モノクロとレース編みの歯車

紫餡

前章 黒煙に沈む

第1話 徒夢

 

 か細い歌声が、どこかで聞こえる。



 大きな大きな満月は、煙に隠されたせいで辺りを薄暗くした。星は光が弱すぎて、一等星すら見えそうにない。

 どこぞの熔鉱炉では、灼熱が絶えず火の手を上げているのだろう。あまりにも勢いが強すぎて、煙突から赤く柱を立てている。月明かりが弱まったにもかかわらず、辺りが妙に明るいのは、そのせいである。


 燃え盛る炎が、月まで焼こうとしているのか。息をするのも躊躇う熱風は、涼しさを求めて一帯へと逃げ出した。

 建造物を駆け抜けていく風は強い。玉のような汗が数分と経たずに乾いてしまい、わずかに塩の結晶を残すばかりだ。


 今にも消えそうな歌声に、誘われているのか。それとも、熱風に追い立てられて逃げているのか。その風を追って建ち並ぶ建造物群を抜けていくと、不意に視界は開けるのだ。


 そこは、眼下を一望できる丘だ。

 そこに一つ、小さな人影がある。


 暗闇に紛れようとしているのか、後ろでゆるく編んでいる髪も、わずかにこちらから見える肌も、着ているものさえも黒い。

 歌声は、彼女のものだ。



 遠い背中に向かって踏み出すと、不意に歌声はなくなる。同時に風まで音を無くしたかのようだ。熱を持った風が頬を撫でるのに、辺りは奇妙に静まり返る。


 ハッとした様子で振り返った表情は、どこか怯えて見えた。震えた姿は、わずかに後退りして――――行き場の無いことを悟ったらしい。


 次第に、表情まで見えるようになった彼女は、そうしていると幼く見える。みるみる潤んだ瞳は漆黒に艶めく宝石のようで、吸い込まれてしまいそうに錯覚した。


 何故、泣いているのか。

 何に、それほど怯えているのか。


 知りたくて手を伸ばす。だが。その手はただ――――空を切る。

 行かないで、待ってくれと。静止の声さえも出ない。





 ――――そこでいつだって、意識が覚醒するのだ。


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