第2章⑤

 翌朝出勤してきたギンカは、庁舎の前庭に人だかりができているのに気がついた。前庭といっても大層なものではなく、いくつかのベンチと開店前の売店が建っているだけだ。しかし、庁舎の玄関に群れられては邪魔になって入れない。


 何が起きたのだろうと首を伸ばして見てみると、身を縮ませたオニたちの雰囲気でなんとなくまた悪いことがあったのだと察した。群衆の後ろのほうにジキトの姿を見かけ、ギンカ小走りで近寄ると、おはよ、と声をかけた。


「おはようございます。これ、何の集まりです?」


 ジキトは顔をしかめ、さも迷惑そうな表情だ。


「さあ。おれも今来たところだから……」


 ギンカがそう答えたそのとき、群衆の奥から怒号が飛んだ。その声の主は、姿を見ずとも執行庁のボタンだとすぐにわかった。


「今すぐ審判庁を呼べ! このままでは取り返しのつかないことになってしまう!」


 オニの後ろ姿を縫うようにして前方を確認すると、ボタンが庁舎の扉の前に立ったウカイの胸ぐらをつかんでいるのが見えた。ウカイはなだめるようにボタンに声をかけているようだが、その内容は聞き取れない。


 その光景にギンカは思わず目を疑った。何やら大変な騒ぎが発生しているのは誰に聞かずとも理解できた。ボタンはこんな場所で何をしているのだろうか。


「おい、ギンカ! なんかヤバいことになってるぞ」


 いつの間にか背後にいたロクに声をかけられ、ギンカは振り返った。


「ヤバいことって?」


「昨日の深夜、また執行庁のオニが暴動騒ぎを起こしたらしい。それもふたりもだ。商店街の路地裏で殴り合いの大喧嘩してたんだと。審判庁に連れてかれるとこを見たやつがいるってさ。噂だけど、またそいつらの意識がないらしい」


 ギンカは目を見開いて手で口を覆った。トウリの件で執行庁を訪れたとき、職員たちは彼の処分に悲痛な表情を浮かべていたはずだ。それなのに、なぜまた同じような事件が?


 ふと、集まったオニたちがこそこそと声を潜め、同じ方向を向き始めた。ギンカたちもつられてその方向を見ると、おそらく審判庁のオニがぞろぞろとこちらに近づいているのがわかった。環境庁を通さない限り、他の庁は審判庁と直接的に関わることはできない。きっと、ウカイが彼らを呼んだのだろう。


 先頭に立っていたのは、あの日の商店街で会ったフジというオニだ。相変わらず紋章が描かれた布で顔を隠し、部下のオニを数名引き連れている。だが、部下たちの体つきが逞しいせいか、昼間に見たのが初めてなせいか、記憶よりもフジはひと回りほど小柄だった。


「執行庁長官、ボタン。我々に何の用だ」


「部下たちを返してくれ。あいつらは少し血の気が多いかもしれないが、絶対に悪いことをするオニじゃない。何か理由があったはずなんだ」


 固唾を呑んでいる群衆の前で無理やり平静を保とうと努めているのか、ボタンは肩で息をしている。その苦しみを帯びた声に、ギンカはトウリのことと何もできなかったことを思い出し、胸がぎゅっと締め付けられた。


 フジは動じることなく、後ろで手を組みながら淡々と述べた。


「どんなオニか、ではなく、何をしたかで判断すべきだ。地獄のルールに背いた者は罰を受ける。ただそれだけだ。そんなに大事な部下なら、もっとしっかり管理しておくべきだったな」


 ボタンが身を強張らせたのがわかった。歯を食いしばり、悔しさをにじませるように肩から腕にかけて力が入っていた。だが、一度長く息を吐いて全身の力を抜くと、フジに向かって頭を下げた。体は深く折りたたまれ、ギンカの立っている場所からはもうその姿が見えない。


「お願いだ。あたしはどうなってもいい。だから、あいつらを地獄の底に送らないでほしい。それだけでも考えてもらえないか」


 見たことがないほど真剣なボタンの声に、群衆のざわめきは徐々に小さくなり、やがてしんと静まり返った。しかし、頭を下げたボタンを見てフジは鼻で笑った。


「わざわざ、そんなことを言うために呼んだのか? 我々も暇ではないんでね、勘弁してほしいよ。それに最終的な処分を決めるのはおれじゃなく、サンゴウ審判長だ。ほかの者にはどうすることもできない」


 そして顔を少し上げると、庁舎前に集まったオニたちに向かって言った。


「君たちも仕事を始めたらどうだ? 環境庁も、こんな朝から時間が余ってるようで羨ましいよ」


 フジの言葉にギンカはムッとした。ただ足止めを食らっているだけなのに、彼は他人をイラつかせるセンスがあるのだろう。ウカイが庁舎の扉を促すように開き、職員たちは小さく頭を下げながらぞろぞろと建物に入っていく。


