夫と妻と砂漠の風

asomichi

 夫と妻と砂漠の風

 人生は、おとぎ話とたいして変わらないのではないかと思う。

 夜、寝室の椅子にじっと腰かけていると、わたしはそれをひしと感じる。

 窓から見える月とその向こうに広がる砂漠が、もう一度考えろ。と言っている。

 三年前に、家を出ていった夫の気持ちを考えてみろ、と。

「夢を見つけに行く」と言った彼の言葉。その情熱。……やっぱりわたしには判らない。

 ただ、ひとつ判ることがある。夫は、ここが居心地よくなかったのだ。

 古くからある砂漠のオアシス。その村の端にぽつんと建つわが家……。

 肌理の粗い手で、わたしは頬をそっとなでた。身体が埃っぽかった。腰のあたりを叩くと、床に砂がこぼれた。

 ふと気づく。裾から糸くずが何本も伸びている。全身をくるむこの服も、もうそろそろ寿命のようだ。

 膝の上で、懐中時計が「チッチッチ」となっている。

 チッチッチ

 ……どうも落ち着かない。

 わたしは耳の裏側をこすった。神経が過敏になっているのだろうか。しかたない。他に聞こえるものと言えば、風の音くらい。だから秒針の音にも過敏になってしまうのだ。無理もない……。

