第22話
その夜、リナが用意した食事は、昔二人でよく食べた懐かしい家庭料理だった。テーブルには湯気の立つスープ、香ばしく焼かれた肉料理、そして炊きたてのご飯が並んでいる。
「お母さんが残してくれたレシピを見ながらに私なりに再現してみたんだ、覚えてるかな……?」
リナは少し不安げに俺を見上げた。俺は静かに箸を取り、一口運ぶ。口の中に広がる味は記憶には既に残ってはいなかったが、どこかその味は懐かしさで胸を締め付けるようだった。俺は小さく頷いて、表情で伝えた。リナはホッとしたように微笑む。
「よかった……。本当に久しぶりだもんね、お兄ちゃんとこんなふうに一緒にご飯食べるの」
リナの言葉には、どこか遠慮がちだが確かな喜びがにじんでいた。俺はその声に耳を傾けながら、少し間を置いて尋ねた。
「……元気にしてたか?」
その問いにリナは一瞬目を見開いたが、すぐに少し照れたように笑った。
「元気……って言えるのかな。普通に生活してたし、大きな問題もなかったけど……何かがずっと足りない感じだった。お父さん、お母さん、そしてお兄ちゃんがいないと、家が広すぎる気がしてたよ」
リナは箸を動かしながら、過ぎ去った日々のことを語り始めた。日常のちょっとした出来事、学校での思い出、友達との付き合い。言葉の端々には、いつも俺の不在が背景として浮かんでいる。
「でもさ、この家に一人で住みだした頃は、慣れるのにすごく時間がかかったよ。お兄ちゃんの部屋を片付ける気にもなれなくて、ずっとそのままにしてたし」
リナの声には、どこか寂しさが混じっている。俺はその話を遮らずに聞き続けた。
「それでも、少しずつ慣れてきたんだよね。料理も練習したし、バイトもしてみたし……なんとか自分でやってこれた、かな」
リナはそう言いながら笑みを浮かべる。その笑顔には、どこか大人びたものがあった。俺のいない間に、リナがどれだけ成長し、どれだけ努力してきたのかを物語っているようだった。
「……本当に頑張ったんだな」
俺はそれだけを言うと、リナは一瞬驚いたように俺を見つめたが、すぐに照れくさそうに目をそらした。
「別に、そんな大げさなことじゃないよ。ただ……やっぱり、お父さん、お母さん、お兄ちゃんがいないのは寂しかった」
リナのその一言に、胸の奥が少しだけ熱くなった。しかし、俺は表情に出さず、黙って箸を動かすだけだった。
その後、リナは再び話し始めた。今の生活や最近始めたこと、これからのことについて。俺はそのすべてに耳を傾けながら、リナの声の一つひとつに、久しぶりに感じる家族の温かさを覚えた。
リナはふと箸を置き、静かに話し始めた。その表情は少し遠くを見ているようで、食卓の明かりが優しく照らしていた。
「お兄ちゃんがいなくなってから、両親も……。本当に一人ぼっちだと思った。でも、それでもどこかで信じてたんだ。お兄ちゃんはきっとどこかで生きてるって。いつか、きっと帰ってきてくれるって」
リナの声には確かな強さがあった。その言葉に込められた思いが、リナを支えてきたものなのだろう。
「だから、お兄ちゃんを探す為に配信を始めたの。配信って、最初は怖かったけど、いつかお兄ちゃんがそれを見てくれるかもしれないって思ったら、続けられたの。画面の向こうの人たちが応援してくれるのも嬉しかったけど、それ以上に、お兄ちゃんに届くかもしれないって考えてた」
リナは小さく笑ってから、少し視線を落とす。
「生活はね、両親が残してくれた資産があったし、国の支援プログラムも適用されたから困らなかったの。でもそれ以上に……弁護士の先生と奥さんがいてくれたのが大きかった」
ある程度のリナの生活は事前に政府から聞いている。その弁護士のことも。それでもやはり幼い子供一人では、どれだけ大変だったか想像がつく。
リナは感慨深げに話しを続ける。
「二人は子どもがいなかったからって、私を家に引き取ってくれたの。お兄ちゃんがいない間、ずっとその家で一緒に暮らしてたんだ。お手伝いさんを雇ってくれたり、家事支援ロボットの『ネスト』を手配してくれたりしてね」
「ネスト?」と俺が聞くと、リナは小さく頷いた。
「うん、今もいるよ。ほら、そこの充電ステーションにいるのがそう。あの子がいなかったら、きっと生活はもっと大変だったと思う。ネストが掃除や料理を全部やってくれたから、学校にも通えたし、勉強にも集中できた」
充電ステーションには、丸みを帯びたデザインのロボットが静かに待機していた。その存在感はさりげないが、リナにとっては家族の一員のように思えたのだろう。
「弁護士の夫婦も本当に優しくてね。毎日『大丈夫だよ』って言ってくれて、何かあればすぐに手を差し伸べてくれた。おかげで、いつか自分で立ち上がらなきゃって思えるようになったんだ」
そして、リナは考え込むようにしてから、静かに語り始めた。
「お兄ちゃんがいなくて、両親もいなくなった時、私……ほんとにどうしていいかわからなかったの」
リナは小さく笑って肩をすくめたが、その表情はどこか寂しげだった。
