拝啓、最愛の人へ

いわしのアタマ

わたしのことを、愛して欲しかった

 中学一年生の頃から付き合っている彼女に突然呼び出された。いつもの待ち合わせ場所であるモダンな喫茶店。二人の母校でもある中学校に近いそこは、約半年ぶりの訪れだった。高校生になってからは遠くなってしまい、高校三年生になり受験も控え、多忙になった為だ。入った瞬間に珈琲の香りに包まれる店内は、半年前と変わらず客が誰もいなかった。なぜ潰れないのか不思議だが、中学生の頃も教師に見つかる事なく、美味しい飲み物と読書を堪能できるので重宝していた。彼の生前から在るであろう深緑のソファに身を預けると、思わず安堵のため息が漏れた。なぜ半年も来ずにいられたのか自分自身不思議だった。注文をし、本を読みながら彼女を待つ事三十分。

「わたし、謎解き系の小説って嫌い」

 いつからいたのか、真向かいにあるソファと揃いの革で作られたダイニングチェアに彼女が不機嫌そうな顔で座っていた。本に夢中で気が付かなかったようだ。呼び出したくせに遅れてやってきた彼女はつまらなさそうに口をひん曲げ、年数を感じるブラウンの四人掛けのカフェテーブルに肘をついた。

「そうだっけ、初めて聞いた気がする」

 昔から読まれている有名な海外の推理小説から一瞬視線を上げ、彼はそう言い、また本に視線を戻した。彼女の大袈裟なため息が聞こえてはいたが、無視した。キリのいいところまで読ませて欲しかった。

 耳を澄ませば聞こえる程度の、どこかで聞いた事があるような、名前の知らないクラシックが流れる店内。そういった洒落た雰囲気で、高校生二人の会話は雑音でしかなかったが、生憎目の前の少女と彼しか、あいも変わらず客はいなかった。満足いくまで読み終えた彼は本から目線を彼女へと移し、単行本に紐のしおりを挟んで閉じた。春の昼前だからそう熱くならないだろうと窓際の席に座ってしまったが、テーブルの上は存外熱かった。彼は本が焼けるのを気にして、窓から覗く、昇りきっていない太陽に背を向けて、本をテーブルに置いた。パタンという音がどこか物悲しく響いた。

「探偵は、こっちの気持ちなんかほんとは分かってないのに、状況証拠だけで気持ちまで決めてしまうでしょ」

 彼が彼女を見た事に気づいているのかいないのか、彼女はこちらを見もせず、肩までで切り揃えられた毛先を指で遊ばせながら物怖じせずにそう言った。差し込んだ陽の光が切り揃えられた前髪をキラキラと煌めかせ、彼女の瞳に影を落とした。付き合って五年だが、こう言う時何を考えているのか、いまだにわからない。黒い長袖のシャツの上に、袖の長い紺色のカーディガンを羽織っていて暑そうだと思った。袖が長すぎて彼女の細くてきれいな指先が、第二関節までしか見えない。彼は小さくため息をついて、いつの間にか置かれていた氷が多めに入ったミルクティーをストローでかき回した。カランカランという音は、店内で鐘のように響く。

「そんなこと話しに呼び出したんじゃないでしょ、何、用って」

 そう言って、やっと彼女はこちらを見た。切り揃えた前髪の下で、目つきの悪いキリリとした目が彼を捉える。

「別れようって思って」

 思ってもみなかった話に、言葉も、表情も出なかった。一瞬、世界が無音になったかのように感じた。でもそれだけだった。小説だったら、胸がえぐられる痛みだとか、雷に打たれたような衝撃だとか、そんな表現がよく似合う場面だろうに、彼の心は時が止まったように動かなかった。中学生の頃は毎日のように会っていたのに、高校生になって月に何度か会う程度に頻度は減っていたし、デートはこの喫茶店ばかりではあったが、なぜだか彼はそれでも彼女とは大丈夫なのだと思っていた。今この時までは。

「ちなみに何で」

 絞り出して、やっと出てきた言葉は、なんの感情もこもっていない、そんな可愛げのないセリフだった。

「アンタ、わたしの気持ち汲み取ってくれないじゃない、だから」

 汲み取って欲しいなら、まずそちらが素直にいうべきなのではという言葉を飲み込んで、小さく息を吐いて、味のしないミルクティーで喉を潤した。

「他には?」

「え?」

「他にないなら、改善のしようがある理由だと思うけど、違う? 別れなくてもいいじゃない」

 五年付き合って、今まで指摘も改善案の提示もない。会うと他愛ない話をだらだらと空気のように過ごしていた間柄だ。大きな喧嘩もした事がない。今までだっていくらでも言えたはずなのだ。唐突の別れ話に対してそう返す彼に面食らったのか、少し目を見開き、俯いた後、キッと睨むように彼を見た。

「そういうところが、嫌なの」

「どこだよ、だから」

 話の進展なさに、ため息が出る。ここまでいじっぱりな少女だったろうかと狼狽えそうになる心を無表情に隠して、なおも問いかける彼に「もういい」とテーブルを叩きつけながら立ち上がった彼女。二人しかいない店内にその音はいささか大きく響いた。彼がその音にびくりと震えるくらいには。

「この話は終わり。じゃ、そういうことだから」

 そう言って彼女は足早に去っていった。振ったのは彼女自身なのに、去り際はなぜか泣きそうな顔に見えて、何も言う事ができなかった。喫茶店を去る彼女が開けたドアのベル。そのチリンチリンと鳴る音がまるで自分の心が空になっていく音のように感じた。振られた実感がなかった。差し込む日光がミルクティーの氷を溶かし、カランと音を立てる。窓の方を見ると情けない顔をした自分と目があった。右の黒目の下にある五ミリくらいの涙黒子が、情けない表情も相まって泣いてるように見えた。来店時と変わらない陽の高さに、彼女と話している時間より、待っていた時間の方が長かった事に気づいて、乾いた笑いが出た。

「ごめんね出しそびれちゃったよ」

 四十代半ばであろう喫茶店のマスターが、申し訳なさそうに彼の前に出してきたのは、少し解けたバニラアイスの乗ったコーヒーゼリーだった。以前来た際に彼女が食べたいと言っていたので、事前に注文しておいたものだった。

「お代はいいからさ、食べちゃって」

 自分で驚くほどの小さな声で「ああ」だとか「うう」だとか返した。マスターは気まずそうに店の奥へと消えていった。コーヒーゼリーをスプーンですくった。太陽の光を通したコーヒーゼリーは光を乱反射させ、いくつものブラウンの影を伸ばす。まるで、道を違えた彼と彼女のようだと思った。いまだに現実を受け入れられてない彼は、口に入れたコーヒーゼリーが苦くて、彼女に食べさせなくて良かったと思った。彼女はきっと、苦すぎると怒るから。

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