「──そう。それに、君とは三年ぶりの再会だから、というのもあるのかもね」

 わたしは指の爪で、懐中時計を小突いた。この時計、夫がここから去るときに一緒に持っていった物。

 はたと、わたしは眉を上げた。

「もちろん。この人との再会の方を重く見ているわよ」

 わたしは正面を見据えた。わたしの前にはベッドがある。ベッドのなかには夫がいる。

 三年ぶりに再会した夫が、死んだように眠っている。

 無意識に、懐中時計のふたをしめていた。最後に見たとき、針は明け方の三時過ぎを指していた。

 突然、背後から大きな音が鳴った。入口の木の扉が揺れている。

「……風よ」

 椅子に座り直して、隙間だらけの扉を眺めた。蝶番のねじはゆるみ、いまにも外れてしまいそうだ。

 わたしはランプをゆらぎを眺めた。

 扉だけじゃない。わが家には見えない隙間がたくさんある。そこを砂漠の風が吹き抜ける。

 風は、重たく激しく、そして寂しい。彼らは毎晩、扉をノックした。わたしは彼らを招き入れ、長くて深い夜を過ごした。

 疲れてきて、わたしはいちど目を閉じた。瞼の裏で、ランプの火がゆらゆらと揺れた。

「……男はロマンを追いかける生き物だ。とよく言われるけど、はたしてそうなのかしら」

 腰をまげて、わたしは夫の寝顔を覗きこんだ。「……三年前より痩せたわね」

 ここまで近づけば、夫の寝息も聞こえてくる。ぴったりと閉じられた瞼の一本線から長いまつげが伸びている。

 ほりの深い輪郭。伸び放題の髭。大きな鷲鼻。歳を感じさせる下瞼のゆるみ。わたしと同じ三十過ぎの、男の寝顔。

「ねえあなた」

 夫はぴくりとも動かない。「あなたは言ったわね。『夢を見つけるために旅立つ』って……」

 ベッドの足元に砂がこぼれている。彼が運んできたものだ。

「『夢を追いかけて旅立つ』のならわかるけど、夢が『ない』ことを理由に旅立つなんてなんて……」

 本当に、旅立つなんて、どうしてできたのだろう。

 こめかみが圧迫されるような痺れを覚えた。眠たいし、空腹のせいもあって、ぼんやりしてきた。

 彼が出て行ってから、わたしは、なにをどうして生活していたのだろう。どうもはっきり思い出せない。

 だけど、その間に育った観念だけは、くっきりと輪郭をもっている。

 わたしの夫は、この人なのだ。わたしは右手であくびをこらえた。

「そうね──なんにも思ってなかったのかも知れないわね」

 すると、夫の顎先がぴくりと震えた。

「あら」

 わたしは思わず苦笑した。そうかもね。わたしほど──女ほど──思ってなかったのかもしれない。だからあんなセリフひとつで旅立つことができたのね。

 砂漠の広がるこの国で、出会ったことを運命と信じ、十二年間連れ添った妻を放っていくだけの理由がそれでは、涙も枯れ果てる。

 しかもこんなボロボロで帰ってくるなんて。いや、実は帰ってくることも、ままならないところだった。

「偶然って、すごいわね」

 わたしは夫の頬をなでた。

 数時間のことだった。いつになく喉が渇いて、わたしはベッドの上で何度も寝返りをうっていた。なんとか眠ろうと思ったが、どうしても耐え切れなくなって、ついにわたしは外へ出た。

 井戸に降ろす桶のロープが、キリキリと音を立てる。

 井戸の底から上がってきた水を見て、わたしはほっとした。瓶に水を入れようとしたとき、胸がざわついた。

 風が、やんでいる。

 すぐそこに広がる砂漠には月が煌々と輝き、鉛色の夜空が一望できた。

 沈黙の砂漠に鳥肌がたった。足が勝手に駆け出していた。嵐の前の静けさを覚えたのだ。

 だがわたしは、自分から嵐をつかまえてしまった。

 怖いもの見たさがいけなかった。最後に砂漠を一瞥したときだった。砂漠の果てと村の始まりの境目に、誰かが倒れている。

 わたしは思わず片手で顔を覆った。見るんじゃなかった。長いため息をついたあと、水瓶を降ろして人影に近づいた。

「もし……」

 地面に突っ伏した顔を覗きこんだ瞬間、心臓が止まりそうになった。

 旅に出ていった夫が倒れていたのだから。

 最少はただもう混乱して、意味もなくあたりをうろうろしてしまった。汲んだ水を飲み干して、なんとか気持ちを落ち着けた。渾身の力で夫の襟元をひっつかみ、そのままうんうんと家のなかまで引きずり入れた。

 そしていま、ベッドで寝ている夫を、ぼんやりと眺めてしまっている。

「あんな扱いでよかったのかしら」

 すると、毛布が動いた。

「あうう」

 夫が、まぶたを震わせた。「ああ……君か」

「おかえりなさい」

「……君の微笑が、今日は恐ろしくてたまらない」

「今更ね。どうだったの、砂漠の旅は」

「すごい発見をしたよ」

 彼の声が弾んだ。痩せた腕を持ち上げて、握った拳を誇らしげに眺めている。

「夢とはなんたるかが判ったんだ」

「まあ!」

 なんとなく声を出してしまった。

「話しても?」

「どうぞ」

「夢ってのはね。かなえたら夢じゃなくなるんだよ」

 また扉が揺れた。夫は、がはがはと咳込んだ。

「待って」

 わたしは台所のコップを取った。「ゆっくり飲んで」

「ああ……水なんて貴重なものを」

 夫は指を震わせた。わたしは微笑んだ。

「そう。だからゆっくり飲んで」

「僕の話、聞いてた?」

 夫は水を飲み干すと、わたしをじっと見つめた。わたしは彼の髭についた滴を指先でそっと掬った。

「ええ」別段、驚くような答えじゃなかったけれどね。

 わたしは夫の頭を優しくなでた。

「僕はね、今回の旅の道中で、たくさんの『夢』をみつけたんだ。そしてそれを何とか実現しようとがんばったんだぁ」

 妙に間延びした語尾で夫は話し続ける。「最初にたどり着いた町はね、ここより幾分栄えていて、僕はそこの鍛冶屋のひとつに弟子入りしたよ。最高の剣を作る鍛冶屋になりたいと思ったんだ」

「まあ」

 わたしは夫からコップを受け取る。少し温もりがあった。

「でもね、熱した鉄を打つというのは本当になかなか辛いもので。僕は毎日、手を火傷しそうだったよ。そして一度、手元が狂ってしまって、小指が鉄のハンマーでつぶれてしまったんだ。それをチャンスに、もう鍛冶屋はやめようと決心したんだ」