「親戚は結局、何も助けてくれなかった」
彼女の目がテーブルの一点を見つめる。そこには当時の混乱と孤独が色濃く残っているようだった。
「両親が亡くなった時、私……何が何だかわからなくて。お兄ちゃんもいないし、親戚が頼りになるかと思ったけど、結局あの人たち、みんな両親の資産が目当てだったんだよね。お父さんたちが残した資産のことしか頭になかったみたい。誰がどれだけもらうか、そういう話ばっかりしてたんだ」
その声には、当時の苦い思い出がにじんでいる。リナは箸をそっと置き、手元を見つめた。
親戚のことを思い出したのか、少し暗い表情を浮かべていたリナだったが、でも嫌なことばかりじゃないよ、と笑顔を浮かべ話を続けた。
「私ね、お兄ちゃんが見つかったって聞いてから、弁護士夫婦の家を出て、この家に戻ってきたの。資産管理はそのまま先生が見てくれてたけど、少しずつ自分で決めていくようにしたの」
彼女は軽く肩をすくめ、苦笑する。
「だから、あの夫婦には本当に感謝してる。私がここまで来れたのは、あの人達がいたからだと思う」
リナの言葉には、弁護士夫婦への深い感謝が滲んでいた。
俺はただ黙って彼女の話を聞いていた。その言葉のひとつひとつが、俺には重く、そして温かく響いていた。
リナは話し終えると、一瞬視線を落とし、軽く笑みを浮かべた。
「なんか、思い出話ばっかりになっちゃったね。でも……お兄ちゃんが帰ってきてくれて、本当に嬉しいよ」
その言葉には、彼女の全ての感情が詰まっているように感じられた。俺は言葉を返す代わりに、テーブルの上に置かれた湯飲みをそっと手に取った。湯気が立ち上り、その静かな瞬間が二人の間にしばしの間を作る。
リビングの窓越しには夜空が広がり、街の灯りが点々と輝いている。その穏やかな風景が、どこか非現実的なほど平和に見えた。外の世界がいくら変わろうとも、この家だけは、時間が止まっているような感覚があった。
リナは少し姿勢を正してから、俺に視線を向けた。
「お兄ちゃん、帰ってきてくれてありがとう。本当は、もっと聞きたいことがたくさんあるんだけど……無理には聞かない。お兄ちゃんが話したいときに、話してくれればいいから」
彼女の言葉は、どこまでも優しかった。それは決して押し付けるものではなく、ただそこにいるだけで安心できるような暖かさだった。
俺は小さく頷き、湯飲みを置いた。
「ありがとな、リナ」
その短い一言に、どれほどの感謝と想いを込めることができたのだろうか。自分でもわからなかったが、リナにはそれが伝わったように見えた。彼女は微笑み、再びリラックスした表情を浮かべた。
「じゃあ、お茶のおかわりいる?それとももう休む?」
リナが立ち上がろうとすると、背後から小さな機械音が響いた。充電ステーションで待機していたネストが動き出し、滑らかな動きでテーブルに近づいてきた。ネストは、リナの気遣いに応えるように、自動で湯飲みを回収し、次の作業に向けて動き始める。
「ネスト、ありがとうね」リナは小さく声をかける。
俺はその光景を眺めながら、どこか胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。この家には、リナが一人でも懸命に生きてきた証があふれている。
そして、俺はその片隅で、もう一度この家の一部になれるのだろうかと考えていた。
リナがふと振り返り、少し恥ずかしそうに言った。
「ねぇ、お兄ちゃん。明日、ちょっとだけ散歩に付き合ってくれない?久しぶりに一緒に歩きたいなって思って……」
その誘いはあまりにも自然で、まるで昔の時間に戻ったようだった。俺は迷うことなく頷き、軽く笑って答えた。
「ああ、いいぞ。久しぶりに、どこか行こうか」
リナは満面の笑みを浮かべ、少しだけ弾んだ声で「楽しみにしてるね」と言った。その瞬間、俺は心の奥に微かに残る不安が、少しだけ和らいでいくのを感じた。
それからも、しばらく他愛のない話を続け、静かに夜が更けていった。
夜が深まるにつれて、リナの話は少しずつ途切れがちになり、寝間へと連れて行くとベットに横になってすぐに静かな寝息が聞こえてきた。俺はそっと立ち上がり、リナの部屋の扉をそっと閉めた。
窓の外には、街の灯りが穏やかに輝いている。その光を眺めながら、俺は久しぶりのこの家に静かに馴染んでいく自分を感じていた。
ここに戻ってきたことで、失っていたものが少しずつ埋まっていくような感覚がある。リナの声、家のぬくもり、そして何気ない日常のやり取り――それがこんなにも心を満たすものだとは思わなかった。
自分の部屋の扉を開けると、変わらない家具や馴染みのある香りが迎えてくれる。ベッドに腰を下ろし、ふと窓の外の星空に目を向けた。
「日常って、こんな感じだったな……」
小さく呟いたその言葉に、心の奥底から少しずつ湧き上がる実感があった。俺の日常が、ここからまた始まる。それを確信できた夜だった。
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