第2章

第2章①

 けっきょく昨日休みをもらったギンカは、1日ぶりに環境庁に出勤してきた。噂はもうすでに広まっているようで、頭部に包帯を巻いたオニの姿にこそこそと声をひそめたり、大丈夫か、と声をかけたり、すっかり注目の的だった。


 目のやり場に困りながらぎこちなく自席についたギンカの向かいで、ロクがパソコンの横からひょっこり顔を出した。


「具合はどうだ? あんまり無理するなよ」


 ありがと、と返事をしながらカバンから書類が詰まったファイルを取り出す。好奇の眼差しを向けられて居心地が悪いが、まずは一昨日の執行庁視察の報告書作成を終わらせなくては。


 パソコンが起動するのを待つ間、ギンカは横のデスクに座ったジキトをちらりと見た。自分がいない間に彼の座席は隣に決まったようだった。キーボードの打鍵音が響く事務室で、新人研修用の冊子を広げてパラパラとめくっている。


 視線を感じ取ったのか、ふとジキトが顔を上げて目があった。不思議そうな、不満そうな表情にきまりが悪くなったギンカは思わず咳払いをした。「あ、いや。すまない」と理由もなく謝罪してパソコンの画面に目を戻す。


 ようやく立ち上がった古いパソコンをマウスで動かし、報告書のデータが入っている共有ファイルを開く。昨日のうちにロクがかなり進めてくれたようで、さらっと目を通してあとは数か所だけ記入すれば完成だ。


 この日はいろいろな問題が起こりすぎて、つい先日のことなのにだいぶ前の話のような気がする。ギンカは目で文字を追いながらぼうっと考えていた。


 ジキトが加わり、執行庁の視察、沈んだ様子のボタン、鶏鳴楼での食事、そのあとの暴動騒ぎ、フジ、後援庁、そこで知り合った女性……。


 いや、知り合ったという表現をするほど親密な仲ではない。ギンカは自分の脳内で反論をした。


 あのあと、ひと言ふた言を交わしただけで女性は診療所の方向へ立ち去った。人と直接的に関わる機会がほとんどないからか、妙にギンカの印象に残っている。決して、後ろめたい気持ちがあるわけではない。


 現在の地獄では、トラブルを避けるために人々は決められたエリアの中だけで過ごす。そのため外を自由に出歩いたり、他人と出会ったりするタイミングは基本的にない。後援庁のエリア内には、再審判までに支援が必要な人のための施設がある。最近はメンタルサポートの仕事ばかり、とこぼしていたタカムラの言葉を含めて考えると、おそらく、彼女はそこで生活しているのだろう。


 急にピコンという電子音が小さく鳴り、画面の右下でパソコンが新着メールを知らせた。一瞬だけ見えた件名に胸騒ぎがして、ギンカは報告書の確認を後回しにしてそのメールを開いた。


「【重要】先日の暴動事件について」と書かれたタイトルに、あのオニを思い出して鼓動が早まる。ぎゅっと唇を噛みながら、おそるおそる画面をスクロールして本文を読み始めた。


 審判庁から全職員宛てに届いていたそのメールには、長々と文章が記載されていた。


 執行庁の職員による暴動事件が発生したこと。負傷者がいること。商店街に被害を受けた店があること。騒ぎを起こした本人がまだ昏睡状態にあること。審判庁はこの事件を仕事の不満が溜まった執行庁職員の抗議行動と考えており、そのオニの回復を待って重い罰を与えること。そして執行庁に注意喚起をおこない、しばらくの期間、環境庁が監督と監視をおこなうこと。


 ギンカはそれを読みながら顎に手を当てた。正直に言ってめちゃくちゃだ。


 前半部分はただの報告だから問題ないが、あの事件を抗議として扱うのには納得がいかない。執行庁が不満を抱えていたのは把握しているが、それを理由に商店街で暴れたりするだろうか。しかも、ただでさえ業務は逼迫しているというのに執行庁の監督役まで任されるとは。苛立ちを通り越して呆れすら感じていた。


