第6話
突然の出来事に叫びかけたその瞬間、小春さんの手がわたしの口を塞いだ。
「しー、大きな声出さないでね。近所迷惑になるから」
言われても驚きと焦りで頭が真っ白なわたしには、その声は届かない。
「静かにできるよね?」
低く落ち着いた声が耳元で響く。その瞬間、もごもごしていた口がピタリと止まり、わたしはまるで叱られた子犬のようにしょんぼりと頷く。
「うん、いい子」
この人には逆らえないと本能的に悟る。
シャワーの水音が静かに響く中、頭の中では不安がぐるぐると渦巻いている。このあと一体どうなっちゃうんだろう?
「あの、なんで一緒にシャワー浴びるんですか?わたしが浴びたあとでもいいと思います」
「んー? そっちのほうが水道代節約できるでしょ?」
「本当にそれだけですか?」
疑わしく思い突っ込むと、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて鏡を指さした。
「もちろんそれだけじゃないよ。鏡見てみ」
言われた通りに視線を移すと、裸の小春さんとわたしが並んで鏡に映っているのが目に入った。小春さんのすらりとした体と、情けないくらい羞恥で真っ赤になっている自分の姿――その対比が目に焼き付いて、たまらなく恥ずかしい。
「顔、真っ赤で可愛い」
彼女はふっと笑い、鏡越しにこちらをじっと見つめる。
「暑いだけです……」
わたしは慌てて視線を外し、今さらながら手で体を隠す。隠したところで何も解決しないのはわかっているけれど。
鏡に映る彼女の姿は、まるでモデルみたいにスタイル抜群で完璧だった。それに比べて、わたしなんて。
「お前の体もキレイだよ」
不意に優しい声が耳に届き、小春さんの指がそっとわたしの腕に触れる。心を読まれたようなその言葉に、一瞬だけ胸のざわつきが和らぐ。
「そういえば、名前をまだ聞いてなかったな。教えて」
「小鳥遊唯です」
「へー可愛い名前じゃん。似合ってるよ」
唐突だけど、褒められたことで不思議と少しだけ安心した――小春さんの笑顔が、今はなんとなく怖く感じなくなっていたから。
「でも、小春さんのほうが可愛いです。わたしも小春さんのようにナイスボディなら……」
「なんだよその反応。好きなやつでもいんのか?大丈夫だって、唯は今のままでも可愛いから」
「そ、そんな人いないです!!」
あわてて否定するが、小春さんはにやりと笑う。
「そいつは男か?それとも……女か?」
「どうしてそこで女の子が出てくるんですか!?」
思わぬ質問に、思わず声を上げてしまう。たしかに女子高なら女の子同士の恋愛が存在するって話は聞いたことがある。でも、わたしには縁遠い話だ。
こんな地味なわたしを好きになる人なんて、いるはずがない。
「どうしてって?だって……」
小春さんが意味深に言葉を切る。その瞬間、目の前が影で覆われ反射的に目を閉じた。
「……えっ?」
おそるおそる目を開けると、小春さんがわたしのすぐ目の前で、壁に片手をついていた。いわゆる壁ドン。
「こんなことされても、拒否しないじゃん」
近すぎる距離に、心臓がドクドクとうるさくなる。一瞬ドキッとしてしまったけれど、慌ててその思いを振り払う。
「あまりふざけたこと言わないで下さい!!」
「でもさ……唯、ちょっと嬉しそうな顔してたよ?」
これ以上は心に余裕がなく、わたし思わず浴室から飛び出す。
逃げるように駆け出したわたしの背中を見つめながら、小春さんはふっと笑みを浮かべ、ポツリと呟いた。
「学校に行く楽しみができたかもな」
◇◇◇
『なんなのあの人!』
心の中で叫びながら、わたしは街中を歩き続けていた。小春さんのからかうような態度を思い出して、胸の奥がモヤモヤとする。
「人の心を、もて遊ぶみたいに……!」
はぁ……思わず飛び出してしまったけど、ここどこだろう?街中だってことは分かるけど、普段あんまり出かけないから道が全然分からない。しかも、これ、小春さんの服じゃん。急いで着替えたせいで、自分の服を置いてきちゃったし。髪も濡れたまま……もう最悪。
戻らなきゃいけないのは分かってる。でも、どんな顔して戻ればいいのかが分からない。いきなり飛び出してきちゃったし、小春さん、怒ってるかな。それとも心配してる?いや、驚いてるだけかも?
考えるだけで、頭がますます混乱する。
「やっぱり怒ってるよね……」
わたしはその場に立ち止まり、大きく深呼吸をする。けれど、それでも気持ちは落ち着かない。
それにしても、服がダボダボで歩きづらい。なんか、彼シャツみたい……そう思いながら、袖の部分に顔を近づける。
「あっ、いい匂いする……」
――って、なにやってんのわたし!?あんなことがあったばっかりなのに、なんでこんなことでキュンキュンしてんの!?
自分に呆れつつ、ふと周囲を見渡すと、夏休みを楽しむ人たちでいっぱい。カップルやエンジョイキッズが笑顔で通り過ぎていく。わたしはそんな中、一人でポツンと立ち尽くす。
「一旦、家に帰ろ」
スマホを取り出して位置情報を確認しようとするけど――画面が点かない。充電が切れてる。
「うそでしょ、もう最悪……」
仕方なく周りの人に道を聞くしかないと思い、同じくらいの年齢っぽい女の子を見つける。心の中で深呼吸して、意を決して声をかける。
「あ、あの……」
けど、声が小さかったのか相手は気づいてくれない。もう一度、今度はさっきより大きな声を出す。
「あの!」
こちらを振り向いた。目が合った瞬間、わたしの心臓がバクバクと鳴り出す。
――無理、無理無理無理!!
