アクマノワナ



「だから、合ってない。何回言わせんの?」


 スタジオの中に、響くんの静かな怒りの声。


「ごめんなさい。入るタイミングが、どうしてもつかめなくて。お願い。あと一回だけ」


 さっきから、わたしは謝りっぱなし。前評判どおり、練習になると、めちゃくちゃ厳しい響くん。さすがに、缶が飛んでくるというのは冗談だったっぽいけど。


「イライラする。俺、もう帰る」


 そう言い捨てると、響くんは乱暴に、シールドをギターとアンプから引き抜いた。


「え? 本当に帰るの?」


 加瀬くんが、びっくりしてる。


「熱くなるなよ、響」


 遊佐くんの方は、のんきに笑ってるけど。こういう雰囲気、小心者のわたしは、ドキドキしちゃう。


「待って、響く……」


 わたしがあたふたしてるうち、響くんはギターのケースを肩にかけて、スタジオを出て行ってしまった。


「あーあ。行っちゃった」


「まあ、いいよ。時間まで、適当に遊んでよう」


「だね。あ、遊佐。俺、ギター弾きたい」


 むしろ、遊佐くんと加瀬くんの二人は、この状況を楽しんじゃってる。わたしは、気が気じゃないよ。


「どうしよう? まずいよね?」


 わたしが、響くんのあとを追おうとしても。


「いいよ。来週、ケロッとして来るから」


 遊佐くんは、何とも思ってないみたい。でも……。


「やっぱり、行ってくる」


 どうにも落ち着かなくて、わたしもスタジオを飛び出した。


「響くん!」


 駅の方向に走ったら、すぐに見つかった、響くんの後ろ姿。


「何? 来たの? うっとうしい」


 うわ。すごく、機嫌悪い。


「ごめん。だって……」


「だいたい、スティックとか持ってくるなよ。みっともない」


「あ」


 たしかに。夢中だったから、むき出しのまま、ステッィクなんか持ってきちゃったよ。あわてて、スティックを自分のシャツの背中に押し込んで、下の部分をパンツのポケットに入れてみた。


「なおさら、おかしい」


 響くんから、あきれた視線。


「だって、みっともないって」


「……なんか、どうでもよくなった」


 そう言って、すぐ前の自動販売機でミネラルウォーターを買うと、響くんはキャップを開けて、わたしに差し出した。


「すごい汗。飲みなよ」


「えっ? あ、ありがとう」


 戸惑いつつ、それを受け取って、冷たい水を口に含む。この代金は、次回返せばいいかなと考えていたら、すぐに響くんはペットボトルをわたしから取り上げて、普通に自分で飲んだ。


「…………」


「だいたい」


 そこで、げんなりした表情で、わたしの顔を見てくる、響くん。


「な、何?」


 響くんの言動は予想がつかなくて、身構えてしまう。


「どんなに落ち込んでるか、楽しみにしてたのに。立原さん、全然元気じゃん」


「そ、ショックだったよ、すごく。でも……」


「でも、何?」


「ずっとモヤモヤしてたことが、はっきりわかったから。かえって、すっきりした気がする」


 今、遊佐くんのいちばん近くにいるのは、わたしなんだし。


「へえ。思ったより、楽観的だね」


「いいの。わたし、遊佐くんのこと、信じてるもん」


「信じてる、ねえ」


 意味ありげに、響くんがくり返す。


「あの……」


 ここ数日、言おうかどうしようか、迷っていたことがある。思いきって、聞いてみることにした。


「響くんは、大丈夫なの?」


「何? 俺?」


 意外そうに、響くんが声を上げる。


「だって、そんな不自然な状態が続いてて……響くんだって、つらかったでしょ?」


「べつに。見てると、面白いよ」


 響くんは、表情を変えないけど。


「この前のDVの話も、響くんが亜莉ちゃんに暴力を振るってるわけじゃないよね? あのあと、そういう噂があったって、美緒ちゃんにも聞いたけど。でも、彼女に手を上げるなんて、そんな合理的じゃないこと、響くんはしなそうだもん」


「まあね。あれは、アルコール依存症の亜莉の父親がやってること」


「やっぱり」


 なんだか、複雑な思いを抱いた。


「亜莉ちゃんのことは、よくわからない。でも、響くんにとって、遊佐くんは特別な存在で、大好きでしょ? それなのに、面白いわけないよ。絶対、無理してる」


 と、響くんに視線を向けたら。


「俺が、無理してるって?」


 響くんが、すごく冷たい目で、わたしを見た。まずい。調子に乗って、立ち入り過ぎた?


