41

 久美子は、おそらく、『見てはいけないもの』を見てしまった。

 その見てはいけないものとは、久美子が最後の最後の瞬間まで目を逸らすことができなかった、あの○○川の対岸に広がっていた風景だった。

 そこには『本当にたくさんの闇闇(やみやみ)』がいた。

 そのたくさんの闇闇たちは、氾濫する○○川の対岸から、(ほんのついさっきまで、久美子たちが自分たちの家を訪れるために、歩いていた場所だった)そのところどころ崩れ落ちてしまった道路沿いのところに立っていて、そこからじっと、氾濫する○○川を渡り、これからこの『世界の終わり』から逃げ出そうとしている、久美子たちに向かって(あるいは久美子一人に向かって)じっとその視線を向けて、巨大な怪物のような濁流に飲み込まれるその瞬間まで、……見つめていたのだった。

 その闇闇たちはまるで、久美子のことを恨んでいるかのような、あるいは哀れんでいるかのような、うらやましく思っているような、もしくは、久美子にばいばいと言っているかのような、あるいは久美子が川を渡れたことを喜んでいるような、反対に怒っているような、そんな不思議なたくさんの人たちのいろんな感情が混ざり合ったような、不思議な感覚を久美子に向かって投げつけていた。

 ……あれはいったいなに?

 ……『あの人たちは、いったい誰なの?』

 はぁはぁ、と大雨の降る中を巨大な深い緑色の森に向かって走りながら、久美子はそんなことをずっと考えていた。

 森の中に入ると木々が自然と傘の代わりになって、雨の強さが弱まった。

 久美子たち三人は走ることをやめないで、服がびしょ濡れのままでも、靴が茶色の泥で泥んこになっても、髪の毛がぼさぼさになっても、走ることをやめないで、雨に濡れたぐちゃぐちゃの土色の道の上を走り続けた。

 このころになると、久美子は走ることに疲れてきて、余計なことはだんだんと考えなくなっていた。(それが嬉しかった。今は余計なことはなにも考えたくなかった)

 このままのペースでいけば、もう直ぐに時雨谷に着く。

 時雨谷につけば、あとは、あの『長いトンネルの中に入り込むだけでいい』。

 長いトンネルの中に入って、そのトンネルの反対側にある出口まで(きっと、そこは別の世界に通じているはずだ)全力で走り続ければいいのだ。

 そうすれば、この悪夢は終わる。

 ……『全部が全部夢でした』ってことになって、私はきっといつものように自分の布団の中で、平和な三島家の私の家族のいる家の中で目を覚まして、そこにはいつもの田舎だけど平穏な○○町があって、そこには信くんとさゆりちゃんがいて、私は二人と一緒に大熊さんの運転する水色のバスに乗って、オンボロな木造二階建ての○○小学校に通学して、そこで優しい道草細道先生の授業を受けて、……、そんな当たり前の『私のよく知っている日常の世界の中で』暮らせるようになるんだ。

 きっとそうだ。

 そうなんだ。

 久美子は走る。

 でも、先頭を走っている信くんが急にその足を止めて、片手を下げて、後ろについてきていた二人に向かって『ストップ』の合図を出した。

 久美子は立ち止まり、その後ろにいたさゆりちゃんも立ち止まった。

「……どうしたの?」

 本当に小さな声で、信くんの顔の近くに自分の顔を寄せてから、さゆりちゃんがそう言った。

「……闇闇だ。やみやみがいる」

 小さな声で(前を向いたまま)、信くんが言った。

 久美子が道の先を見ると、確かにそこには闇闇がいた。

 ……その闇闇は道の真ん中に立っていて、この道を走ってくるであろう誰かを待ち構えるようにして、(まるでゲームのボスキャラのようだった)きょろきょろと周囲の風景を観察しながら、その場所に立っていた。

 三人はとりあえず、近くの茂みの中にその体を隠した。

(幸いなことにあの大雨によって、闇闇は久美子たちの接近にまだ気がついていないようだった)

「どうする、関谷。あいつもやるか?」

 ぎゅっとバットを握りながら、信くんが言った。

 その信くんの言葉にさゆりちゃんはゆっくりと首を左右に振った。

 それからさゆりちゃんはそっと、バットを握っている信くんの右手の上に自分の白い小さな手のひらをそっと乗せた。

 そんなさゆりちゃんの手のひらを、信くんはまるで珍しいものでも見るようにして、じっと見ていた。

「本当にそれしか方法がなくなったら、仕方がないのかもしれない。さっきのバスの上のように。でも、できれば如月くんには、こうした暴力的な解決方法は選んでほしくないの。甘い考えかもしれないけれど、……私はそう思っている」

 さゆりちゃんは言った。

 そのさゆりちゃんの言葉を聞いて、少し考えたあとで、雨降りの空を見上げてから、(雨に少しの間打たれてから)顔を戻した信くんは、にっこりといつものように白い歯を見せて笑って、「わかった。もう、できるだけバットは使わない」と信くんは言った。

 その言葉を聞いて、さゆりちゃんは本当に嬉しそうな顔で笑った。

「よかった」

 さゆりちゃんはなぜか久美子を見て、雨の中で、全身泥んこになりながら、にっこりと笑ってそう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る