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そして、まるでそれが合図とでもいうように、ビルから一瞬にして人影が消える。





「おいっ!どこに行きやがった!」


「早く探せ!」




途端に我に返ると焦ったように、次々と銃を構え出す男達。



だが、電灯もない暗闇の中で音も無く消えた人物を探すのは安易ではない。






ーー逃げるなら、今しかない。



固唾を呑み込んだ少女が、意を決して逃亡を試みると、突如視界が闇に包まれた。



周囲から音が止む。



声が、出ない。



得体の知れない、人かも分からない生き物から視界と口を塞れている状況があまりに恐ろしかった。顎は震え、歯と歯が噛み合わずにヒュッと喉が鳴るだけだ。



布越しに伝わる何者かの陶器のように冷たい手の感触に恐怖という感情に支配される。 








『危害を加えるつもりはない』





機械的な声が、耳元で鳴る。



人の声にしてはあまりに無機質だ。変声機のようなものを使っているのか。



喋り方も人物像を特定させないようにわざと淡白にしているらしい。




ーー浮遊感がする。



固く瞑っていた目を開くと、何者かの肩に担がれていた。







『大丈夫。掴まって』



そんな心情を察したのか機械的ではありながらもその声は少し和らいで聞こえた。



だが氷のように硬直した体は、未だに動かず。



冷たいながらも気遣うような手つきで声の主の背中へと腕を回される。







「‥‥ジャンヌ、ダルク?」




近くの建物の屋上に着地すれば、建物同士の間を飛び越えながら駆け出した。


頬に突き刺さすような冷たい風を受けながら、衝動に耐えるようにその体にしがみ付いた。






『‥‥確かに、そう呼ばれている』





噂には聞いていた。



近頃、ジャンヌダルクという正体不明の何者かが〝あるじ〟の縄張りを荒らしていると。



都市伝説のようなものだと思っていた。



あの男達が言うように、このどうしようもなく腐り切った世界に救いを求めた人々が作り出した空想上の人物だと。







『自分から名乗ったことは一度もない。いつの間にかそう呼ばれていた』


「わたしを、どこにつれていくの?」




仮にジャンヌダルクが実在していたとして、こうも都合良く救いの手を伸ばされるものか。




この世界は甘くない。



それを身をもって知っている。



自分がこんな目にあったのも、ただ助けを求めてきた人に手を貸しただけ。



今にして思えば、その行動はあまりにも浅はかだった。



結局助けようとした人はその場で殺され、結果的に無関係な母を巻き込んだだけの愚か者を一体、誰が好き好んで助けるとーー。


『待っている』


「え‥‥」


『あなたの、母親が』





耳を、疑った。








「‥‥お、お母さんっ。お母さんは、無事なの?」




尋ねた声は震えていた。







『命に別状はない。でも、右目は治らない』


「治らないって‥‥」


『失明している』




頭を殴られたような衝撃に、少女は言葉を失った。








『骨が何本か折れている。そんな体で、あなたを助けるために走り回っていた』




ーー自分は、なんて馬鹿なことを。



他人を助けようなんてエゴに取り憑かれ、自分の力量すら理解していなかった。



泣く資格なんてないと分かっていながらも、溢れ出した涙は止まることなく、声を上げて泣いていた。









『‥‥大切なものがあるのなら』





いつの間にか警戒心すら忘れ、機械音の中で見え隠れするその人の本来の声に安心感すら覚えていた。






『あなた〝は〟まだやり直せる』





意味深げな物言いをすると足を止め、ビルの屋上の倉庫の裏へと身を潜めた。



耳をつんざくような銃声に身が竦む。







『階段を降りたら、出口から真っ直ぐに走って』


「あなたはっ‥‥」


『敵を引きつける。あなたは、自分の身を守ることだけ考えて』


「でもっ」


『大丈夫、逃げられる。敵の狙いは私。あなたに割く人員は作らせない』




落ち着かせるように頭を撫でると、少女の返答も聞かずに隣のビルへと飛び立った。



やがてジャンヌダルクを追い銃声も一緒に遠ざかっていった。



僅かな間だけこのまま逃げてもいいのかと罪悪感が芽生えるが、もう二度と同じ過ちは繰り返さないと心に決め、言われた通りにビルの階段を駆け下りた。

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