「ごめん、わたし……」


 悪気はなかったんだけど、気に障っちゃったのかもしれない。でも、次の瞬間。


「いいよ。全然」


 響くんは何もなかったように、飲み終わったペットボトルを軽く投げて、回収箱に入れた。


「とにかく、今日は帰る。来週の練習は、また日曜がいいって、二人に言っといて。これ、今日のスタジオ代」


「わかった。渡して、伝えておくね。今日は、ごめんなさい。練習も、もっと真面目に頑張るから」


 なんとなく、今度は引き止められない。


「またね、立原さん」


 このときの何とも言い難い響くんの表情は、スタジオに戻っても、しばらく頭から離れなかった。


「遅かったな」


 扉を開けると、ほぼ片付けを終えていた、遊佐くんと加瀬くん。


「帰っただろ? 響」


「あ、うん……ごめんね」


「だから、気にしなくていいんだって」


 遊佐くんが笑って、わたしの頭に軽く手を置いてくれる。


「来週は、練習どうする?」


「響くん、日曜がいいって。それと、今日のスタジオ代も預かったよ」


「律儀だなあ、響」


 加瀬くんも笑ってる。これ以上、わたしが気にしていても、しょうがないよね。亜莉ちゃんのことで、響くんがどんな選択をするのかだって、響くんの意思でしか決められないんだから。






「嘘……この曲、本当に遊佐くんが作ったの?」


 スタジオを出たあと、加瀬くんと遊佐くんの部屋に寄って、響くんと昨日ったという音源を聴かせてもらっていた。予想と期待をはるかに飛び越えた曲と音に、言葉も出ない。


「へえー。いいね。ネオアコに、エレポップ味を加えた感じ?」


「ええっ?」


 加瀬くんの感想に、前のめりで反論してしまう。


「そういうんじゃないよ……! そういうジャンルとかではくくれないし、括りたくないよ」


 ポップなのに、こんなに胸がしめつけられて、切なくなっちゃうような曲。絶対、遊佐くんにしか歌えない。


「よけいな発言、すみません」


「あ。や、ごめん、加瀬くん。つい」


 あわてて、隣の加瀬くんに謝る。思わず、理性を失っちゃった。でも、永遠に聴いていたいくらい、いい曲だったから。遊佐くんの声も、世界でいちばん大好きだし。


「いちいち、大げさだから。こいつ」


 遊佐くんも、ちょっと引き気味。


「いや、立原の言うとおりだし、遊佐も素直によろこんでいいよ。そういえば、ライブも決まったんだっけ」


「そうだったの?」


 加瀬くんの言葉に、のけぞる。


「そう、二ヵ月後。言ってなかったか。まあ、大丈夫だよ。いつもの感じで」


「いつもの感じって」


 わたし、今日も響くんに切れられてるし……と、そこで。


「俺、そろそろ行くよ。立原は、まだいるよね?」


 時計を見て、加瀬くんが立ち上がる。


「あ、えっと……うん」


 結局、この流れ。いつまでたっても慣れないし、恥ずかしいけど。


「じゃあ、ごゆっくり。さっきの曲、あとで俺にも送っといてね」


 ひやかすように笑って、加瀬くんは部屋を出ていってしまった。ちょっとだけ、気まずいような。


「加瀬くん、帰っちゃったね。あの曲、もう一回……」


 ドアが閉まると同時に、遊佐くんに後ろから抱きすくめられて、わたしの言葉は遮られた。そして、顔を遊佐くんの方に向けられ、キスを……と、思ったら。


「誰だ?」


 呼び出し音の鳴った iPhone に、おっくうそうに目をやった、遊佐くん。でも。


「待ってて」


 画面を確認したとたん、急に表情を変えて、通話ボタンを押した。


「何かあったのか?」


 いつもと違う遊佐くんの声。電話の相手が誰なのか、わかっちゃったよ……。


「いや。俺が、そっちに行く。ああ。じゃあ」


 最後は、口早に電話を切ると。


「ごめん。亜莉と会ってくる」


 目の前の椅子にかけてあった上着に、もう腕を通してる。


「あの、どうしたの?」


 冷静にならなきゃ。そう、自分に言い聞かせる。


「響が、バカなことを言ってるらしい」


「響くんもいるんだ?」


 少しだけ、ほっとしたけど。


「悪いけど、もう出るから」


 遊佐くんは気が気じゃないようすで、すでに玄関に向かっていた。こんな遊佐くん、初めてだよ。後ろも見ず、先を急ぐ遊佐くんのあとを追う。響くんと亜莉ちゃんの待つ駅に、電車が着いた。


「大好きだからね、遊佐くん」


 遊佐くんが降りようとしたとき、勝手に口から言葉が出た。すると、遊佐くんは。


「知ってる」


 いつものように、そう笑って、早足でホームを出ていった。明日、学校で会えるもん。そうしたら、もう大丈夫。全然、たいしたことじゃないよ。呪文のように、わたしは心の中でくり返した。






「おはよう、璃子」


「美緒ちゃん。おはよう」


 登校時間、美緒ちゃんに、笑顔であいさつを返す。昨日の夜は長かった。遊佐くんから連絡は来なかったし、何度か目が覚めて、そのたびに不安な気持ちになったけど、朝になれば、なんてことはない。でも。


「……あのさ、璃子」


 めずらしく、歯切れの悪い感じの美緒ちゃん。


「見間違いかもしれないけど」


「うん?」


 何の気なしに、続きを促した。


「遊佐くん、昨日の夜……今井 亜莉と、新宿方向に電車に乗ってった気がする」


「え……?」


 一瞬、何も考えられなくなったけど、自分の頭の中を必死で整理する。遊佐くんと亜莉ちゃんが?


