二
三次と別れた宗介はその足で、勘兵衛の元に引き返し、お寧が子守りをしていたという商家を聞き出した。
陽が沈み始めようとしていた時分、
「お尋ね申す。ご主人はおられるか」
愛想よく対応した番頭が、まず応えた。
「何の御用でございましょう?」
「
「お寧は子守りを辞めておりますが……」
「存じておる。実は役人の手伝いで、彼女の母親のことを調べているので、改めて伺いたいことがある。疑わしきところがあれば、三次親分に尋ねてくれ」
「承知しました。ただいま……」
三次の名前が効いたのだろう、番頭は奥にいる主人に掛け合ってくれた。すぐに番頭が戻ってきて、宗介を招じ入れた。
「突然の来訪、失礼いたす」
客間ではすでに主人が待っていた。小太りの気のよさそうな男である。
「いえいえ。お寧さんのことで何か……」
「いまだ事件の解決に至らず、お寧さんのことを調べれば何か手掛かりでもと思った次第でござる。事件があった日、あるいは以前以後でも、彼女の様子に変わったことはなかったでござろうか?怪しい人間が近くにいたとか……」
「はて……特に変わった様子はございませんでしたな。お寧は名主さんの紹介で雇ったのですが、気の利く良い娘でございました。できれば子守りを続けてほしかったのですが、
お寧は数えて一つになる主人の一人息子の子守りをしていたそうだ。働きぶりもよく、主人も妻も気に入っていたという。
「怪しい人も存じません。事件当日もうちにおりましたが……」
三次から聞いたところによると、お寧の母は長屋で毒殺されていたらしい。お寧が子守りの仕事に出ていて、不在のときであった。
「事件の後は……」
「お寧は相当落ち込んでいたようで、事件の翌日は彼女の代わりに同じ長屋に住んでいるという方が私のところにお見えになりまして、事件のことを教えてくださいました。もちろん葬儀にも顔を出しまして、しばらくは休んでよいと彼女に伝えましてございます」
ところがと、主人はお茶をすすった後で、再び口を開いた。
「葬儀の翌日にお寧が店に来まして、子守りを辞めると言い出したのです」
「お寧さんはどうすると……」
「行く当てがあるので、そちら様にご厄介なると仰ったのです。ご親戚だと伺いましたので一人になるよりはよろしいかと、私は了承したのでございます」
お寧が苧環屋敷に行くと決意したのが、あまりにも早い。たとえよく知っている親戚の家に頼るとしても、こんなに早く判断できただろうか……
「その後は……」
「一度も当方へはお見えになっておりません」
お寧がいなくなったことを言おうかとも思ったが、心配をかけるだけかもしれないと言わないことにした。
「お寧さんが子守りを始めたのはいつからでしたかな」
「うちの子が生まれてすぐですから……一年くらい前でしょうか」
「その前は何をしていたのか、ご存じでしょうか」
「同じく子守りをしていたと聞いたことがございます。そういえば……」
思いついた後で、主人は穏やかな顔をした。
「いえ、どうということではないのですが、お寧の子守りが上手なものですから、一度尋ねたことがあるのですよ。兄妹でもいるのかと。兄妹はいないようですが、昔、いつも自分を背負ってくれたお兄さんがいたそうです」
「お兄さん……」
「近所の面倒見のいい子でしょう。お寧もうんと小さい時分のことで、どこの誰かも覚えていないそうですが、ただその子に背負われていたことだけは覚えているそうです。印象深いお話なので、私も覚えておりました」
「左様で……お寧が以前、勤めていた店などはご存じないでしょうか」
勘兵衛によると、お寧は備前屋で子守りを始めるのと同時に兼房町に越してきたようなもので、それ以前には音羽町にいたようである。勘兵衛も以前の勤め先までは知らなかった。
「存じませんな」
「おくみさんに面識は……」
「ございます。一度ご
人様に迷惑をかけることもしない、どこにでもいる親子であったはずだ。毒殺という手段からは、物取りやついかっとなってという殺しではない。計画されていた犯罪というのが濃厚であった。
「何のお力にもなれず申し訳ございません」
「とんでもない。最後に一つお伺いいたす。お寧さんの友人や知り合いに心当たりは……」
主人は首を横に振った。さすがにお寧の交友関係までは知らないようである。
「ということで、俺の方では何も得られなかった……勘兵衛さんもお寧さんが親しくしていた人は知らないそうだ」
宗介が備前屋を訪ねたその日の
「心当たりでもあれば探せるんですがね。今度はお寧さんたちが住んでいた長屋をあたってみてくだせぇ。事件についても、
「わかった」
「事件の詳細ですが……」
おくみの死体を発見したのは、同じ長屋に住む女房であった。その女房は
「おくみさんが殺されたのはいつだ」
「どうも正確な刻限はわからないようでして……」
朝はお寧と一緒に
「辰の刻になると、仕事や用事で住人たちがいなかったもんですから、犯人らしき人の目撃者がまるでいないんですよ。長屋にはおくみさんだけがいて、誰と会っていたのかもさっぱりでして……お寧さんもおくみさんが誰かと会う心当たりはないと、調べに来た役人には答えていやす」
「たしか、毒殺だったな」
「へい」
「その……自ら服毒したという可能性はないのか?」
誰しもがおくみは殺されたと言っているあたり、自死の可能性はないということだ。
「まずないでしょう。お寧さんや住人たちの話では、思い詰めているような様子はさっぱり見受けられなかったようですから。それに、おくみさんは
「つまり客人がいたということか」
「そういうことです。湯飲みを片付けていないということは、客人が去った直後、もしくは客人がいたときに毒を飲んだと思われやす」
「なるほど。自死を考えている人間が、客人と会った後すぐにというのは、いささか不自然ということか」
状況から考えれば、おくみと会っていた何者かが犯人であるというのが濃厚である。
「一応金目の物が盗られていないかお寧さんに確認してもらったそうですが、何も盗られてはいないそうで」
「はじめからおくみさんを殺すつもりで、訪ねて来たのだろうな」
思わずという殺意なら、鳥兜の毒というのはできすぎている。
現時点で判明しているのは、おくみが殺されたのは長屋の住人が外出していた辰の刻から、おくみの死体が発見される巳の刻の間ということである。そして、鳥兜の毒を使った計画的犯行の可能性が高いということだ。
「あっしはおくみさんとお寧さんが兼房町以前に住んでいた所を調べてきやす。また明日、お伺いしやす」
「手間をかけてすまないな」
「なんの。お寧さん、早く見つかるといいですね」
お寧は本当に、知り合いの元に行ってしまったのだろうか。せめて幸せに暮らしていれば、
無事な姿を一目でも見たいと、宗介は切実に思った。
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