「そうだったの……」「

 指はちゃんと残っているわね。よかったわ。

 まあ、なんとなくそんなことだろうと思っていた。勝手に探って悪かったけれど、旅の袋には、汚れた着替えと動物の骨が数本あるだけだったから。

 わたしは微笑んで、夫の頭をなでる。彼は眉をひそめて、天井に顔を戻した。

「そうなると、僕はその町でなんとなくいたたまれなくなってね。本当の夢を見つけるためにも、次の土地に向かったんだ。今度は山の谷間にある村にたどり着いた。山なんてめったにお目にかかれないから、それだけでずいぶん興奮したよ」

「わたしはまだ見たことないわ」

 夫は、ふふっと笑い返す。

「そこで僕は、山に放牧している家畜の世話係の仕事を見つけたんだ。そいつは大型犬くらいの図体で、羊みたいな毛を生やしているんだ。冬になったら身体の三倍以上の毛を生やすんだけど、その毛を刈るのも仕事だった。毛は村の職人が絨毯に加工したり、毛布にしたりするんだ。村はその毛織物業で成り立っていたから、僕の仕事は結構重要なんだと、誇りをもったよ」

「すばらしいわね」

 でも、こんな風に帰ってきたということは、そこでもなにか起こしたのね。

「でもね……ぼくはそこでへまをしてしまったんだよ」

「まあ」

「その冬は、とても飢えの厳しい冬で、胃袋が背中に向かってへこんでいくような空腹のなか、そいつらの毛を刈っていたんだ。けど……毛を刈って丸裸になったやつが本当においしそうに見えてね……」

 そこで夫は言葉を置いた。わたしは足を組みなおした。

「やってしまったんだ」

ったの?」

「殺っちまった。喰っちまった。焚火をおこして、一頭丸焼きにしちまったんだ」

「……それはクビになってしまうわね」

「やっぱり君もそう思う? ぼくもそう思って、向こうから言われる前に食べきれなかったそいつを袋につめて、さっさとそこから逃げ出したんだ」

「……それはいつの話?」

「つい、2カ月前さ。その先は、話すことはなにもない。僕はもう、夢を見つけに違う土地にいくのはやめて、家に帰ろうと思ったんだ」

「そうなの……」

 仕事を中途半端に投げ出して、家畜を喰って逃げた男……。

 いきなり打撃の音がした。服の裾が揺れている。嫌だ。風が脅迫的に扉を叩き始めている。

「それで僕は、家に帰る道中、夢とはいったいなんなのか、ずっと模索し続けてきたんだ」

 夫は言って、天井をじっと見つめた。天井には天井しかない。

 わたしは黙って、夫の伸び放題の髭をいじった。

「それで判ったのが、夢とは、叶えたら夢じゃなくなるということなんだよ」

「もういいわ」

「まあ聞いてよ。続きがあるんだよ」

 夫の目が、わたしの瞳の奥を覗き込んだ。

「だけど、果敢に挑戦するほどに、夢は現実に近づいて。叶うかな、と思うようになってくると、現実という失望と苦痛が、その夢にへばりついてくるんだ。今までは何にも行動を起こさないで──だからこそ綺麗に頭のなかだけにあった無垢な夢が、垢まみれた現実に汚されていくんだ。夢が、こそげられてしまうんだ」

 わたしは夫の髭から手を離した。

「だからね、夢を持ったならそれは決して叶えようとしちゃいけないんだよ。叶えようとする過程で僕は胸かきむしり、地面に這いつくばり……生きていることが嫌になるくらい苦しいところへ追いやられてしまったんだ。判るかい? 僕は理解できたよ。夢は夢として、それにおぼれながら現実を生きていった方がいいんだ」

