牧本露伴のSF小噺

牧本露伴

聞こえますか、地球

静寂。絶対零度の闇と、ところどころに輝く星たち。

人が宇宙と呼ぶところ、ちょうど地球と月の間ぐらいの場所に、たった一人。男の乗った救命ポッドが浮かんでいた。当時の科学の粋を結集して作られたその命のゆりかごから地球を見つめ、男は色とりどりの計器の前で、電波を発信していた。命をつなぎ留められる最低限のバッテリーを残して、細く、弱く。


鴨志田「聞こえますか、聞こえますか地球。私の名前は鴨志田 幸雄。三十五歳、医者です。私は西暦二千三十三年、種子島宇宙センターから打ち上げられたノストロモ号のクルーの一人です。太陽風を受けて恒星間での航行を実現するはずだったノストロモ号は二千三十四年、打ち上げからちょうど一年目にスペースデブリが衝突し致命的な事故が発生しました。メインエンジンとサブエンジンの大半を失い、地球の周回軌道から外れてしまったのです。我々クルー六人はそのままでは宇宙をさまよい、やがて生命維持装置の電力を失い、死を待つだけの運命でした。


時間が残り少ない中、わずかな可能性にかけようといったのはキャプテンのパイロット、ラジでした。この船すべての電力をかき集めて救命ポッドに送る。ポッドのエンジン出力では地球に戻ることが不可能なことは物理学者、イワンの計算でわかっていましたが、彼は木星の重力を利用したスイングバイ方式で…すなわち、木星をぐるっと回って、その勢いで地球に再び帰ることができるかもしれないと言いました。うまくいく可能性はほぼゼロ、そのうえそれにはとてつもない時間がかかります。そのため、宇宙生理学者のメイリンが救命ポッドのコールドスリープ装置を使い、帰ってこられるその日まで眠り続けることを提案しました。


計算上は、月と地球の間で目を覚ますはずです。そこから信号を地球に送れば、地球からきっと助けが来るでしょう。この理論上完璧な計画が組みあがった時、我々は地球に帰れるかもしれない、と狂喜しました。地球の土を再び踏み、家族を抱きしめることがもしかしたら、と。ですがコンピューター技師のチャーリィがノストロモ号のメインコンピュータ「カフカ」とともにこの計画の大きな問題点を二つ、見つけました。


一つは、木星の重力を利用し、途中ただの一つも隕石にぶつからないで地球に帰ってこられたとしても、…それは約三百年後だという事。そしてそれと同じぐらい大きな問題は、救命ポッドに乗り込めるのは我々六人のクルーのうち、たった一人という事でした。


公平にくじ引きをしようと言い出したのはエンジニアのジョーンズでした。彼はすぐにコンピュータの仕様書を細く破りその一本の端を赤く塗り、簡単なくじを作りました。そしてその赤いくじを当てたのは、私、鴨志田だったのです。そして今私は、月と地球の間をゆっくりと漂っています。船内時計では今は西暦二千三百三十五年。多少のずれはあったものの、コールドスリープから目を覚まして窓の外を見て、そこに青い地球を見た時の感動は、どれほどだったでしょう。


頼りになるキャプテンのラジ。祖国インドに誇りを持ち、奥さんと五人の子供の写真をいつも肌身離さず持っていた。ロシアのイワンは、出発前にこっそり荷物に紛れ込ませていたウォッカを没収されたと管制官に怒っていたっけ。中国のメイリンは紅一点で、正直クルーの全員が彼女に淡い恋心を抱いていた。博学で、思いやりがあり、宇宙に咲いた一輪の花のようだと僕が言ったら、地上に戻ったらもう一度その言葉を聞きたい、と言ってくれた。カナダのコンピューター技師、チャーリーが簡単に組んでくれたコンピューターゲームは、我々クルーがこの絶望的な閉鎖空間が生む、退屈と戦うための大事な武器だった。仕事にまじめで、いつもしかめっ面をしていたエンジニアのジョーンズ。アメリカの俳優に似ているね、と言ったら珍しく少しはにかんだのを覚えている。


救命ポッドの窓から見たわれらのノストロモ号。それは本当に、残酷なまでにボロボロでした。そして、船の窓から僕を見送る五人の姿。少しずつ離れていくみんなが漆黒の宇宙の只の点になってしまってからも、僕はしばらく窓からそれを眺めていました。


今鴨志田は、その同じ窓から、地球を見ている。仲間が、五人が、帰りたいと希(こいねが)い、そして叶わなかった地球。目を覚ましてから三時間。生命維持装置の限界まであと一時間もない。ここから見る地球には、学生の頃散々見た地図のように国や文化を分ける線などどこにもない。ただ、青く澄んだ海と、緑と土色の大地、そしてそれらをやさしく包み込む雲が見えるだけだ。電波は本当に地球に届いているのだろうか。太陽に照らされて青く光る地球は沈黙を保ったままだ。もしかしたら、三百年で人は滅んでしまったのかもしれない。


鴨志田「聞こえますか。聞こえますか地球。僕は、帰ってきました。地球で生まれ、地球で育った人間という一種族がその重力から逃れ、長い長い旅をして、再びあなたの所に帰ってきたんです。聞こえますか、地球。僕は、帰ってきたんです」


静寂。絶対零度の闇と、ところどころに輝く星たち。

人が宇宙と呼ぶところ、ちょうど地球と月の間ぐらいの場所に、たった一人。男の乗った救命ポッドが浮かんでいる。あと五十分もするとバッテリーが切れ、まず二酸化炭素を分解する機能が止まる。次に温度を維持できなくなり、救命ポッドの中はすぐにその宇宙の温度と同じになる。


鴨志田「…満足だ。ここまで帰ってこれたんだ。みんな、僕は地球に帰ってきたぞ。僕たちの故郷に、帰ってこられたんだ」


鴨志田は愛おしそうに、青く輝く地球が見える窓を撫ぜながら、目を閉じた。


その時だった。鴨志田の耳に、スピーカーからわずかなノイズが届いた。それはチューニング独特の甲高い音を立てながら大きくなり、次第にその音に何かが混ざりつつあった。それは、人の声だった。どこの国のものとも判別がつかない奇妙なアクセントが混ざっている英語だが、はっきりとした男性の声だった。


オペレーター「聞こえますか、こちら地球、聞こえますか、ノストロモ号救命ポッドの乗組員。こちら地球、ケープカナベラル宇宙センター。…驚いたな、本当に三百年かけて帰ってきやがった!奇跡だ。知ってるかい!あんた、歴史の教科書に載っているんだぜ。近くのステーションから今からポッド回収のためのシャトルをすぐに送る」


鴨志田「「…ただいま」


オペレーター「…おかえりなさい。俺のじいさまも、親父も、あんたを待ってたんだぜ」


スピーカーの向こう側にあふれる喜びの声を聴きながら、鴨志田は窓の外を見た。

そこから見える地球は相変わらず青く、美しかった。


おしまい

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