を立ち上がった。

「叔父さん! 突然、どうしたんですか」

「悠司。ちょっと話があるんだ」

 どうやら男性は悠司の叔父らしい。

 気さくに会社に入ってきたので、もしかしたら関連会社の役員かもしれない。

「仕事の話ですか?」

「いや、違う。見合いの話だ。別室でいいか?」

 どきりと、紗英の胸が不穏に波打つ。

 ――お見合い……⁉

 眉根を寄せた悠司は、叔父を促した。

「職場なのに困りますよ。とにかく役員室へ行きましょう」

「どうせいずれはおまえの会社になるんだから、遠慮することないだろう。――ああ、そこのきみ、お茶を持ってきてくれ」

 叔父に指名された紗英は身を強張らせたが、咄嗟に返事をする。

「か、かしこまりました」

 ふたりは同じフロアにある役員室へと向かった。

 ごくりと息を呑んだ紗英は平気なふりをして、給湯室へ足を向ける。

 誰もいない給湯室でお茶を準備した紗英は、つい呟いた。

「……悠司さんが、結婚……?」

 彼は御曹司なのだから、いずれはお金持ちの令嬢と結婚する未来がある。

 それはわかりきっていたことだ。

 だからこそ、紗英とはかりそめの恋人なのだから。

 わかっていたはずなのに、感情が納得できなくて、胸がきりきりと痛い。

 深呼吸をして息を整えた紗英は、平常心を装い、役員室にお茶を運んだ。

「失礼します」

 室内では、悠司と向かい合わせにソファに腰かけた叔父が、お見合い写真を開いて懸命に話している。テーブルにお茶を置いた紗英には目もくれなかった。

「だからな、今回こそは私の顔を立ててくれないと困るんだ。会うだけならいいだろう。森山製菓の社長令嬢だぞ」

「何度言われても、お断りします」

「恋人でもいるのか?」

 その問いに、どきりとする。

 動揺した紗英は、悠司の前に置こうとした茶碗を取り落としそうになった。

「それは――」

 だが悠司が答える前に、叔父が捲し立てた。

「恋人でも愛人でも、何人いようがいいじゃないか。結婚しても囲えばいいんだからな。私だってそうしたさ」

「叔父さんの武勇伝はけっこうですよ」

「おまえだってわかってるだろ? 御曹司の身分で、ただの女と結婚するわけにはいかないってことをな。結婚と恋愛は別物だ」

 どうにかお茶を出し終えた紗英は、礼をすると部屋を退出した。

 体が小刻みに震えるのを抑えられない。

 嗚咽を押し殺した紗英は、誰もいないロッカールームに入った。

「うっ……うう……」

 口元に手を当てて、泣き声をこらえる。

 眦からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。

 恋人がいるのか、という叔父からの問いに、悠司は答えなかった。

 もし、「この人こそ俺の恋人だ」と彼が言ってくれたなら、紗英は安心できたかもしれない。

 だが、そんなわけはなかった。

 たとえ悠司がはっきり言ってくれたとしても、叔父から反対されるのは目に見えている。

 彼の叔父が言う通り、御曹司の悠司が、ただの女と結婚するわけにはいかない。紗英は社長令嬢でもなんでもない、ただの女なのだから。せいぜい、愛人に収まるしかないくらいだ。

 でも、そんなのは嫌……。私は、悠司さんの、たったひとりの女になりたい……。

 紗英は今頃になって、胸に本音が溢れた。

 悠司の、本物の恋人になりたい。かりそめの恋人でいたくない。そして、悠司と結婚したかった。彼とずっと一緒にいたい。

 だけど理性が、それは叶わないと教えてくる。

 もうとっくにわかっていたことなのに、悠司と一緒にいて、彼の優しさに触れているうちに、もしかしたら本物の恋人になれるかも、なんていう強欲な願いが滲み出てしまっていた。

「諦めないと、いけない……」

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