第14話

「わかった。それじゃあ、終業後に会議室で。今度は逃がさないからな」

 どうにか納得してくれたようだ。

 唇に弧を描いた悠司は、腕を下ろして紗英を解放した。

 ほっとした紗英は、誰かに見つからないうちにエレベーターホールへ向かおうとする。

 だがその間際、悠司の唇が耳朶を掠めた。

「あっ」

 熱くて柔らかい感触に、かぁっと顔が火照る。

 耳を手で覆った紗英は、驚いて悠司に目をやる。

「残念」

 そう呟くと、彼は踵を返してフロアに戻っていった。

 まるで獰猛な肉食獣が、獲物を逃して惜しい顔をしているようだ。

 でもその顔には、次はそうはいかないという余裕が滲み出ていた。

 呆然とした紗英は、悠司が去っていった廊下を見つめていた。

 残念ということは、まさか、唇にキスするつもりだったの……⁉

 平然として艶めいたことを仕掛ける悠司に翻弄されている。

 でも、それが嫌ではないから困ってしまう。

 耳が赤くなっていないか気になった紗英は、シュシュを外して、セミロングの髪で隠す。

 エレベーターに乗っている最中も気になってしまい、何度も髪をいじった。

 もう……悠司さんったら……。

 困っているはずなのに、紗英の鼓動は軽やかに脈打つ。胸がときめくのを、どうしても抑えられなかった。


 やがて本日の業務は無事に終了した。

 社員が続々と帰宅する中、悠司は書類を眺めている。

 紗英も彼と会議室で話をする予定があるので、パソコンで顧客情報を見直していた。

 すると、木村が笑みを浮かべて悠司のデスクに近づく。

「桐島課長、このあとお食事に行きませんか? ちょっと相談したいことがあるんです」

 堂々と食事に誘えるのは、自分が男性から断られない美人だと、彼女自身が知っているからだろう。悠司を狙っている女性社員は多いものの、人前で誘うのは勇気がいるため、表立って誘うことは誰もしない。

 パソコンの画面を見つめながら、紗英は少し不安になった。

 悠司が木村との食事のほうを選んだなら、会議室で会う約束は反故されることになる。それとも会議室で話してから、彼女と食事に行くという選択をするのだろうか。

 悠司は紗英と木村の双方の上司であるので、どちらを選んだから不誠実であるなどということにはならない。

 でも、木村さんと行かないでほしいな……。

 なんとなくそう思った。私を選んでほしい、という欲が紗英の胸のうちに湧いていた。

 かといって、悠司が紗英となにを話すというのだろう。彼はきっと、ヤリ逃げした謝罪を求めているというだけなのに。

 書類から目を外した悠司は、ちらりと木村を見た。

 だが、彼女の顔は直視しない。

「相談したいこととは? ここで話してくれ」

「ここでは言えないことなんです。お食事しながらお話ししたいです」

「職場で言えないなら、プライベートにまつわることじゃないのか。そういった相談にはのれない」

 ばっさりと断った悠司に、木村は眉をひそめた。

 誘いを断られたという事実が、彼女には受け入れがたいのだろう。

 木村は呆然として、しばらく悠司の傍に立っていたが、彼がそれ以上なにも言うことがないのだと気づき、唇を噛みしめて背を向けた。

 紗英は内心で、ほっとしていた。

 ということは……やっぱり、ヤリ逃げの謝罪をしてほしいと思ってるのかな。

 ごくりと唾を呑み込み、弁明を考える。

 その間にも、社員たちはみんなフロアから退出していった。木村は怒ったように足音を荒くして出ていった。

 紗英と悠司以外、誰もいなくなると、すっと悠司は席を立つ。

 彼は紗英のデスクにやってくると、トントンと指先で机の端を叩いた。

「さて。行こうか」

「……はい」

 首を竦めた紗英は、席を立ち上がる。

 まるで悪さをした猫がご主人様に叱られるようである。

 悠司のあとについて、同じフロアにある会議室に入った。

 こぢんまりとした第二会議室は、二十名ほどが入れる。

 彼は照明を点けると、会議室に鍵をかける。

 終業後なので、辺りにひと気はなかった。

 ふたりきりになると、紗英は真っ先に頭を下げる。

「あのっ、先日はヤリ逃……先に帰ってしまい、申し訳ありませんでした」

 謝罪した紗英を目にした悠司は、長い睫毛を瞬かせる。

 彼は紗英に近づくと、優しく両肩を手で包み込んだ。

「謝らなくていいんだよ。俺が怒っていると思ったの?」

「……はい。謝罪が必要かなと思いました」

 小さく息を吐いた悠司は、目元を緩める。

「ショックではあったけどね。きみがいないと知って、バスローブでロビーまで捜しに行った俺の醜態を想像できる?」

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