第9話 なにもない
お父ちゃんも、お母ちゃんも、翼も。誰も帰ってこない家に、ひとりで帰宅する。玄関にある妹の靴は、長らく履かれていないから、埃が積もっている。玄関ポーチにある妹が育てていた花は枯れた。玄関にある黒い帽子は妹のもので、学校へ行くとき、いつもそれを被っていた。
廊下を歩いて、突き当たりに妹の部屋がある。女の子の部屋で、俺が掃除に入ると、いつも、「置き場所わかんなくなるから動かさないで!」と叱られてたっけ。でも、キレイにしたほうがいいと思うんだよね。だってさあ、足の踏み場もない部屋って過ごしづらいじゃん。
その隣に俺の部屋があって、俺の部屋には昔から物がなかった。
布団もなかった。
リビングのソファで寝て、起きたら背中が痛い日々。どうせ俺は生きているだけだった。思い返してみれば、俺は翼の為に生きているだけだった。いまこうして生きているのは、ただの、延長線。
死んでも誰も、文句は言わない。
「………………………………………………」
──ピンポーン。
「………………………………誰だ……?」
引き戸を少しだけ開けて見ると、そこにいたのは、翼の彼氏だった。名前は
「翼はもう帰らないよ」
「お兄さんに会いに来たんですよ……また目の下に隈なんか作って……ちゃんとご飯は食べてるんですか」
「…………………………………………」
「お兄さん……?」
「…………食べてるよ。てめえ様はどうだい? あんまり細すぎるから木の枝みたいに見えちまうなあ、俺。飯でも奢ろうか?」
「食べてますよ……。……。……お兄さん、配信者になったんですか」
「…………なんで?」
「いや……その、あの……今日、ふと……あの……ダンジョンの配信一覧見てたら……お兄さんみたいな背格好の人がいたから……」
「シルエットだけで、俺だとでも思ったかい?」
「…………えっと。……はい、すいません。でも、口癖も」
「口癖?」
「ほら……『アララ』ってやつ」
口癖になってたのか。
「ala-la……やっちゃったね。今回のしくじり先生は俺みたいだ。……いや、いつも俺か。でもまぁ、大丈夫さ! 俺夢があるんだ! 誰よりも強い……そう、配信のプロになるんだ! 君も乗るかい?」
「いいえ。……お兄さん、今日はお兄さんに話があって来たんですよ。昔……」
日下部くんは、こちらの顔色を伺いながら、申し訳無さそうに語り出す。
「……翼に頼まれて、あの……お2人のご両親について、一緒に調べたことがあるんです。『お兄ちゃんの言い分に矛盾がある』って。ほら、翼って……知らないことは知りたくなる、って性分でしょ? そこで、ご両親の心中未遂の件とか、お兄さんが翼を頑張って助けたところとか、色々な人に聞いてわかったんです」
「…………は?」
いつの話だ?
いつの話だ?
いつの話だ?
「翼、言ってたんです。『やっぱりお兄さんは優しい』って。死んだ両親のことを落とさずに、何事もなかったように、ひとりで翼を育てて……贅沢したいだろうに、そんな事1回も言った事なくて、どんなに翼がグレても、めげずに毎日笑いかけてあげてて、だから翼言ってたんです。『お兄ちゃんのおかげで大きくなれた』って。翼、言ってたんですよ。『もし、お兄さんが滝翔太郎じゃなくなった時は、ふたりで優しくてひょうきんな滝翔太郎に戻そう』って……!」
「そうか。翼のために頑張ってくれたんだな。ありがとう、日下部くん。てめえ様は優しいね」
日下部くんは押し出すように続けた。
「あなたは滝翔太郎ですか」
ややあって、答える。
「当たり前だ」
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