第22話

「好きだよ」

 ぼうっとした紗英は、真摯な双眸で告げられたその言葉に酔いしれる。

 なんて心地いい響きなのだろう。

 悠司さんが、私を好き……。

 けれど次の瞬間、はっとして、取り決めた恋人契約について思い出した。

 悠司が「好き」と言うのは、かりそめの恋人なのだから、契約のうちなのだ。本気ではない。

 私もあなたが好き、と言えたら、どんなにいいだろう。

 けれど紗英は戸惑うばかりで、なにも返せなかった。

 悠司のことはもちろん嫌いではない。もしかしたら、好きかもしれない。

 だが自分の気持ちにも整理がついていないのに、恋人契約しているという理由で恋情を口にするのは、なんだか抵抗があった。

 うつむいている紗英を、悠司はなにも言わずに肩を抱いていた。

 そのとき、強い風が吹いてきた。

 悠司は紗英を守るように、そっと腕で包み込む。

「風邪を引いたらいけない。そろそろ戻ろうか」

「そうですね」

 悠司が助手席側のドアを開けたので、紗英は車に乗り込んだ。回り込んだ彼も運転席に着く。

 だが悠司はすぐにエンジンをかけず、ジャケットの懐からなにかを取り出した。

「これ」

「……なんでしょう?」

 てのひらにのるほどの白い紙袋を手渡される。

 ふかふかしたものが入っているのが、手触りでわかった。

「開けていいですか?」

「うん」

 紙袋を開けると、そこに入っていたのは、ピンクのシュシュだった。

キラキラしたサテン生地が、ウィンドウから射し込むかすかな光に輝く。

「あの、これは……」

「プレゼントだ。ピンクが好きみたいだから」

 職場で、シュシュの名称を教えたことを悠司は覚えていたのだ。さらに体を重ねたときの下着の色がピンクだったので、それになぞらえたのだろう。

 もしかしたら彼は、みすぼらしいライトグリーンのシュシュを見て、哀れに思ったのかもしれない。

 でも、プレゼントをもらえたことは素直に嬉しかった。

「もらっていいんですか?」

「もちろん。つけてあげるよ」

 ピンク色のシュシュを手にした悠司は、優しく紗英の髪をかき寄せる。

 紗英は彼が髪をまとめやすいよう、少し頭を前に傾けた。

 悠司の指先がうなじに触れて、くすぐったい。

 まとめた髪の束をシュシュに通した悠司は、シュシュを捻ってもう一度髪を通した。

「はい、できた。とても可愛いな」

「シュシュが……ですか?」

「違うよ。きみが可愛いと言ってる」

 フッと笑った悠司は、愛しげに目を細めて紗英を見つめた。

 可愛いと言われて、紗英の顔が朱に染まる。

「ありがとうございます。シュシュ、大切にしますね」

「うん。気に入ってくれたなら嬉しいよ」

 エンジンをかけた悠司は、ライトを点灯した。

 車はゆっくりと、煌めく夜景を残して走り出す。

 紗英はそっと、髪の後ろに結ばれたシュシュに指先で触れた。

 新品のサテンのシュシュはさらりとしていて、とても肌触りがよかった。

 プレゼントをもらえるなんて思わなくて、びっくりしたけれど、今も心がふわふわと浮き立っていた。

 そうだ。悠司さんにお返ししたいな……なにがいいかな……。

 なにが欲しいですかと訊ねるのも無粋な気がするので、紗英はあれこれと考えた。

 突然高級品を贈ったら悠司は驚いてしまうだろうから、シュシュの値段に見合ったものがよい。ハンカチとか、キーケース、もしくは靴下……なんて、ちょっと生活感が出てしまうだろうか。

 ちらりと悠司の顔を見ると、次々と移りゆく街灯に照らされた横顔に陰影が刻まれていた。

「今日は一日付き合ってくれて、ありがとう。とても楽しかったよ」

「私のほうこそ、ありがとうございました。悠司さんのおかげで思い出に残る一日を過ごせました」

「思い出か……。なんだか今日が最後みたいな言い方するね」

「えっ? 最後じゃ……ないんですか?」

 かりそめの恋人なのだから、一度きりのデートかと思っていた。

 もしかして、次もあるのだろうか。

 悠司は焦ったように前のめりになると、苦笑を零した。

「おいおい。一回だけなんて言ってないだろ」

「そうですけど……」

 じゃあ、何回あるの? とは、怖くて聞けなかった。

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