第5話 桜狼の誓い

 

「……まったく、空気を読んだのか、読んでいないのか」


 直後、桜真が嘆息した。剣呑な雰囲気を見せた桜真に、美乃梨は体をこわばらせる。


「走れるか?」

「えっと、はい。大丈夫です」

く――いや、待て」


 走り出す気配を見せた桜真が、妙な間を見せた。美乃梨はとりあえず彼の言うとおりに走るのをやめて、平静を装う。彼女はこれまでの経験上、襲い掛かろうとしている相手はその存在に気が付いた様子を見せるとすぐに行動に移してくるのだと知っていた。


「このまま真っすぐに行って、丁字路を右に行くと先ほど言った四阿あずまやがある。そこまで走って、待っていてくれ」

「わ、分かりました」


 緊張を見せながら美乃梨は頷く。


「よし、行け!」


 美乃梨は全速力で走り出した。持っている袋が激しく揺れる。買ったものが中でめちゃくちゃになってしまっているだろうが、そんな事を言っている場合ではない。

 彼女の後ろで爆音が鳴った。何が起きているのか気になる美乃梨だが、振り返りもせず足を動かす。


 丁字路はすぐに見えてきた。言われた通りに右へ曲がり、更に駆ける。息が荒れ、徐々に足も重くなってきた。それでも速度をを落とさない己の健脚に美乃梨が感謝していると、右の方で強い光が迸った。

 反射的にそちらを見ると、すぐそこまで衝撃が届いて木々を薙ぎ倒していた。


(もしあの場に残っていたら……)


 あり得た未来に、美乃梨は生唾を飲み込む。

 桜真はこうなることを予見して自分を逃がしたのだと美乃梨は思い至って、感謝した。


 だんだん足を上げるのが辛くなってきたころ、ようやく美乃梨の視界に四阿が映った。

 美乃梨は残りの距離を勢いのみに任せて駆け込み、四阿の柱と膝に手を突いて息を整える。逃げて来た方角は、いつの間にか静かになっていた。


 美乃梨は四阿の椅子に座り、机に祭りの戦利品を並べて桜真を待つ。一人でいる不安からか、つい先ほどまで走っていたからか、彼女の心臓はバクバクと鳴って煩い。

 その拍動を、じゃりっと砂を踏む音が遮った。


「桜、ま……」


 弾かれたように振り向いた美乃梨の視界いっぱいに、化物の口内が映った。腐臭が彼女の鼻を突き、無数の牙を糸となった唾液が繋ぐのが見える。月明りばかりの夜にあって、彼女は不思議なほど鮮明にそれらを認識できた。


 再び感じた死の気配を、また、桜が遮る。

 ひらりと舞った桜の花弁。直後に白い閃光が奔って、真っ白な毛並みの狼足が化物を押さえつける。そこで初めて、化物が巨大な牛のような姿をしていることを美乃梨は知った。


「まったく、油断も隙も無い」


 桜真の声だった。しかし彼の姿は四阿の屋根に隠れて見えず、美乃梨は外に出る。

 そこにいたのは彼女のよく知る桜真ではなく、木彫りの狼の頭を持った巨大な化物だった。


 狼の首から下、上半身は木ではなく普通の狼のようで、大きな鳥の翼をもち、下半身は猫を思わせた。その猫の下半身から伸びる尾は蛇のもので、ちろちろと赤い舌を覗かせている。それらのいずれも、月明りを受けて美しく輝く白色をしていた。


 自分の背丈よりもずっと大きな化物だったが、美乃梨は不思議と恐怖を感じなかった。その存在に神聖さを感じたからではない。ただ、狼の瞳が、自分に優し気な光を向ける濃い桜色だったからだった。


「やはり、驚かないのだな」

「ええ。だって、人型の時と同じ綺麗な目をしていたから」


 彼は木の狼の口端を歪めてから、視線を牛の化物へ戻す。そこに先ほどまであった温かな光は無く、冷徹さばかり感じさせる色が宿っていた。


「辞世の句は浮かんだか?」

「ふんっ、化物め。神に並ぶ力を持った貴様に、我ら小妖怪の気持ちなど分かるまい」

「そうか」


 桜真は狼の足に力を込め、牛の頭部を踏みつぶす。妖の身体はそのまま墨汁のようになって、地面に吸い込まれた。


「妖ものは余程力の強いモノでもなければ身体は残らない」


 美乃梨が不思議そうに眺めていたからだろう。桜真が今起きたことを解説した。それからどこからともなく水を出して手を洗い、その身を無数の花びらに転じさせる。やがて桜吹雪が収まると、美乃梨も見慣れた細身で長身の男の姿があった。


「すまない、あちらは囮だった」


 木面であるはずの顔が歪む。狼の顔をしていても、それが苦心を表しているのが分かった。

 美乃梨は彼のすぐ横まで歩み寄る。


「でも、ちゃんと守ってくれました」


 平均より少し高い程度の身長の美乃梨では、しっかり見上げないと桜真の顔は見えない。その彼女を見下ろす桜真の表情は困惑しているようで、それが何故か、美乃梨にはおかしくて仕方なかった。


「……君には、きっと一生叶わないのだろうな」


 月明りと一緒に、そんな呟きが漏れる。


「一生って。まだ知り合ったばかりでしょう」

「ああ、そう、だったな……」


 桜真の声は寂しげで、美乃梨は妙に気になった。これは聞いても良い事なのかと、考えている内に、桜真が口を開く。


「私が、君を守ろう。何からも、必ず、守り通して見せよう」


 美乃梨は、己の胸が一度ばかり高鳴るのを感じた。祭り囃子の太鼓よりも強く、大きく、鳴るのを聞いた。今日初めて出会ったはずなのに、何年も前から彼の事を思っていたような、そんな錯覚を覚えた。


(いやいやいや、さすがにそれは無いって!)


 美乃梨は顔の熱くなるのを自覚して、必死に否定する。相手が人外なんてことは関係ない。つい数時間前に会ったばかりの相手に、そのような感情を覚える事自体がありえないと、勘違いだと言い聞かせた。


(そう、これはあれ。つり橋効果的な!)


 急に俯いた美乃梨を、桜真は不思議そうに見下ろす。


「どうした?」

「あ、いや、何でもないです!」


 勢いよく上げた美乃梨の顔に夜の冷えた風が当たる。それに心地よさを覚える程度には、顔の熱は残っていた。その熱も、真っすぐに見つめ返してくる桜色のせいで冷めてはくれない。

 ぐるぐると煮詰まる思考を、桜真の桜のような香りが加速させる。もうお酒も飲める歳なのに、美乃梨は自分が女子高生に戻ってしまったような気分がした。


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