第35話 対話

 今度こそ俺はこの場を離れた。


 橋の下から出て階段を上り堤防の上を歩く。

 普段よりもずっと歩調が早い。

 自分がまだ興奮してることに気づき、自覚したことによって徐々に落ち着いていく。

 今ごろになって拳がじくじくと痛み始めた。


 すぐ後ろから足音がした。

 俺は歩調を緩め、振り返った。

 切れ長の大きな目と視線がぶつかった。


「なんでここにいんの」


 俺は今更のように尋ねた。

 真崎は素っ気なく答える。


「お前がボコボコにされるところを見物しようと思って」

「悪趣味だな」


 まあ、そこは不思議じゃない。

 俺の無様な姿を眺めるためなら深夜徘徊くらいはするだろう。


「でも、じゃあなんで助太刀なんてしたんだよ」


 助けてもらったわけだから文句を言うつもりはないけれど、純粋に疑問なのだ。

 まさか俺を助けるためではないだろう。

 多対一の構図が気に入らなかったのだろうか。

 そう考えたけれど、真崎がそこまで潔癖だとも思えなかった。


 真崎は言いづらそうにしていた。


「なんだよ」


 水を向けてようやく口を開く。


「お前たちの会話が、聞こえたから」

「……ああ」


 それだけで俺は納得した。

 少し間を置いてから、真崎は尋ねてきた。


「あれってさ、つまり」


 真崎が最後まで言葉にしてしまう前に、俺は頷いた。

 息を呑む気配が伝わってきた。


「ま、でも未遂だったけどな。俺がたまたま通りかかって」


 真崎がほっと力を抜くのがわかった。


「その子がさ、俺の妹の友達だったんだよ」

「それで、お前は、その仕返しに」

「仕返しって言うか、これ以上手出しさせないためだな」


 真崎は眉を吊り上げた。


「なんでそれを先に言わないんだよ。そういうことなら、私だってもっと協力したのに」

「その子は誰にも知られたくないって言ったんだよ。なら、俺が無闇に広めるわけにはいかないだろ」

「私は、そんな口の軽い女じゃ」


 真崎の言葉は尻すぼみになる。


「……いや、そうだな。お前が正しい」


 そうしおらしくされると調子が狂う。

 俺は話題を変えた。


「それにしても、意外とあっさり勝てたな。たかが五日の特訓で」


 実質、三発で勝負がついたのだ。

 気を取り直したように真崎は顔を上げた。


「前にも言っただろ。素人同士の喧嘩なんてほとんど勢いだって」

「ああ、確かに、お前が現れたときのあいつの動揺っぷりいは、えげつなかったもんな」


 思い出してつい笑ってしまう。


「そうなんだよな」


 真崎は不審がるように言った。


「どうした?」

「いや、なんであんなに動じたのかなと思って」

「待機させてた仲間が全員やられたら動揺くらいするだろ」

「女の私がそれだけのことをしたって普通信じられるか? 何かの間違いだと考えるだろ」


 真崎の言うことには一理あった。

 俺もだんだん不思議に思えてくる。


「あいつってどこ中?」


 尋ねられ、嶋中の在籍している中学校名を告げた。

 すると真崎は目を見張る。


「私の出身中学だ」


 俺は思わず噴き出した。


「なんだよそれ。つまり、あいつはお前の凶暴さをもともと知ってたってことか」

「凶暴とか言うなよ」


 じとっと睨んでくる。

 それから真崎は、やはり不審げに言った。


「でも、私が荒れてたのは中二の頃までだ。三年になってからは、喧嘩らしい喧嘩はしてないんだよ」

「それが?」

「あいつの前で、私は喧嘩をしたことがないはずなんだ」


 だから、嶋中があそこまで動じたのはおかしい、と言いたいのだろう。


「噂に尾ひれがついて、伝説みたいになってんじゃねえの」


 思いついたことをそのまま口にしてみた。


「そうなのかな」


 納得がいかないようで、真崎は首を捻る。


「なんにせよ」


 そうつぶやきながら、俺は立ち止まった。

 いつの間にか横に並んでいた真崎も数歩遅れて足を止め、こちらを振り返った。


 いまさらだけど、真崎の私服姿を初めて見る。

 だぼっとしたパーカーにタイトなジーンズ。

 見事な美少年だ。


 嶋中は真崎を男だと勘違いしたんじゃないか?


 という可能性に気づいたが、同じ中学の出身ならそれはないだろう。

 パーカーのポケットの中で手を組んでいるようで、真ん中の部分が膨れていた。


 俺は言った。


「助かった。ありがとう」

「……別に、私が勝手に乱入したんだし、そんな改まらなくても——てっ、何してんだお前!」


 真崎が急に声を張る。

 俺はひざまずいた姿勢のまま顔だけを上げた。


「ん? 土下座しようとしてるんだけど」

「な、なんで!?」

「なんでってお前、男に土下座させるのが趣味なんだろ? だから感謝の意を表そうと思って」

「そんな趣味はねえよ!」

「あれ、そうなの? 学校で噂になってたんだけどな。『真崎沙紀は男に土下座させるのが趣味だ』って。四日くらい前から」

「それ絶対お前のせいだろっ」


 真崎は涙目になる。


「ああ、そんな噂が流れてんのかよ。どうしよう……」


 そしてキッと睨みつけてきた。


「お、なんだ、やっぱ土下座しとくか?」

「だからいいって言ってるだろ!」

「……そうか」

「なんで残念そうなんだっ!?」


 近くの住居の窓がガラッと開き「うるせえぞ!」と怒声が飛んできた。

 俺は人差し指を唇に当てた。


「お、お前が悪いんだろっ」と真崎が言う。

「人のせいにすんな!」


 俺は真崎をたしなめた。


「うるせえって言ってんだろボケ!」とまた怒声が飛んできて、俺たちは慌てて駆け出した。三十メートルほどで徒歩に戻る。


「そういや、お前はなにでここまで来たんだ。自転車?」と俺は尋ねた。

「いや、電車」

「駅は反対方向だぞ」

「終電に間に合わねえよ」


 ああ、もうそんな時間か。


「ちょっと見物してすぐに帰るつもりだったからな。しくった」

「どうすんの」


 真崎はがしがしと頭を掻いた。


「歩くしかないだろ」


 俺は空を仰いだ。

 どんよりとした雲が一面を覆っている。

 優実と再会した夜も、ちょうどこんな空模様だった。


「送ってくよ」

「あ? いらねえよ」

「送ってくから」


 俺は硬い調子で繰り返した。


「……わかった」


 長い間を置いてから、真崎は小さな声で言った。

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