二章

 この日の手習い所は、常よりも静かだった。

「…………」

 わかりやすいほどに落ち込んでいる宗介に、子どもたちはかける言葉もなく、さわがしくすることもない。

「ふぇ……」

 宗介の背中に負ぶさられている子が、急に泣き出した。聞きなれた泣き声のはずなのに、今日は妙に部屋の中に響いて、心を不安にさせる。

「どうした。襁褓むつきか……」

 お寧がいなくなったのは、昨日のことである。あるいは今日の早朝か。彼女は書置きだけを残して、いなくなってしまったのだった。

 宗介の日常が変化したわけではない。変化しようとしていたものが、あっけなく消え去ってしまったのだ。

 はじめはお寧がいないと騒いでいた子どもたちも、もしや先生は振られたのかもしれないと察して大人しくなっていた。だが、子どもたちとてさみしい。短い間とはいえ、お寧にはよくなついていたのだ。

 日に日に喪失感がつのる中、三日が経った。

「先生」

 手習いが終わると、おあむが話しかけてきた。

「どうした」

「お蒲団ふとん……」

 お寧が使っていた蒲団を指していると、宗介はすぐに理解する。

 もともと家にあった蒲団ではなく、おあむの祖父である六右衛門から借りている物だった。お寧がいなくなった今、蒲団を返してほしいということなのだろうと気づいたのだ。

「借りっぱなしだったな。今から返しに行こう」

 もしかしたらお寧が帰ってくる……などという夢想を、抱かなかったわけではないが、返さなければと思いながらも、できなかったのも事実である。

 未練だ。

「いいの。おあむが先生の家に泊まりに来るから置いといて。おじいちゃんもいいって言ってた」

「……すまない」

 まだ弟が一緒でもお泊りはできないだろうに、おあむは子どもながらに気を遣っているのだ。彼女はそういう子である。

 手習いをしている立場の人間が、子どもたちに心配をかけてどうする。お寧のことは忘れるしかないのだ。

 ……しかし一向に、宗介は吹っ切れることができなかった。

 兎にも角にもお寧については名主の勘兵衛から任されていたことなので、謝らなくてはと、勘兵衛に会いに行くことにした。

「左様ですか……まさか出て行くとは思いませんで……」

 お寧が出奔しゅっぽんした旨を聞いた勘兵衛は、重い表情をする。

「面目次第もございません……」

「いえ、先生が悪いのではございませんよ。やはりあの子は、気になるのでしょうな」

「気になる、とは……」

「母親を殺した犯人ですよ」

「殺された……!」

 てっきり母親は病か何かで亡くなったとばかり思っていたが、衝撃の事実を知らされることとなった。

「お寧は言っておりませんでしたか」

「はい……まさか、そんな……」

 宗介の中で得心した。お寧があんなにも寂しそうにしていたのは、母親が何者かの手によって殺められてしまったからだったのだ。

「というと、犯人はまだ捕まってはいないのですね」

「お役人の方も必死で探しているようですが……」

「……なぜお寧さんの母御は殺されたのでしょう」

「そこもわからないのでございますよ。おくみさんというのですが、親子で顔も似ておりましたが性格も同じく穏やかでございました。とても人様の恨みを買うような方には見えませんで……私だけではなく、他の方たちにもそう映っておりましたから、とんと犯人の見当すらつかないのです」

 お寧にも心当たりがないのだろう。あればきっと、役人に話しているはずだ。

「母親が殺された長屋には住みたくなかったのでしょうな。お寧は早々に苧環屋敷に行くと言い出しまして……」

 その苧環屋敷に向かう途中で、宗介と出会ったのだ。

「ずっと気になっていたのですが、お寧さんはどうして苧環屋敷にこだわったのでしょうか」

「本人は寂しいから遠縁でも頼りたいと仰ってました」

 やはり……でもと、宗介はすっきりとはしない。他に何か、理由があるように感じられてならないのだ。

 だが、お寧は苧環屋敷の住人に頼ることをあきらめてもいる。

「私は思っていることをあの子に言ったのですよ。遠縁では行っても嫌がられるかもしれない。他に住む場所を手配してあげるから、子守の仕事を続けて暮らしてはどうかと提案しましたが、頑として苧環屋敷に行くと……」

