微睡 - 1 (過去編)

 全てはあの微睡から始まった。


 ピキリ。硬いものにひびが入るような音がすぐ隣から聞こえてくる。

 まだ眠い、あともう少し。あともう少しだけ寝かせてくれ。

 昨日は残業で疲れたんだ。今日は休日、早く起きる理由はない。


 ピキリピキリ。

 煩い、目覚ましは今日かけていない。じゃあこの目を覚ますような音は一体何なんだ。

 しかも少し眩しい。カーテンは閉め切っていたはずなのに、暗闇の隙間から光が差し込んでくる。


「……かな、まだかな、もう少しで生まれるはずなんだけどな。」

 話声?どうして話し声が聞こえるんだ?私はボロアパートに1人暮らしをしているはずなのに。

 まさか泥棒?泥棒にしては声が幼いし話している内容もよく分からない。

 目を開いて確認しようにも、目が開かない。いや、開いているのか?こんなに外が眩しいなら部屋の中がぼんやりと見えるはずなのに、何も見えない。

 見えるのは私を覆う暗闇と、ヒビのような隙間から見える眩しい光。ここはどこだ?


「……だね、頑張って!」

 無邪気で透き通った声が聞こえる。太陽の様に眩しく、鈴が鳴るような美しい声。

 途端に眠気が吹き飛んだ。何故かはわからない、しかしここからすぐに出なければ。

 身体が何故かぬるぬるする。普段使いこんでいたはずの手足が上手く動かない。知らない神経が背中と尻から生えている。

 それでも精一杯バタバタと動かし、何とかここから抜け出そうと暴れ回る。このヒビだ、ヒビを大きくすればいい。


 私を包む硬い殻に何度も何度も頭突きをし、手に生えた短い爪でガリガリと引っ掻き回す。

 ここから出よう。こんな冷たい場所から抜け出して、早くあの暖かい光の下へ出ていこう。早く、早く。


 ピキピキピキ。

 連鎖するような音が鳴り響き、殻は敗れ去った。光は大きく広がり、私は最後の体当たりで外の世界へと飛び出した。


「わああ、生まれた!生まれたね、おめでとう!」

 きゃいきゃいと祝福する声が降り注ぎ、私はゆっくりと目を開けた。


 眩しい太陽、真っ白な宮殿。周囲を飛び回る不思議な生き物たち。

 何色にも染まらない無垢なものだけが、私の目の前に広がる光景だった。


「誕生おめでとう!君は『12番目』の聖龍、今日からここ、天界が君の家だよ!」

 長い首と尾がゆっくりとしなり、私の頭上に影を作る。散りばめられた鱗は太陽光で真珠の様な構造色を生み出し、腹部に広がる柔らかい羽毛には埃1つついていない。

 ほっそりとした背中からは純白の翼が広がり、彼らが羽ばたく度に温かい風が私の頬を撫でた。

 東部に生えた角は水晶よりも透き通り、瞼の隙間から覗く瞳はどんな宝石よりも美しい。


 正に神の遣いというべき姿。そんな生き物たちが私を取り囲み、祝福していた。


「……聖龍?」

 何もかもが理解できなかった。目の前の生き物たちの言葉も、この状況も。だって、私はつい昨日までごく普通の社会人として生活を送っていたはず。

 どう間違ってもこんなファンタジー感溢れる生き物たちと真っ白な世界で戯れられるような世界線にはいなかった。

 夢?それにしては感覚がリアルすぎるし、身を軽く抓ってみればちょっと痛い。

 というか、抓った手も何だかおかしい。肌色の5本指が目立つ手はいつの間にか真っ白なへと変貌を遂げている。体の動かし方も何だかおかしい。いつものように2本足で立てない。


「ん?どうしたの?もしかして、立ち方が分からない?そうだよね、まだ生まれたばかりだもんね。立ち方は――こうだよ!」

 飛び回る子等の中でも一際小さい――とは言っても私よりは一回り大きい――子が目の前でふんぞり返り、シャキッと4本足で立った。翼をぴんと広げ、尾をくねらせ、長い首を擡げている。

