満開

 ディンブルブル、ディンブルブル。目覚まし時計が煩わしく振動している。望んでいなかった朝日がカーテンを突き破り、風華の顔へと被さった。目を覚ました彼女は、時計に映る日付と時刻を寝ぼけ眼で凝視する。二十七日、水曜日の午前七時半。工事は既に始まっているだろうか。思い出したくもないあの紙の存在を、もしかしたら夢なのではないかと考えながら、部屋を落ち着かぬ様子で出ていく。階段を降りるその足には、起きたばかりだからなのか力が入っていない。

「風華ちゃん、おはよう」

 階段の下ではいつも通り、祥子が彼女の起床を察知して待っていた。母親の顔を見るなり、やはり気になってガサついた声で問う。

「工事は、はじまってるの?」

 彼女の問いに、何故そんなことを気にするのかと言いたそうな顔をするものの、いつもの優しい母の声で返す。

「ええ、七時からやっているはずね。それより、朝ごはんできてるから食べちゃいなさい」

 工事のことなどどうでもいいと言わんばかりに、すぐに話題を朝食に切り替えた母親だったが、風華にとってこの不安はそう簡単に消えるものではない。あの森には、彼女の大切な友達がいるのだから。彼を助けたいという気持ちと、自分には何もできないという無力感を抱えながら、力が入らない足でテーブルに向かう。祥子が娘のために用意し、皿に並べられていた朝食。それは風華にとって印象深いものであった。

「あ……」

 ハムとチーズの入った小さなに、金色の綺麗な断面図をした。有名店の高価な物ではなく、普段食べられない希少な物でもない。……弁当。森の中で桜真神と食べたあの弁当にも入っていたそれらは、彼女に幸せをフラッシュバックさせるには十分すぎた。

 ――な、なんだこれはっ!?

 彼がはじめての料理に戸惑う姿。金色のふんわりとした卵焼きを、口に含んだときの衝撃で驚き固まっていたあの顔。可笑しな顔を思い出したはずなのに、彼女の目が次第に水分を含んで潤いはじめた。いくら卵焼きを口で咀嚼しても、心がじわっと温まる温度と甘さは、そのどこにも感じられない。彼が消えてしまうという悲壮感がただ強まっていくだけだ。祠が壊れれば、彼が、桜真神という存在が消えてしまうかもしれない。このまま誰にも知られず、彼の生きた証が消えていってしまうなんてそんな悲しいことが。……いや、そんな大層なことは彼女にとってどうでもいい。彼女が本当に恐れているのは、思い出が消えてしまうことだ。彼も消えて、二人の思い出のあかしが消えて、そして何も残らなかったら。それはどんなに恐ろしいことで、悲しいことだろうか。突然小走りで洗面所に駆けていく。沸き立つ不安を振り払うために、何度も何度も顔に冷水をかける。だが現実というものが鮮明になっていくばかりで、彼女の漠然とした不安が薄れることはない。

 ――お前みたいな馬鹿には何もできねえっつってんだ。

 母親も彼も、風華には何一つできる事はないと言っていた。それで彼女ももう、自分にはできることはないのだと理解してしまっている。階段を駆け上がり、自分の部屋に戻って、服をパジャマから水色を基調とした服に着替える。デフォルメされたのイルカのキャラクターが、全面に大きく描かれている。そして、白いヒラヒラとリボンのついたスカート。リビングへ向かって、そこに昨日投げ捨てたランドセルを背負えばもう、学校へと行く準備が整う。帰る頃には森はなくなっているのだろうか。祠は壊されて、彼とはもう会えないのだろうか。枕元に置いていた桜の花びらを手に取って、ポケットにしまう。階段を降りると、ランドセルを持った祥子が風華を待っていた。それを彼女に持たせ、玄関のドアを開けて、風華を外まで送り出す。