 意固地いこじになってまで行くと言った本心は、もう尋ねられない。

「私はもう心配で……一膳飯屋で先生と会ったときには、救われたような心地でしたよ」

「そんな……私はただ、道案内をしただけで……」

「いえね、先生と会ってから私はどうにかして、お寧を先生の家に住まわせようと考えていたのです」

「え……!」

「先生といれば、お寧の心も安らぐだろうと思った次第です」

 官兵衛は自分を買いかぶっている。現にお寧はいなくなってしまったのだ。

「私では役不足だったようで……」

「とんでもない。私の見込んだとおりでした」

 気休めを言ってくれているのかと自嘲じちょうの笑みをらす前に、官兵衛は続けた。

「だって先生、お寧に母親のことを打ち明けられていれば、必ず協力したでしょう」

「もちろんです」

 お寧に困っていると言われれば、どんなに些細ささいなことだって手伝ったはずだ。打ち明けてくれればよかったのにと、それとも頼りなかったのかとも考えてしまう。

「だからお寧は先生の元からいなくなった……お寧は犯人捜しをするつもりで、これ以上、先生に迷惑はかけたくないと思ったのに違いありません」

「…………」

 勘兵衛はそう言い切ったものの、宗介の気持ちは晴れなかった。

 お寧の母親の件を知り、もやもやとした気持ちがふくれ上がるばかりである。


 勘兵衛の家を後にした宗介は、家に帰る道中で声をかけられた。

「先生、お久しぶりでやす」

「三次じゃないか」

 気のよさそうな男は、うれしそうな顔で宗介に頭を下げた。

 三次は狸穴で鋳掛いかけ屋をするかたわら、本業は岡っ引きをしていて、宗介とも昵懇じっこんである。宗介よりも三つ年上にもかかわらず、彼な丁寧な口の利き方で接してくれるのであった。

「上州はどうだった」

「へい。空気もんでいますし、飯も上手いんで楽しめましたよ。爺さんも無事に送り届けることができやした」

 三次はとある事件で関わった老人を、その老人の故郷である上州に送り届けるという、持ち前の親切心を働かし、しばらく狸穴まみあなを留守にしていたのだった。

「それはよかった……三次、相談したいことがあるんだが、少し付き合ってはもらえないだろうか。帰ってきた早々にすまないが……」

「あっしには何でも仰ってくだせえ」

 二人は三次が懇意にしている飯屋に入った。店主は心得たように、二人を二階に案内する。通常、二階に席は設けていないが、事件の話など込み入った場合に、三次はいつも二階を使わせてもらっていた。適当な酒肴しゅこうを運んできた店主は、ごゆっくりと言って、すぐに立ち去っていった。

「ここなら誰にも聞かれやせんから安心してくだせぇ」

「気を遣ってくれて助かるよ」

 まずは一杯飲みほした後で、宗介から切り出した。

「兼房町の長屋で殺しがあったのは知っているか。もしかしたら三次が上州に行っている間のことだったかもしれないが……」

「それなら、さっきお会いした旦那から小耳にはさみやした。犯人探しに難航しているとか……」

 三次が手札をもらっている同心は、その事件の担当ではなかったが、なかなか犯人が見つからないので協力してほしいという要請を同輩から受けていた。帰国を報告した三次にも話が伝わり、明日からでも捜査を始めるようにとも言われていたのだった。

 宗介はお寧の母の事件についてを調べるべく、三次にも協力してもらえないかと頼むつもりであったが、渡りに船だったようだ。

 三次の事情を知った宗介は、身を乗り出す勢いで話した。

「俺も、事件を調べることに協力させてほしい。実は……」

 宗介はこれまでの経緯いきさつを説明した。

 思いがけずお寧と住むことになったこと。いなくなってしまったこと。そして今日、お寧の母が殺されていたことを知ったのだと、順に辿たどる宗介の言葉を、三次は黙って聞いていた。

「事情はわかりやした。それならあっしは、今日のうちに事件の概要を調べてきやす。先生はお寧さんが子守をしていたという商家をあたってみてくだせぇ。もしかしたら、お寧さんの居所がわかるかもしれやせん」

「…………」

 宗介は考え込んでしまった。三次の提案に異議を唱えたかったわけではなく、お寧の居所までもを探そうとは考えていなかったからだ。お寧にしてみれば、ありがた迷惑な話かもしれないが、彼女に知れずに、事件を調べるつもりだったからである。

「お寧さんは俺に、会いたくないかもしれない……」

「何を……」

「自分のしようとしていることが彼女の嫌がることかもしれないとはわかっている。だが……」

 何もせずにはいられないのだ。

「先生の話を聞く限りじゃ、とてもお寧さんが先生のことを嫌っているとは考えられやせんが……まさか先生は、お寧さんが出て行ったのは嫌われたからじゃないかって思ってるんじゃないでしょうね」

「まあ、その……少なからずそう思っている」

「先生を嫌いになる人なんていやせんよ」

 三次は本心を言ったのだが、宗介は思い悩んだままだ。

「……俺は、嫌われる原因になったかもしれないことを言ってしまったのだ」

「何て言ったんで?」

「ずっと俺の家にいればいいって……」

 最後はかすれたような声になってしまったが、三次には届いていた。三次は瞬間、声を出して笑ってみせる。

「わ、笑うことないだろ」

 ただ成り行きで一緒に暮らすことになっただけなのに、たかが数日一緒にいたくらいで、そんなことを言われたお寧が不快に思ったのではと、今まで宗介は真剣に考えていたのだ。それを笑われるのは心外だと、むきになる。

「すいやせん。でも先生、考えすぎですよ。お寧さんにはきっと事情があったんですって」

「む……」

(先生は繊細せんさいなうえに、初心うぶなお人だ……)

 とこれは口に出さずに、ひとちる。

 酔いが回っても宗介は不安を抱えたまま、三次に励まされていた。

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