「なるほどね」

 それは、皮肉な返事ではなかったと思う。わたしは本当になるほどと思った。

 だって、わたしも、ある種この人と同じ価値観を持っているから。わたしはそれを、この三年間で骨身に染みて理解していた。

 わたしは決して、夢を持たない。夢なんて見ていたら現実が絶望と不満でみたされてしまうもの。叶いそうもない夢なんて、抱かないのが一番だと、わたしは信じて生きている。

 まるで正反対なわたしたち? 違うわ。夢と現実をひとつにしようとしないところは、恐ろしいほど一緒なの。

 夢は、理想。

 理想は、理想。

 現実には決してなりやしない。

 貧しい暮らしと寂しい日々を、夢という蜃気楼で包めるほど、わたしはロマンチストじゃないのよ。

「本当に、その通りね」

「だけどね、夢見ずにはいられないんだ」

 彼の瞳から、ぼろりと涙がこぼれた。

「どうして」

 彼は背中を揺らしている。「どうしてあなたが泣くの」

「判らない。でも君こそどうして泣かないんだい」

 喉が小さく詰まった。「どうして僕を助けたんだい。どうして僕を罵らないんだ。こんな夫が、無様な姿で話すことは、謝罪でもない。自分がしでかしたことを綺麗そうに偽って……」

 夫は腕で顔を覆った。

「君はそうして微笑んだままで、ちっとも僕に不満を言わない。もう僕が嫌いになったのかい。もう僕はいなくてもいっしょなのかい。怒る対象にもなり得なくなったのか」

「違うわ」

 両手が、彼の頬を包み込んでいた。「違うわ。そのまま愛しているの」

 毛布を引き寄せ、わたしは彼の隣に入った。夫の顔が、目の前にある。泣いたまま、彼は困惑の表情を浮かべている。

「だって、わたしの夫はあなただもの」 

 わたしは彼の瞳を──その奥にある自分の姿を──見つめた。

 目を閉じて、わたしは彼の呼吸を聴いた。

 理想を掲げてどうなるの。理想の夫を求めてどうなるの。

「思い出して。結婚して初めて、この家で一緒に豆のスープを飲んだのは誰。あなたよ。あのときも、あなたはこんな風に、頼りなげで、生身で。自分で言うような理想になんてぜんぜん届いていなかった。でも、わたしは幸せだった。そう、幸せだったのよ」

 わたしは瞼を、彼のひたいにそっとあてた。

 その意味を……この三年間ずっと考えていた。

 目頭が熱くなった。夫のような激しい涙じゃないけれど、空白の時間を溶かすには充分だった。

 扉はいまも、がたがたと音を立てる。もう、聞いていても寂しくならない。あなたが帰ってきたんじゃないかと、夜中に跳び起きなくていいのだ。

 いつ帰ってきても喉だけは潤わせてあげられるように、コップ一杯の水だけは置いておいたことを、あなたはなにも知らなくていいの。

 わたしが好きでやっていただけで……そういう意味では、私はいつも頭のなかに夢を添えて、この現実を生きていたな。

「わたしの方が夢見がちだったのかも」

 自然と、笑みがこぼれていた。心が、羽のように軽くなった。

 ここでわたしは生きている。外の砂漠は砂漠のまま。帰ってきた夫は夫のまま。子どもはいない。家は貧しい。服も買えない。

 だから、なんだっていうの。

「なんだっていうの」

 夫は黙ってわたしを見つめる。

 だから、いまがなんだっていうの。わたしはそれでもどうにかこうして生きている。夫はいまわたしの隣にいる。どんな造りであれ、家だってちゃんとある。いま裸じゃないのは、服が一着でもそろっているからよ。それ以上、なにを望んで生きるの。

 わたしはもう、望まない。望まないで幸せだから。いまが充分幸せだと思えるなら、不幸になるための理想なんて、願う必要なんて、ない。

 貧しかったと嘆くのは、死んでからでいいのよ。

「幸せよ」

 夫の髪をかきあげた。

 わたしの夫は、この人なのだ。

「それで……旅から帰って、次はなにをするつもり?」

 夫は涙を浮かべたまま、ぎこちなく微笑んだ。

「君と、一緒に暮らしたい」

                  了


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