「それじゃ風華ちゃん、行ってらっしゃい」

 祥子の目には、娘を不審に思う気持ちが前面に出ていた。彼女が学校へ行かず、工事中のあの森へ向かうのではないかと疑っている。それは彼女の今朝の言動が、あまりにも不自然であるから。だが粘っこい信念を持つはずの、当の本人はとっくに諦めていた。自分にできることは何もないのだと、それで彼女の話は完結したのだ。

「行ってきます……」

 桜並木の方へと、背を丸めとぼとぼ歩き出した彼女を見て祥子は、扉を閉めて家事の続きに手をつける。風華のどんよりとした空気はとっくに悟っていた。森のことは気の毒だが仕方ない。例え二人で立ち向かったとしても、相手は集団だ。人数不利な状況で集団を止める術など、不幸なことにどこにもないのだ。祥子が彼女のためにできることと言ったら、手紙を書いたあの日と同じく、娘を撫でて落ち着かせることだ。むしろ、それ以外なにもしてあげられないのだから。無力を感じるのは、大人だとしても変わらないのだ。



 春が終わる匂いがする。それは皮肉なことに、鼻に抜けるような爽やかな匂いだ。とびきり濃いものを食べたあとの、口直しのガムのような。立ち並ぶ桜の木は、すっかり桃色を新しい緑の命に隠され、華々しいあの様子は欠片も見られなかった。もうここには、春の気配が残っていないように感じてしまう。車の通る道路にも、人が歩く道にも、普段見ないような脇道にも、花びらがびっしり埋め尽くされているのに。風華は手のひらに乗っている、彼からの贈り物である桜の花を、影のかかった目で見つめる。唯一これには、昨日までの春がまだ残っている気がしたのだ。貰ってから彼女なりに大事にしていたこの花には。そっと鼻に近づけ香りを嗅ぐ。鼻の奥を満たしていくほんのり甘い匂いが、彼とのあの空間を思い出させる。そうして目の前に引き寄せた桜の花。目を凝らすと、じんわり発光していることに気づいた。不思議に思い、もう片方の手で影を作り、輝きを観察してみる。すると不意にその花が、太陽の光に負けないくらいぽわーんと温かい輝きを放ったかと思えば、それを境に光はゆっくり弱くなっていく。それを二、三回繰り返し、段々光は弱まっていき、点滅が止んだ。そんな事象に、風華はガッと胸を掴まれたような感覚を覚えた。同時に、この桃色の花から感じていた生命の風は、たった今消えてなくなった。無意識に感じていた彼の温かさが、今消えてなくなった。手に乗ったそれが、ただの花にしか見えなくなった。彼女の足元で絨毯を作り、汚い足で踏みつけられたものと同様の、使い捨てられた花に。終わったかのように思える要因に、足から崩れ落ちそうになった。



 ――じゃあ来年!来年もまた一緒に桜が見たい!



 桜真神に対して、彼女はそう言った。



 ――絶対に忘れない!私は真神さんとまた桜を見るから!



 に、彼女はそう言った。



 ――ならば、忘れるんじゃねえぞ。

 ――うん、約束する!

 ――あぁ、約束だ。



 彼女はそう言って、春色のキャンバスの中で彼と契りを交わした。来年も、欲張ってその先も、彼と桜を見たいと願って。ならば使い捨ての存在、一度きりの存在にしてはいけない。永久に咲く花でなければ。この先もずっと輝きを放つ桜でなければ。永遠などないと、彼はきっと言うだろう。彼だけでなく、現実を知っている黒く染った大人であれば誰でも知っている事柄だ。



