第1章⑦

「だいぶ、派手にやっちゃったね」


 ギンカの額にできた傷を処置しながら、白衣を着たオニがこぼす。


 ふたりは地獄の医者であるタカムラが起床するまで、診療所のある後援庁で時間を潰していた。太陽が顔を見せ始めた頃、ケガ人を見つけた医者は、いつもより早い時刻に診療所を開けてくれたのだ。どうやら、深夜の騒動で治療が必要なほどのケガを負ったのはギンカだけのようだった。


「タカムラ先生、すみません。ありがとうございます」


 ギンカは申し訳なさそうに感謝を述べた。ツンとする香りが漂う診療所で、長椅子の隣に座ったロクが心配そうにこちらを見ていた。


 タカムラはまったくだ、と小さなため息を吐いたが、昨晩のフジとは違い、声色でこちらを気にかけているのがわかる。真っ白になった頭髪と髭に丸い銀縁のメガネをかけた医者は、地獄で唯一の立場であり、一目置かれた存在だった。


「そこまで傷も深くないし、すぐに治るさ。それよりも気になるのが、そのオニの話だけどね」


 治療器具や消毒液を片付けるタカムラの言葉に、ギンカとロクは神妙な面持ちで顔を見合わせた。頭部に巻かれた包帯の感触を確かめているギンカを横目に、ロクが話し出す。


「あいつ、いったい何があったんでしょう。普通の様子には見えませんでした。酔っ払いの喧嘩だとしても、あそこまで取り乱すのは難しいような気もしますし……」


「さあねえ。ワシももう地獄暮らしは長いが、昔はオニ同士の喧嘩なんてしょっちゅうだったさ。それだけ、今の時代が平和になったってことだよ。最近は診療所もワシもメンタルクリニックとかカウンセラーみたいな仕事ばっかりでね」


 タカムラは肩をすくめて小さく笑った。


「ま、君たちふたりも帰ったらちゃんと長官に報告するんだ。彼がどんな処遇になるかは、そのあとだろうね」


 穏やかに諭す医者の言葉に、ギンカとロクは硬い表情で頷いた。


 診療所を立ち去ったふたりは、後援庁の敷地内を歩いていた。まだ神経が昂っているせいか、疲れや眠気は感じない。思考を占拠しているのは、面倒事に巻き込まれてしまったらしいという事実だけだ。


「なあ、ギンカ」


 ギンカは顔を上げ、沈痛な面持ちでこちらを伺うオニを見た。


「おまえがあのオニを引き付けてくれたから何とかなったが、下手すりゃ大ケガだったぞ」


「わかってる、ありがとう。……やっぱり、慣れないことなんてするもんじゃないね」


 自嘲するようなギンカに、ロクはため息を吐いた。怒っているわけではないようだが、その表情は晴れない。複雑な心境なのはギンカも同じだった。


「けど、おまえがいなかったらもっと酷いことになってたかもな」


 やや俯きがちになったロクは、そこまで言うと思い出したようにギンカに視点を定めた。


「長官への報告はおれがしてくるから、このへんで休んどけ。昨日から寝てないだろ? それに、あんまり動くと傷にもよくない」


 ロクはギンカの肩に手を置くと、半ば強制的に近くにあったベンチに座らせた。口ごもりながらお礼を言ったギンカを残し、スタスタと道を歩いていく。


「また後で迎えにくるから、それまでちゃんと休んでろ!」


 そう言い放ったロクの後ろ姿を、ギンカはぼんやりと見送った。


 ベンチに座ったまま、自分の右の手のひらをじっと見つめる。一歩間違えば大けがを負っていたかもしれないという恐怖が、今になってようやく湧き上がっていた。オニである以上すでに死んでいる事実は間違いないのだが、ここでケガをして命を落とせば、それは輪廻転生から外れた永遠の死を意味する。


 構えた短剣を吹き飛ばされたときの感覚がまだ残っており、ギンカの右手は微かに震えていた。目撃者の誰かが審判庁に通報し、ギンカたちが暴動事件を起こした犯人ではないと証言してくれたのが不幸中の幸いだった。


 頭の中にはさまざまな不安や疑問が浮かんでいた。だが、ひとりになったことで気が抜けたのか、意思に反して脳はうまく働かない。やはり久々の徹夜に体はこたえているようだ。


 手を体の横に降ろしたギンカは、頭を上げて周囲を見渡した。


 後援庁は診療所があることもあってか、緑で囲まれた静かな場所に位置している。診療所の前の道にはヤナギの木が並んでおり、その奥には大きな湖があった。湖の水は透き通るほど綺麗で、立派な錦鯉が群れをなして泳いでいる。


 目を閉じれば木々のざわめきと鳥のさえずりが響き、優しく頬を撫でる風に、ここが地獄であることを忘れそうになる。


 しかし、改革が始まる前の地獄では、この場所は亡者を罰する池であった。ぐつぐつと煮えたぎった高温の池に、泣き叫び、逃げ惑う人々を投げ入れて罰していたのだ。


 当時、その倫理観について疑っていたオニはいなかっただろう。罪を犯した者は厳しい罰を受けて当然なのだから。それがすべての世界を正しい方向へ導くと信じていたし、ギンカも例外ではなかった。


 今にして思えば、記憶がなくてよかったかもしれない。もし本当の自分が誰であるかに気づいたら、地獄でしてきたおこないが確実に正しいものだったと、胸を張って言えるのだろうか。


 過ぎた時代がぼんやりと瞼の裏に浮かんでいた。いつの間にか瞑っていた目を開こうかとも思ったが、だんだんとそれすら億劫に感じる。


 しばらくの間、ギンカはそうやって聞こえてくる音に身を委ねていた。


 どれくらいそうしていただろうか。


 ふと、何か物音が聞こえた気がした。ギンカはゆっくりと目を開き、そちらに振り向く。


 そこにはひとりの女性が立っていた。頭部に巻いた包帯か、見慣れないオニの存在か、驚いたように固まって目を見開いている。しかし、すぐに表情を和らげると少し目を細めた。


「……邪魔しちゃいましたか?」


 びゅうと音を立て、風がふたりの間を通り抜けていった。


 女性が身に着けている淡い色のワンピースと、肩まで伸びたストレートヘアが優しくなびく。細い腕で耳元の髪を押さえる仕草には品があり、整った顔立ちは育ちの良さを表していた。


 オニではない。人だ。

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