 成程、この姿は確かに龍だ。その輝かしい容姿と併せても、聖なる龍と言われれば納得できる。

 試しに真似て前足と後ろ足を揃えてみると、すんなりと立ち事ができた。何なら無理に2本足で立とうとしていた時よりもしっくりくる。


 輝く大理石の様な床が太陽光を反射し、私のありのままの姿を映し出している。

 そこに映る姿は紛れもなく、目の前の龍達と全く同じであった。


 どうやら私は、人間から聖龍なる存在に転生してしまったらしい。


「どうしたの『12番目』、元気がないね?卵の中が恋しいの?」

「元気出して、12番目。ここもいい所だよ、皆優しいし、暖かいし、それに、沢山の事を知れるんだ!」

 余りに現実離れした事実に途方に暮れていると、周りの同種達が励ましてくれた。皆純粋に私の事を心配してくれているように思う。


「……ちょっと、混乱しちゃって。」

「そうなんだ!……え!待って、この子喋った!生まれたばかりなのにこの子喋ったよ!流石、『2番目』……あ、いや、今は『1番目』だった。あの1番目が呼んだだけのことはあるね!」

「1番目が言っていたんだ、今回の12番目は特別だって。なんと異世界から死者の魂を呼び寄せてくるからって。ねえ12番目、そうなの?」

 彼らは私に混乱する隙を与えず、興味津々に視界に映り込んでくる。何とも陽気な種族だ。

 それにしても、12番目だの1番目だの、その番号は一体何なんだろう。私達の名前だろうか。それにしては随分無機質だが……。


「こら10番目、11番目。12番目が困っているでしょう?この子はまだこの世界に生まれたばっかり。あんまり色々聞いたらダメ、まずはこの世界の空気を吸って、どんなところか自分で見てもらいましょう。その後、この愛おしき世界や我々の役割について説明してあげるの。分かった?」

「はーい、それもそうだね。12番目、こっちに飛んでおいで。大丈夫、絶対落ちたりしないから!」

 10番目と呼ばれた龍がふわりと浮き上がり、私を呼んだ。

 そう言われても飛び方が分からない。試しにばたばたと翼をはためかせてみると、まるで元から重力なんてなかったかのように、難なく体が浮き上がった。

 鳥の力強い飛翔とは明らかに違う、非科学的な力で浮いているようだ。


「わ、飛べた……」

「そうだよ、私達聖龍は重力を無視できるんだ。広い世界のどこへでも飛んでいけるよ!ほら、下を見てごらん。」


 その子の言う通りに下を見ると、


「凄い……」

 そこには世界のが広がっていた。

 私が生まれた地は広大な浮島のようで、支柱もなく空中に静かに漂っている。そんな地の下方は分厚い雲の様なものに覆われて直接視認できない。

 それでも見える。この下に無限に広がる世界、その大地で生きる生命が。まるで目の前にあるかのように細部まで脳裏に焼き付いてくる。


「凄いでしょ?これも聖龍の能力だよ。千里眼っていうの。いつもこの能力を使って地上の様子を見てお勉強しているんだよ!……生き物達が頑張って生きている姿を見て、観察して、理解するんだ。それが僕たちの使命の1つでもあるんだよ。」

 10番目はこちらを向いて微笑んだ。鱗に覆われた龍の表情は人間よりも分かりにくい。それでも、私にはその子の微笑みが見えた。

「そろそろ向こうに戻ろうか。皆12番目が生まれるのを待っていたんだ、いっぱいお話しようね。時間はいっぱいあるんだから。」

「……うん、そうする。私、分からない事だらけで、今も頭の中が疑問でいっぱいなの。ねえ、色々教えてくれる?」

「勿論!何だって教えてあげるよ。なんたって君は皆が待ちに待った『12番目』なんだから。」


 空の飛び方なんて分からなかったはずなのに、息を吸うように、赤子が這うように誰に教わる訳でもなく飛べてしまう。

 どこまでも非現実的な情景が恐ろしいほど現実的で、ありのままの現状を受け入れてしまっている自分がいる。

 つい昨日までは確かに私は人間だった。でも、今となっては逆にそれが現実だったかも怪しい。


 卵から産まれた自分が、4つ脚を自然に動かす自分が、何の違和感もなく龍の言葉で会話する自分が何よりも自然な状態であると思っている。

 そんな私はきっと、既に龍になってしまった。人間の人生は終わり、新たな生を歩み始めているのだ。


 でも、悪くはない。聖龍というものがどんな存在かは分からないが、上手くやってみせよう。

 聖龍として、あの祝福してくれた仲間達と共に過ごしていこう。

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