 だがそんな夢の無い事実おはなしなど、彼女には関係ない。



 強欲な風華の瞳に強い光が宿る。足に力がグッと込められる。彼女が進むべき道は、たった今捻じ曲げられた。歯をキッと食いしばって、風の抵抗を受けながら必死に腕を振って走る。もしかしたらもう遅いのかもしれない。祠はとっくに壊れて、彼の姿はあらゆる場所から消えてしまったかもしれない。そんななんて、信じるに値しない。目で見るまで、桜真神が消えたと信じることは彼に対する裏切りだ。まだ彼の力でできた花びらは、形を崩すことなく風華の手に握られている。この花がかたちを残しているように、彼もまだそのなりを残していると信じている。信念を固く持ち、いち早く彼の元へたどり着けるように走る。あの日に襲ってきたイノシシのように……いや、それから自身を守ってくれた桜真神のように速く、速く動かなければならない。桜並木をとっくに後方に置き去りにして、高低差の違う、家と森を結ぶ道にある緩やかな斜面を転がるように駆け下りる。長い髪が、顔の全面に勢いよく被さったり、首を強く打ち付けたりして暴れ狂う。息はとっくに切らし、心臓が体の内部から飛び出そうと、外壁をガンガン打ち続けている。それでも彼女は走るのを止めなかった。森に続く田んぼの畦道を滑るように走っていると、前方からヴィーという煩い機械の音、そしてそれに負けないほど大きな怒鳴り声が聞こえてきた。

「倒す方向に気をつけろ!向こうだ向こう!」

「暗くてよく見えねえ、強い照明はねえのかよ!」

「んなもん持ってきても壊れちまうわ!我慢しろ!」

 白色のヘルメットを被った屈強な男が高所作業車に乗り、木の上部から枝葉を細かく削ぎ落とし、あらかた整理できた木はチェーンソで一気に切り落としていく。それでいて、その枝葉が複雑に絡み合っているので視界も悪い。解体する身としては最悪な場所であるだろう。森が一日で消え去ってしまうのではないか、という不安を抱えていた風華も、まだ森の端が欠けた程度の被害でホッと安堵の表情をみせる。そもそも、これほど複雑で大きな森の解体は数日で終わるものではない。だがすでに、そこには十数本の切られた木が積み重なっている。それに、目の前ここだけではない。遠くの方からも、ヴィーンという機械の音が幾重にも重なって飛んでくる。大規模工事だからか、何十人もの人が各所で分担で作業しているようだ。悔しいが、森に危険が及んでいることは避けようもない事実である。風華はそんな惨劇を、ぜぇぜぇと全身を使って呼吸をしながら眺める。ヴェェェェィィィイン……ドドガゴン。また一本、森の内側に向かって巨木が倒された。真っ暗だった森には、次第に光が差し込んでいく。だがそれは明るい光などではないことは、彼女には、彼女だけには痛いほど理解できてしまっている。そんな森の目の前で疲れ果て、立ち尽くしている彼女に気づいた人物がいた。

「……来たのかい」

 声のした方に振り返れば、そこには見慣れた白髪の老人。それと、並木で出会った杖をついた口調の荒い小柄な老人。中瀬と石田だ。石田は風華を見るなり、鋭く尖った視線を向ける。

「なんで子供がここにいるんだ。学校はどうした」

「……」

 汗を垂らし沈黙を貫く。都合の悪いことに、彼女を知っている人物に出会ってしまった。特に中瀬には、彼女の行動が見透かされているような不気味な気配を感じている。風華を見た最初の一言が、なのだから。だんまりな彼女に、石田がまたキツい口調で説教を喰らわそうとしたが、それを中瀬が止めた。

「風華ちゃん。すまないねえ」

 優しい声の、謝罪が彼女に差し出された。なんで彼が謝るのだろう。そう疑問を浮かべ、彼の顔をじっと見つめる。

「私もこの森はねえ……失いたくなかったんだよ」

 ……同じだ。彼の表情、微笑みの裏に悔しさと静かな怒りが滲み出ている。もしや中瀬も祠の存在を知っていたのだろうか。桜真神のことも知っていたのだろうか。前者はともかく、後者は知っていてもおかしくない。先日の彼の昔話から彼女はそう思った。それと同時に、風華の頭にある考えが浮かぶ。彼らならばこの工事を止められるのではないか。大人の言うことなら、大人は聞いてくれるのではないか。僅かな希望を抱えて、中瀬に声をかける。