「えっと……夜、何時くらい?」


「8時頃。わたしも出かけてたんだけど、うちの駅に着いたとき、なんとなく反対側のホーム見たら」


 きっと、遊佐くんだ。


「響くんも、一緒じゃなかった?」


 ほとんど祈るような気持ちで、聞いてみる。


「いなかったと思う。というか、いるような雰囲気じゃなかった」


「そっか……」


 あの駅から、新宿方向の電車に乗ったということは。もしかして、二人で遊佐くんの部屋に行ったの?


「何か事情があったのかもしれないから、遊佐くんに聞いてみなよ」


「……うん。ありがとう」


 美緒ちゃんには、遊佐くんと亜莉ちゃんの過去のことまでは、話してない。それなのに、美緒ちゃんがここまで心配そうにしてるってことは、何か特別な雰囲気が、遠くからでも感じられたんだろうね。と、そのとき。


「立原」


 後ろから、遊佐くんの声。


「遊佐くん」


 体が硬直する。


「おはよう、遊佐くん。わたし、先行ってるから。璃子、あとでね」


「う、うん」


 気をきかせて、先に学校へ向かう美緒ちゃんの後ろ姿を見送った。


「えっと、昨日は……」


 どうやって、聞いたらいい?


「亜莉ちゃんのこと、解決したんだ?」


「まあ、うん」


 はっきりしない、遊佐くんの返事。どうしよう? 聞いてもいいよね? ううん、そうじゃなくて、聞かなきゃだめだよね?


「あの……昨日、そのあと」


「ん?」


「亜莉ちゃんと、遊佐くんの部屋に行かなかった?」


「…………」


 返事はない。沈黙が事実を語ってる。


「どうして?」


「どうしてって。べつに、泊めただけだよ」


 今度は悪びれもせずに、遊佐くんが答える。泊めた? わたしの心臓が止まりそうになった。


「泊めちゃうの? 遊佐くんは、平気でそういうことするの?」


「うるさいな」


 わずらわしそうに、遊佐くんは言った。


「亜莉の家、いろいろ複雑なんだよ」


「知ってるよ。お父さんが大変なんでしょ? でも、それにしたって」


 そういう問題じゃないもん。


「どうして……いや、何をしたわけでもないし。おまえよりもつき合いが長いんだから、しょうがないだろ?」


「そんなふうに言われちゃったら……」


 わたしには、何も言えない。


「だいたい、昨日の騒ぎだって、おまえのせいなんだよ」


「どういうこと? なんで?」


 全然、意味がわからないよ。


「響が、おまえを好きなんだってさ」


「え……?」


 ぽかんとして、遊佐くんを見上げた。


「そんなわけないじゃん。嘘に決まってるよ」


「知るかよ、そんなの」


「…………」


 わかった。前回、やっぱり、わたしは響くんを怒らせたんだ。だから、わたしを困らせようとして、わざと ————— 。


「それより、こんなところで、こんな話をするのも嫌なんだけど」


 冷めた表情で、そう言う遊佐くんは、すごく遠いところにいる人みたい。前も、そうだった。遊佐くんは、亜莉ちゃんのことになると、わたしの知らない遊佐くんになる。


 そういうことなら、わたしも他の男の子の家に泊まっていいの? 普通のカップルなら、そんなふうに聞くかもしれない。でも、きっと、遊佐くんは何とも思ってくれないね。みじめで、泣きたくなる。






「立原さんから、連絡してくるとは思わなかった」


 結局、遊佐くんとは口をきかないまま、学校を出て、放課後すぐに、この前の公園に響くんを呼び出した。どうしても、話がしたかったから。


「どうして、嘘ついたの?」


「何? 嘘って」


「わたしのこと、好きになったなんて」


「 本当かもしれないじゃん」


 ぴくりとも表情を変えない、響くん。


「意味もなく引っかき回すようなことして、何が楽しいの?」


「俺は他人に、わかったような口きかれるのが、いちばん嫌いなんだよね」


「だからって……!」


 つい、大きな声が出る。


「そんなことよりさ。昨日の夜、亜莉がどこにいたか聞いた?」


 意地悪だ。全部知ってて、からかってるんだ。


「……聞いたよ。でも、何もないって」


「へえ。そんなの、信じてるんだ?」


 今度は、おかしそうに笑い出した。


「で? 立原さんは、結局、何が言いたいの?」


「……わかんないよ」


 泣いちゃだめ。こんな人の前で、絶対に泣いたらだめ。


「なら、呼び出さないでほしいんだけど。わざわざ」


「響くんのやってること、全然わからないよ。亜莉ちゃんのこと、好きなんでしょ? 好きだから、つき合ってるんでしょ?」


「今は好きじゃない。何の感情もない」


「だったら、さっさと別れればいいじゃない。それで、勝手に……」


 と、言いかけた、そのときだった。信じられないことが、わたしに起こったのは。


「…………!」


 不意に、響くんの手に頭を強引に押さえつけられて、わたしは響くんにキスされていたの。でも、そのとき、わたしたちの後ろに遊佐くんがいたことなんて、気づけるはずもなかった。



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