「な、なんでもないです!!すみません!」
勢いだけで謝り、その場からまた逃げ出してしまった。
逃げついた先は、ひっそりとした公園だった。人通りが少なくて、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだ。
「はぁ……この調子じゃ、家に帰れないかも……」
ベンチに腰を下ろし、膝を抱えてため息をつく。一生帰れないかも――そんな最悪のシナリオが頭をよぎる。そんなことを考えていたら、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような気持ちになる。
そのとき、ふいに声をかけられた。
「どうしたの?」
驚いて顔を上げると、スーツをきっちり着こなしたOL風の女性が二人立っていた。どちらも大人っぽくて少し眩しいくらい綺麗。
「大丈夫?」
もう一人の女性も優しい声で問いかけてくれる。
親切な人だ!この人たちに助けてもらう!!
まるで神と出会ったかのように、涙を浮かべ立ち上がる。
「わたし、迷子になっちゃって……」
勇気を振り絞って事情を話すと、二人は笑顔で駅までの道を教えてくれた。
「ありがとうございました!」
何度もお礼を言って、わたしはようやくほっとする。けれど――
「ねぇ、せっかくだからさ。少しだけお茶でもしていかない?」
「駅までは近いし、そんなに急がなくてもいいよね?」
2人の雰囲気が、ほんの少し変わった気がした。
「ご親切に本当にありがとうございます。でも、早く帰らないといけないので……」
嫌な予感がして、わたしは急いでその場を離れようとする。
「そんなに焦らなくてもいいじゃない。ほら、お姉さんたち、いいところ知ってるよ?」
腕をつかまれ、体が強張る。視線を向けると、2人の笑顔にわずかな不気味さが滲んでいた。
「あの……」
声が震えて、それ以上の言葉が出てこない。どうしよう……力が入らない。
◇◇◇
日が落ちて、辺りは薄暗い。不安と恐怖が心を押しつぶしそうになる。視線を泳がせても、人通りはなく、誰も助けてくれる様子はない。
力強く腕を掴まれたまま、彼女たちに引きずられるように歩かされる。
「ここ、いいところでしょ?」
目の前に現れたのは、派手なピンクのネオンで縁取られた建物。
全く知識がないわたしでも、なんとなく分かる。ここがどういう場所なのか。
「あの、本当に休むだけですか?」
震えた声で聞くと、2人は顔を見合わせてくすくす笑った。
「分かってるくせに」
2人の反応で確信に変わった。
「待ってください。本当に帰らないといけないんです!」
「ここまで来たんだし、ちょっとくらいいいじゃない」
「嫌な思いはさせないから。あなたは、ただわたしたちに身を任せるだけでいいのよ」
2人の手がわたしの肩を押さえた瞬間、背筋に悪寒が走る。
「やめてください!!誰か助けて!!」
必死に声を上げるものの、弱々しい抵抗にしかならない。涙がにじみ、震える声でぽつりとつぶやいた。
「助けて、小春さん……」
その瞬間――
「おーい、唯。何してんだ?」
今、一番聞きたかった声が聞こえた。振り返ると、小春さんがこちらに向かってきている。
「小春さん!!」
小春さんは、一瞬で状況を察して険しい表情を浮かべた。
「悪いけどおばさん、その女は私の女なんで。欲求不満なら2人でそこのホテルで楽しめば?」
低く冷たい声に、2人の顔がこわばる。
「全く、無駄な時間だったわ」
「付き合ってる人がいるなら最初に言いなさいよね」
2人は苛立ちを隠せない様子で背を向けた。
完全にいなくなったのを確認して、わたしはその場にへたり込む。
「どうして、ここにいるって分かったんですか?」
「急に飛び出したから心配になってな。お前、チョロそうで危なっかしいんだよ」
「……ありがとうございます。本当に助かりました」
泣き笑いのまま、小春さんを見上げた。
「なあ、そろそろ立てるか?」
「……無理です。おぶってもらえますか?」
「しかたねぇな」
小春さんは小さくため息をつく。めんどくさそうな表情を浮かべ、わたしを背負って歩き出した。
◇◇◇
「小春さん、あとどのくらいで着きますか?」
「もう少しだな。今日はほんと散々だったな、お前」
「そ、そうですね……」
それどころじゃない。本当にやばい……膀胱が……。
「あの、小春さん、急いでもらっていいですか?」
「私だって疲れてんだからな……」
ぐいっとわたしを背負い直す小春さんに、わたしは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「急いでください!ほんとに大変なことになるんです!」
小春さんは少し足を速めてくれた。だけど、振動が地味に効く……!歩くたびに、ピンポイントで攻撃されてる気分。もう限界――!
「ほら、家が見えてきたぞ」
「ごめんなさい、小春さん……」
「はっ?何だよ急に……ん?あったけぇ……」
一瞬で状況を理解した小春さんは、大声を上げた。わたしは恥ずかしさで顔を隠すことしかできなかった。
シャワーから戻ってきた小春さんは、疲れ切った顔でわたしを見下ろす。
「お前のせいで、2回目のシャワーだぞ」
「本当に申し訳ないです……」
こうして、波乱の1日は幕を閉じた。
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