 ギンカはちらっと後ろを振り返った。フジはもうボタンを見ておらず、背を向けて立ち去ろうとしている。深くうなだれるボタンに何か声をかけるべきか迷ったが、それはなんの力にもならないだろうと思い直し、前を向いて庁舎前の階段をのぼっていく。


 すれ違いざまにまだ扉の横に立っているウカイの様子を一瞥すると、審判庁へ戻っていくフジの後ろ姿に氷のような視線を向けていた。鼻に皺をよせ、敵討ちとでも言わんばかりの表情だ。見てはいけないものを見てしまった気がして、ギンカは慌てて顔を背けた。





 事態は少しずつ悪いほうへ進んでいった。


 その日の昼過ぎに各庁の長官が審判庁に招集された。全体での会議がおこなわれることは滅多にないため、ここ数日の出来事がそれだけ異例なのだ。会議とはいっても、審判庁の意思を決断を変えるのは誰もできないだろうが。


 険しい顔をしたウカイが環境庁に戻ってきたのは、すっかり夕日が傾き始めた頃だった。すぐに職員たちに会議室に集合するように知らせが入る。パソコンで事務作業に勤しんでいたギンカたちは慌てて席を立ち、ほかの職員に続いて会議室へと向かった。


 今度はいったい何の発表があるのだろう。ギンカは胃がキリキリと痛むのを感じていた。


 朝から揉め事に巻き込まれたこともあってか、職員たちの間にはすっきりとしない雰囲気が漂っていた。会議室の前方でこちらを向いて立ったウカイの様子からしても、これから発表される内容がこの倦んだ空気を払ってくれるとは思えなかった。


 十数名が集まった部屋の後ろのほうにロクとジキトの姿を見つけ、ギンカはその横に立った。


「全員そろったな」


 部屋をぐるっと見渡してからウカイが低い声で話し出す。


「知っての通り、先日から執行庁のオニによる暴動事件が多発している。1度目の事件が発生してから、うちで執行庁の監視役を立てているが、それでもこのような事態になってしまった」


 ギンカの斜め前で2、3人のオニが肩を落としている。彼らは監視役として、ここ最近は執行庁に出突っ張りだったはずだ。自分たちの仕事が不十分だったともとれるウカイの言い方では、気落ちしても仕方がない。


「先ほどの会議で、しばらくの間、執行庁の職員がほかのエリアに出入りするのを禁止することが決まった。外部の者が執行庁に立ち入るのも禁止とし、視察や研修の予定もすべていったん白紙にする。案内庁と後援庁への出入りは問題ないが、なるべく急ぎでない訪問は控え、夜間も速やかに帰宅するように。質問のある者は?」


 ひどい話だ。まるで、執行庁だけが悪者だと言っているみたいだ。ギンカはそう思った。


 しかし、彼らの肩を持ちたい気持ちもあるが、事件を起こした理由はいまだ不明である。トウリの身辺調査をした自分が言うのも少し矛盾するが、執行庁のオニたちはただ本当に審判庁に不満があっただけなのかもしれない。それが関係ないとしても、とにかく今は口答えをするべきではないだろう。


 ウカイの問いかけに誰も声をあげなかった。先ほどから重かった空気がより質量を増したように感じ、息を吸うのでさえ苦しく思える。ウカイは静まり返った職員たちを見て、念押しするように締め括った。


「何もなければ、以上だ。万が一騒ぎに遭遇してしまったら、近くの通報システムを使うように。だが、とにかく今は、問題を起こさないでくれ。頼んだぞ」


 これ以上面倒事が起こってほしくないのはギンカも同じだった。朝よりもいくらかやつれて見えるウカイに、ギンカは同情の気持ちを向けた。立ち去るフジの後ろ姿を睨み付けていたことがぼうっと思い出される。きっと、長官にしかわからない苦労や辛さがあるのだろう。


 では仕事に戻れ、と言い残し、ウカイは長官室に向かって歩き出した。少し遅れて肩の力を抜いた職員たちも、残っている仕事を片付けるためにぞろぞろと事務室に戻っていく。


 ギンカは、もう気を張っているのに疲れを感じていた。ただ何も考えず仕事をすればよかったあの頃が恋しい。だが、時間が戻ったところで進む未来が今と同じなら、戻らないほうが遥かにマシなのかもしれない。早く落ち着いて眠らせてくれ。そう心の中で願った。


 そういえば、今回事件を起こしたふたりの処遇はウカイから発表されなかった。まだ決まっていないのか、反発されることを見越して発表を止めたのか、その理由はわからない。何にせよ、朝のボタンの様子からして喜ばれたものでないのは確かだろう。

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