第46話
ごくりと唾を呑み込んだ木村は、うつむいた。先ほどまで紗英を糾弾していた勢いはすっかり失われ、彼女の顔は青ざめている。
「……できません」
「なぜだね? 山岡くんは、きみが海東さんに濡れ衣を着せていると証言している。そもそも海東さんは伊豆の担当者なので、このような怪文書をばらまくメリットがない」
「わたしにはあるっていうんですか⁉ わたしだって、そんなことするメリットありません!」
「では、それを証明してくれ。私物も含めて、USBメモリを見せてくれるね。それから土曜日にきみがなにをしていたのか、行動を証明できるものを提出してほしい。コンビニのレシートなどはあるかな?」
ぎりっと奥歯を噛みしめた木村は、怨念のように呟いた。
「私が悪いんじゃない……私じゃ……」
木村のバッグを確認した結果、文書のファイルが入ったUSBメモリが発見された。山岡の証言通り、彼女は早朝に紗英のパソコンを操作して、ファイルを移動させていた。
さらに彼女のバッグからは、郵便局で切手百枚分を購入したレシートが発見された。
彼女は家のノートパソコンで作成した怪文書を、誰もいないときに会社のプリンターで出力し、それをわざわざ家に持ち帰って会社の封筒に入れ、土曜日に郵送していた。契約者の住所などの情報は社内で共有しているので、木村が利用するのは簡単だった。
郵便切手を購入したレシートが残されていたのは、経費として申請しようとして踏み留まったからだそうだ。
経理に提出したら、怪文書を郵送した証拠として残ってしまう。
かといって、会社を経由して郵送したらそれもまた証拠が残り、すぐに犯人が判明する。
文書を出力する紙代をケチるために会社のプリンターを使ったのはいいが、百枚もの郵便切手がなくなったら、誰かが木村が使用したと気づいてしまうだろう。
切手代を自費で出すしかないという事態が悔しかったと、木村は語った。
本部長は身勝手な木村を厳しく叱責した。
だが、なぜ社員の彼女が会社に損失を与えることをして、紗英に罪をなすりつけようとしたのかというと、木村は口を割らなかった。
木村美由紀は自己都合により退職した。
紗英の憶測だが、おそらく木村は紗英と悠司の関係に気づいていたのではないだろうか。悠司に想いを寄せていた彼女は、紗英が退職に追い込まれたら自分にチャンスがあると思ったのかもしれない。
そう思うと哀れみもあるが、彼女のしたことは許されることではない。
木村が怪文書を郵送した犯人だということは、社内のみの秘匿とされた。
伊豆の契約者には改めて電話で、怪文書は弊社を騙ったイタズラであることを丁寧に説明した。その結果、信用してくれた顧客たちは誰ひとり解約には至らなかった。
紗英の無実が証明されたのは、悠司と山岡のおかげだ。
会社を辞めることにならなくて、本当によかった。紗英はふたりに感謝を伝えた。
そして予定通り、次の週に伊豆の介護施設は開業を迎えた。
悠司とともに伊豆の施設を訪れた紗英は、引っ越し作業を行う入居者やその家族を見守る。
「よかったですね。無事にオープンできて」
「ああ。一時はどうなることかと思ったが、解約が一件も出なくてよかった」
不安になっていた契約者たちも、事実無根のイタズラであると信じてくれた。もちろん説明には悠司や、ほかの社員たちも手伝ってくれた。
紗英は彼にだけ聞こえるように、ぽつりと呟く。
「ありがとうございました。私の無実を証明してくれて」
「明らかにおかしいと思ったからな。あとは証拠を出すだけだった」
「悠司さんが私を信じてくれたことが、嬉しかったです」
「当たり前だろ。きみがあんなことをするわけない。しかも消印が土曜日だぞ。俺とマンションで愛し合ってるのに、どうやって俺の目をかいくぐるんだよ」
かぁっと、紗英は頬を朱に染めた。
悠司が紗英と一緒にいたと、アリバイを証明したことで、ふたりは恋人なのだと周囲の知るところとなってしまった。
「みなさんの温かい目が居たたまれないです……。仮の恋人だと説明したほうがいいですかね?」
「いや……周りがなんと言おうが放っておいていい」
紗英はゆるゆると頷いた。
ふたりの関係は、かりそめのまま続けられるということなのだろうか。
下を向きそうになったとき、ひとりの女性が紗英に近づいてきた。
「海東さん、こんにちは。ようやくこの日を迎えられました」
彼女は父親が乗った車椅子を押している。紗英が担当して、電話でも冷静に対応してくれたお客様だ。
紗英は深く頭を下げた。
「こんにちは。一時はお騒がせして申し訳ありませんでした」
「いいのよ、もう。世の中には悪い人もいるものよね。きっと暇人でしょう。海東さんはなにも悪くないんだから、気にしないで」
「ありがとうございます。お引っ越しを、お手伝いさせてください」
紗英は率先して入居者を部屋に案内したり、家族に施設内の説明をした。
担当した契約者たちは、みな安堵の表情を見せて、紗英に感謝を述べた。
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