26
「さゆりちゃん。トイレにいくの付き合って」
保健室から準備室の布団の中に戻って眠っていた久美子が、暗い部屋の中でさゆりちゃんに言った。
「うん。わかった」
さゆりちゃんは言う。
さゆりちゃんは眠っていはいなかった。
真っ暗な暗闇の中で、その大きな目を開けて、その闇の中にあるなにかをじっと見つめているようだった。
「ありがとう」久美子は言う。
「あんまり眠たくないから」
にっこりと笑ってさゆりちゃんは言った。
二人は、布団から抜け出して、そっとなるべく音を立てないようにして、準備室から真っ暗な廊下に出た。(信くんは相変わらず、ぐーぐーといびきを書きながら、ぐっすりと眠っていた。そんな信くんの眠っている姿を見て、久美子は思わずちょっとだけ笑ってしまった)
二人はざーという、真夜中の雨の降る音を聞きながら、一階の女子トイレに向かった。
二人は無言のままだった。
世界は沈黙していて、……真っ暗な闇の中には、あの闇闇が潜んでいて、そこからじっと久美子やさゆりちゃんのことを覗き込んでいるのではないか? というような妄想に久美子は襲われた。
さゆりちゃんの推理(この世界の仕組み)を聞いてから、久美子は今まで以上に、闇に(あるいは闇闇に)敏感になっているようだった。
心臓がどきどきした。
ドアを開けると、女子トイレの鏡が割れていた。
その蜘蛛の巣のようにひびが走った女子トイレの鏡を見て、思わず久美子は目を大きく見開いて驚いてしまった。
「ひどい。誰がこんなことを……」
久美子は言った。
「それは決まっている」
久美子とは違い冷静に割れた鏡を『観察している』さゆりちゃんが(いつもの冷静なさゆりちゃんの声で)言った。
「……それって、闇闇?」
久美子の声にこくんとさゆりちゃんはうなずいた。
久美子はぞっとしながら割れた鏡をもう一度見つめた。(その割れた鏡の中にはもちろん、久美子の顔が写り込んだ)
これをやった犯人が闇闇かどうかはわからない。(もちろん、闇闇だとは思うけど)
なぜ、こんなことをしたのかもわからない。(お前たちの企みは知っているぞ、とか、私たちは怒っているぞ、という意味なのかもしれない)
でもとりあえず、今日は一人でトイレにこなくてよかったと思った。
あんなに真っ暗な夜の中で、沈黙した廊下を歩いて、ざーという真夜中に降る雨の音を聞きながら、女子トイレにたどり着いて、こんな割れた鏡なんていうものを見てしまったら、きっと私はもうここから動くことができなくなって、みんなのいる準備室まで、帰ることができなくなってしまっただろう。
そんなことを久美子は思った。
「久美子ちゃん。なにいつまでも割れた鏡なんて見ているの?」トイレのドアを開けながらさゆりちゃんが言う。
「え? あ、うん。……ごめん」
そう言って、ちょっとだけ顔を赤くしてから、久美子はさゆりちゃんの隣のドアを開けて、トイレの個室の中に入って行った。
「もしかしたら、私が考えていた以上に、もうあんまり時間がないのかもしれない」
女子トイレからの帰り道で、さゆりちゃんはそう言った。
「それってどういうこと?」
久美子はあんまり怖い話は聞きたくなかったのだけど、もう今でも十分怖いし、なら、こうしてさゆりちゃんとこの世界の仕組みについての推理の話をしていたほうが気がまぎれるかな? と思って、そんな返事をした。(実際に気は紛れた)
「私は過去の○○町に起こった災害から推測して、タイムリミットが、三日後。久美子ちゃんが最初に違和感を感じた日から数えて『一瞬間後』だと推理した」
「うん」
確かにさゆりちゃんは私(久美子)と信くんの前でそんな話をしていた。
「それは、おそらく『本来のシナリオ」であれば、そうだったんだと思うの」
「本来のシナリオであれば、三日後に、きっと雨が降り続いて、それが大雨になって、○○川が今以上に再び氾濫して、この○○町全体が水に飲み込まれて水没する」
「うん」
久美子の言葉にさゆりちゃんはうなずいた。
真っ暗な窓の外では、今も雨が降り続いている。
久美子は思わず窓の外の風景に目を向けた。……すると、その真っ暗な窓を『なにかが』一瞬、素早い動きで横切ったような気がした。
久美子は目を大きくして、視線を真っ暗な廊下に戻した。
……闇闇だ。
久美子は思った。
小さな闇闇。
あれはきっと私とさゆりちゃんの話をこっそりと盗み聞きしている闇闇の偵察部隊の一人(一匹?)なのだと、久美子は思った。
久美子は口を塞いで沈黙して、さゆりちゃんもそんな久美子の異変に気がついて、口を閉ざして沈黙した。
……二人のいる真っ暗な世界にはざーという雨の降る音だけが聞こえている。
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