第2章④

 もやもやした気持ちを抱えたまま自席に戻ると、隣の席でロクとジキトが何やら騒ぎながらパソコンに向かっていた。ちらりと覗くと、ロクが画面を指差しながら仕事の手順を教えているのがわかった。


「えーっと、このデータは保存したらそっちに……。あ、そこじゃない、こっち、こっちだ。そうそう、そのファイルに入れておいてくれ」


「はあ。わかりにくいですね、めんどくさい」


 この数日間で、ジキトはかなり環境庁に馴染んできた。初日こそ口数が少なかったものの、だんだんと意見を言うようになり、先輩であるはずのロクに生意気な口を叩く回数も増えていた。


 ロクの曇りないジキトを見やる眼差しに、ギンカの胸がチクリと痛む。トウリの件を話したのは彼だけで、自分が余計な作業を進めている間、溜まった仕事やジキトの指導を引き受けてくれたのだ。まったくもって自己中心的だが、今は合わせる顔がない。


 席に着こうと椅子に手をかけたオニに気がつき、ロクがこちらを向いた。


「お、ギンカ! 戻ったな。そうそう、仕事終わったらいつもんとこな。今日こそはジキトも連れてくからな!」


 生気を失った黒い目のギンカに、ことの顛末を察したようだが、それを気遣うそぶりはない。嫌そうに「え~」と言ったジキトは、奢ってやるからさ、という調子のいい声にしぶしぶ頷いた。


 正直気が進まない。今日は誰かと食事をする気分にはなれそうもなかった。何と断ればいいか考えを巡らせていると、ロクが立ち上がってギンカの肩をぽんと軽く叩いた。


「めんどくせえこと考えてないで行こうぜ。こういうときには美味い飯だろ!」


 ギンカは自席の手前に立ったまま床を見つめた。ただでさえロクに迷惑をかけているのに、さらに気を遣わせてしまった。それに罪悪感を覚えたギンカは、自分自身に嫌気が差していた。


 些細な出来事でくよくよ、うじうじしている自分が嫌いだ。何かを変えられると信じていたあのときの自分が、心底嫌いだ。





 久々に無心で仕事を片付けたギンカは、ふたりから少し遅れて鶏鳴楼に到着した。あの事件で破壊されたドアはとっくに修理が済んでおり、混雑具合も事件前とそう変わらなかった。


 きょろきょろと店内を見渡すと、はじっこの席でロクが手を振っているのが見えた。ジキトの姿が見えないことに疑問を感じながら進むと、ギンカが尋ねるより先にロクが口を開いた。


「あれ、ジキトと会わなかったか? ちょっと前に庁舎に忘れ物したって言って戻ったんだけど」


「いや、たぶんすれ違ってないと思う」


 道も混んでたし、わからなかっただけかも、と付け加え、ギンカは店員にビールを注文した。


 店員が去ったテーブルでは、周囲の賑やかに騒ぐ声がやけに遠く聞こえる。少しの間、無言になったふたりの間に気まずい空気が流れた。


「ロク、ごめん。いろいろ手伝ってもらったのに、けっきょく何もできなかった」


 沈黙を破ったギンカは、遠くを見るような目で意味もなくテーブルの木目を見た。ロクが自分をどう思っているのかわからないが、ただ申し訳ない気持ちと不甲斐なさであふれていた。背中を丸めて座った様子は、いつもに増して弱々しく見える。


「別に、そんなのはどうでもいい。最初から簡単じゃないってわかってたことだ。今のおれたちには限界がある。……あいつは不憫だけどな」


 ちょうど届いたビールジョッキをギンカの目の前までずらし、ロクは自分のジョッキを持って乾杯を催促した。その仕草に説得されて、ギンカも仕方なく持ち手に手をかけ、俯いたままジョッキ同士を当てる。コツンと音が鳴った。


「おれはな、おまえが自分から進んで動いたのが嬉しかったぞ。どうせおれたちは昔のことを知らない。でもきっと、過去の記憶でできた人格は変わらないと思ってる。だから、おまえの中でなんかが変わろうとしたんだろ? 生きてた頃には変わらなかったなんかが。それってすごいことじゃねえの?」


 ビールを口に流し込んだロクは、全然うまく言えねえけど、とこぼして片手で短髪をわしゃわしゃと掻いた。ギンカも同様にうまく言葉にできなかったが、何か、心の中にじんわりと温かいものが染みるのを感じた。


「おれはもうオジサンだからさ、やりたいことはやるし、やりたくねえことは自分からはやらないって決めてるの。でも、おまえはまだ若いだろ、たぶん。だから、ちょっとくらいワガママになって自分の心に従って生きてみてもいいんじゃない?」


 椅子の背もたれに寄りかかったロクは、柄にもないセリフを照れくさそうに言いながらジョッキを伝う水滴を見つめている。


「生きるってなんだろう」


 ギンカはぼそっと言った。


「死んでるのに、人は、変わるんだね」


 自分の情けなさを痛感するような、でも慰めてくれるオニがいることに感謝をするような、なんとも言い表しがたい変な気分だ。わずかに気恥ずかしいこの気持ちも全部、さっき一口飲んだアルコールのせいだと思うことにする。


 自分は死んでいて、本来の姿ではなくて、何も覚えていなくて、それでも、かつて作り上げた信念に従って動いている。


 ――おれの自我はなんて傲慢なんだろう。


 よくわからないけれど、なぜだか泣きそうにも笑いそうにもなり、ギンカは心配そうに眉を落としたロクとようやく目を合わせた。


「ありがと、ロク」


「先になんか頼んじゃおうぜ。腹減った」


 いつものくすぐったそうな顔で笑うと、ロクはテーブルの横に立ててあったメニューに手を伸ばした。


 そのとき音を立てながら店のドアが開いた。顔を向けると、居酒屋には似つかわしくない子どもの姿が目に入った。ジキトだ。それに気がついたロクがまた手を挙げ、おーい、と声をかけている。


 店内にいるほかの客を警戒するようにちらちらと見ながら、ジキトはふたりがいるテーブルに向かってきた。


「うるさいですね、ここ」


「まあまあ。お子ちゃまにはわからんかもしれないけど、居酒屋ってのはこういうもんなの。ほれ、好きなもの頼め」


 文句を言いながら腰掛けたジキトに、ロクがメニューを差し出した。乗り気ではなかったはずだが、おいしそ~、と無邪気につぶやきながらファイルに閉じられたページをめくっている。


「じゃ、おれはとりあえずザーサイとかに玉でも頼もうかな」


 ロクが喜々とした声で言いながら、他のテーブルに料理を運んでいた店員に合図をした。


「僕は五目そばで。エビシュウマイも食べます。あと、お酒はいらないのでオレンジジュースでお願いします」


「シュウマイ、おれも食べようかな。ギンカは?」


「じゃあ……おれはチャーハンと餃子で」


 ジキトの前に開かれたメニューを覗き込みながらギンカは答えた。言ったあとで、昼食を食べていなかったことを思い出して腹が鳴る。地獄で生きていくために、今日も飯を喰らうのだ。

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