赤い星
冷世伊世
第1話
あの素敵な夜のことは、今でも時々思い出す。
私が六歳のときだ。毎夜、異様に星が降る日が続いて、町がお祭り騒ぎになったことがあった。両親も
「
「ごめん」
「はやく行こう」
待ち合わせの時間よりはやく来たのは凪のほうだ。けれど私は文句もいわず、その隣に並んで歩いた。
凪は物静かな男の子だ。学校ではいつも本を読んでいて、子供っぽく騒ぐところを見たことがない。休み時間に男子とドッジボールをする女子の私とは、正反対の性格をしている。それでも私は凪が好きだった。優しく賢く、春風のように暖かい心をもっている。その微笑みひとつで、心配ごとはなにもないという気になれた。赤ん坊の頃から家族ぐるみで一緒だから、私にとっては空気と同じくらい不可欠の存在だ。
「あれ。凪、傘は?」
「そんなのいいから!」
「もうみんな来てるかな?」
「早く! 行こう!」
凪は珍しく興奮していた。きらきらした目で頬を上気させている。近所の海へ近づくと、潮騒とともに風が塩けを運んでくる。海沿いのアスファルト道路から階段を降り、浜辺へ向かった。波打ち際まで駆けていくと、クラスの子たちが十人ほど集まっていた。みんなはしゃいで、空から落ちてくる星を拾っている。私と凪は浜辺に並び立ち、目の前の光景をうっとり眺めた。
夜の海は黒かった。反対岸にある高層ビルの夜景が、きらきらと水面に映っている。あのビルの中では、大人たちが夜を徹し働いているはずだった。星が一番降ってきやすい「星採りの広場」やそれを加工する工場は、あのビル群の中にある。凪や私の両親も、あのビル群のなかで今日はひと晩中働くと言っていた。夜景は美しく、普段なら見惚れていただろう。でも今日は、燦然とした輝きの前にくすんでみえる──海に落ちた星の光があまりに眩いからだ。手のひらほどの大きさの星が、夜空から次々に落ちてきている。星は雪のようにゆっくり降り、海中へ音もなく沈んでいく。海は黄色の照明を沈めたみたいに、あちこちで光っていた。ころりとした星のひとつが髪を撫ぜ、私は透明な傘をひらいた。星の重さは羽よりも軽い。頭に当たってもわからないくらいで、気づかないままにしてしまいそうだ。だから、傘は便利だ。周りにも何人か、透明な傘をさしている子がいる。みんな塗れた花びらのように星を傘にひっつけ、はしゃいでいる。私と凪は手をつないで、みんなの輪に加わった。
「凪、見て! この星、綺麗な形してる」
「洗って食べてみよう」
凪がリュックから水筒を出し、拾った星を水で洗ってくれる。私はそっとそれを口に含んだ。クッキーをかじったような食感だ。味もメレンゲの砂糖菓子に似ている。舌の上で甘さがほどけた瞬間、私はその星の記憶を味わった。
──……美しい初夏の庭が目の前に広がっている。新緑の輝く池のほとりに、野草や黄色い花が生えている。誰かが手を入れているらしい。庭は整然として、夏の生命の息吹に満ちている。ハーブのような緑と土の香り、涼やかな風と夏の陽射しが、刹那に肌に触れる──……
瞬くと、私は夜の浜辺に立っていた。かすかに見えた幻想は消え、かじった星はまだ口をつけていない部分ごと消えていた。凪が真横で期待の眼差しを送ってくる。
「どうだった? 何がみえた?」
「うん……すごく綺麗な庭だった。いいなあ。あの庭があそこにはあるんだ」
傘ごしについ上を見てしまう。夜空には巨大なビルが逆さまに乱立し、街灯が無数に輝いていた。百万人以上が住むといわれる大都市・リアンだ。私たちの都市と大都市・リアンは、まるで鏡合わせのように空をはさみ、逆向きにつくられている。夜空を見上げると、リアンの遠い街明かりやビルの影がくっきりと見えた。あそこにはたくさんの人が住んでいるはずだ。「はず」というのは、私たちがリアンに行けず、これまでリアンに行ったことがある人もいないからだ。リアンの人たちとやり取りする手段は、今のところないとされている。その様子はこうして空を眺め、目視で窺うしかない。
向こうも今、夜なのだろう。赤い炎と黒煙がところどころに見えた。大規模な火災でも起きているのかもしれない。夜の黒いヴェールを透かして、リアンの百万都市は燦然と輝いているが、今やその輝きは橙色の炎にのまれつつあった。音も匂いも伝わってこないから、頭上の都市が具体的にどんな状態かはわからない。
「落ちてくる星は、リアンの人たちの希望なんだって」
「希望?」
「夢や願いみたいな、明るい気持ち。リアン人の心からそれが失われると、星がひとつ降ってくるって。昨日、そう父さんに教わったんだ」
私は首をかしげていた。学校で教わるのは、星にはリアン人の記憶がつまっていて、それらが都市に莫大なエネルギーをもたらすことだけだ。星は通常、丁重に拾い集められ、大人たちが根こそぎ回収していく。けれどここ数日は、あり得ないほどたくさんの星が降っているので、落ちた星は放置されっぱなしだった。星採りの広場は落星で満杯らしいし、国の貯蔵限界を超えたと、テレビのニュースで言っていた。今日だって、通りのあちこちに拾いきれなかった星が転がっている。それらもいずれ回収されるだろうが、星がリアン人の希望だとか、夢や願いが失われると落ちてくるなんて話は聞いたことがない。
「じゃあ、今食べた星には持ち主がいて、その人が綺麗な庭を失くしたってこと?」
「失くしたか、願いが叶わなかったか……わからないけど」
「変なの。ね、それより、もっと集めようよ!」
波打ち際から黒い海へ膝まで入り、私は輝く星を両腕いっぱいに拾い集めた。木製の小さなおもちゃをたくさんすくい上げたように、いくつかの星が腕からこぼれ落ちてしまう。傘を肩で支え、星を抱えなおした。甘いミルクのような匂いがした。星々のきらめきは、中に含まれる記憶を味わうまでは消えない。下手な宝石より価値があるといわれるぐらいで、実際その輝きは、光を集めるダイヤより美しい。個別に色合いも違っていて、表面はつるつるだったり、ざらざらだったりする。欠けた星もあった。小さな黄色いランプが無数に光っているみたいだが、熱くはない。硬いのに重さはなく、なんだか変な感じだった。こんなに大量の星が降るのも、星に触れるのも味わうのも、生まれて初めてだった。クラスの子たちが飛び跳ねていた気持ちがよくわかった。胸の奥がそわそわとして、じっとしていられない。誕生日でもないのに、大好きなおもちゃを思いつくかぎり与えられたみたいだ。隣で嬉しそうに星を味わっていた凪が、顔色を変える。
「紬葉、それ!」
「えっ」
「その星、色がついてる……!」
私は腕のなかの星の塊をみて、慌てて手放した。
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