「おい、ギンカ。メール見たか?」


 ロクが向かいのパソコンの脇から顔を覗かせている。ギンカが無言で頷いたのを見て、周囲をちらっと確認してからロクは声をひそめた。


「言ってること、ヤバくないか。あれが不満が溜まった暴動だと思うか? どう見てもそうは思えなかったけどな。仮にあのメールが正しいんだとしたら、商店街じゃなくて審判庁に殴り込むだろ」


 確かに、とギンカは相づちを打った。


「それにさ」ロクが付け加える。「決断が早すぎると思わないか? 昏睡状態って書いてあったけど、本人の話聞かずに一方的に悪者にするってさ」


 ギンカはもう一度画面に開いたメールに目を落とした。ロクの言うように、審判庁の言い分では話の筋が通らない気がするし、処分をそこまで急ぐ理由がわからない。執行庁はこれに納得できるのだろうか。


 ふと、頭の中にフジの言葉が浮かんだ。あのときフジは「裏切り者は地獄の底行き」と言っていたはずだ。


 地獄には、執行庁とは別に人々に罰を与える「地獄の底」という場所がある。ほとんどが執行庁に収容されるのだが、ごく一部、悪質な犯罪に手を染めた者や更生の余地がないと判断された者はそのエリアに閉じ込められる。審判庁が厳重に管理しているため、話でしか聞いたことがないが、地獄の底にはかつての時代を彷彿させる惨状が広がっているという。そこにいる魂は輪廻転生から外れ、永遠に奈落を彷徨うのだ。


 処罰の内容は「重い罰」としか記載されていないし、もちろんフジが言っていたのも正式な発表ではない。これはギンカの想像にすぎないのだが、もし彼が地獄の底に送られるとしたら。オニを殺めたわけでもない彼には、法外な罰ではないのだろうか。


 続けてピコンとメールを知らせる電子音がまた鳴った。ギンカは嫌な予感がして即座に開封すると、差出人は長官のウカイだった。そしてその予想はだいたい当たっていた。





「失礼します」


 そう声をかけ、ギンカとロクは庁舎の2階にある長官室のドアを叩いた。すぐに「入れ」とウカイの声が聞こえてくる。ふたりは重い木製のドアを押し開けた。


 長官室の中央にある立派なデスクは入口のほうを向いており、積まれた本や書類に埋まるようにウカイが座っていた。こちらは見ておらず、しきりにノートパソコンに文字を打ち込んでいる。ドアが閉まる音に、ウカイは手を止めて顔を上げた。


「まったく、こんな事態になるなんてな。早く副長官を指名しておくべきだったよ。これじゃあ後任を考える暇も引き継ぎする時間もなくてな」


 紺色の着物を着たオニはギンカの頭部に目を向けた。


「ケガは大丈夫なのか?」


「タカムラ先生に診てもらいましたが、傷はそこまで深くなく、すぐに治るそうです」


「そうか、それはよかった」


 ギンカの答えに長官は安堵したように長い息を吐いた。ロクのほうにも目をやり、さっそく要件を話し始めた。


「審判庁からの通達は見たな。おまえたちばかりに負担をかけて申し訳ないのだが、今から執行庁へ行ってくれないか? 監督と監視は別の者を担当に立てる。ボタンとも少しやり取りをしたのだが、自分の部下が一方的な悪者にされていることに納得がいっていないようで、先日の状況を知っているふたりに話を聞きたい、と。ジキトには庁舎に残ってもらい別の仕事を振っておく。どうだ、お願いできるか?」


 身を案じるようにロクがこちらを見ていた。気を遣って判断を委ねてくれたのだろう。ギンカは感謝を込めるように首を縦に振った。


「わかりました。すぐに執行庁へ向かいます」


 ギンカ自身も審判庁の出した通達に納得はしていない。いつもの視察ではほとんどボタンの役には立てていなかったが、もしかしたら今回は何か力になれるかもしれない。環境庁のテコ入れに怒り狂っていなければ、の話だが。


 長官室を出たふたりは足早に執行庁へ向かった。

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