「ねえ……私、この森がなくなるのいやだよ。止められないの?」

「……そうだねえ」

 中瀬の柔らかく間延びした声に、舌をグッと刺激するような苦味が加えられた呟き、それに風華は思わずハッとする。その声に込められた苦味とは、諦念。彼はもう諦めていたのだ。そもそも、彼がここにいるのに工事が止まっていないことから察するべきだったのかもしれない。唇をきゅっと噛んで俯く風華を、中瀬は悲しげな目で見つめる。

「風華ちゃんも、この森が大事だったんだねえ」

「うん……ここは、私の大好きな場所だよ」

 俯きながら小さな声で呟く彼女に対して、石田が強く睨みつけながら荒々しく声を出す。

「嘘つけ!お前みたいな子供に、この森の善し悪しがわかるわけないだろ!」

「……石田。風華ちゃんを、八つ当たりに使うんじゃないよ」

 中瀬に鎮られた石田は、チッと舌打ちをしてそっぽを向く。八つ当たり。そう、石田が彼女に向けたように見えた怒りは、単なる八つ当たりなのだ。彼にとってもこの森は印象深く、失いたくないものらしい。中瀬が悲しそうな目をしながら、ゆっくりと森の方に体を向けた。釣られて、ほか二人も解体が進むそこに目を向ける。この場の全員が抱える感情は、木々の伐採が進んでいくことに対して、そして無力な自分に対しての負の感情。

「さあ、風華ちゃん。こんな悲しいものを見てないで、学校に行きなさい」

 中瀬は柔らかい声で微笑み、彼女に学校に行くよう促した。こんな光景を見ていても暗くなるだけ。禍々しい黒がこれ以上彼女に侵食しないよう、この場から去るように言った。

「いやだ」

 だが彼女の奥底にある決意は揺らいでいなかった。風華の言葉に衝撃を受けた二人は、目を大きく見開いて固まってしまう。だがすぐさま石田がぎゅっと眉間に皺を寄せ、顔を真っ赤にして叫ぶ。

「こんの不良め!今すぐ行かないのなら親呼ぶぞ!それとも耳引っ張って引きずってやるか!」

「石田、少し落ち着きを持った方がいいよ。……風華ちゃん、学校が嫌なのかい?」

 興奮状態の石田を制止し、中瀬が彼女の内面を悟るために、優しい声で問いかける。のは中瀬も承知の上での質問だ。

「……違う。あそこには……」

 もちろん学校が嫌いなわけじゃない。ただ今はそこに、それよりも大切なものがあるだけだ。まだ暗くて見えない森の中に桜真神の姿を思い浮かべながら、不安そうにその一点を見つめている。……中瀬には話してもいいのだろうか。祠の存在を明らかにすることを迷い、言葉が途中で詰まる。こうしている間にも、森の木々が次々に倒されている光景が目に映っている。

「……森が壊されるのが嫌なのは、私たちも同じだよ。だけど始まった以上、止めることは無理なんだよ。頭のいい風華ちゃんなら、わかってくれるかい?」

 中瀬の悔しさの滲んだ震えた声に、風華の心が締め付けられる。彼の声色には謎の魔力がある。言葉が全て真実だと思ってしまうような、説得力があるのだ。と、そう確定づけてしまうような声。だが、彼の言葉には耳を傾けなかった。

「……無理じゃない!」



 ――無理ってのは呪いの言葉だ。呪いを吐けば心が黒く染ってしまうよ。



 前に言っていた中瀬の言葉。彼の言い回しは難しくて分からなかった。呪いは悪いもの。綺麗な花を黒の絵の具で塗りつぶしてしまったら、不気味で、怖い。ならば、無理という言葉は怖くて悪いものだ。工事を止めることが無理だとしても、桜真神を救うことが無理だとは限らない。風華の叫びに目を大きく見開いて驚きを見せる中瀬。彼女の全身が、ほわっと光り輝いているように見えた。そしてついに、風華は今も木々が倒されている森に向かって走り出した。

「おい、待て!何するつもりだ!」

 突如駆け出した風華にあっけを取られ、石田もただ叫ぶしかできない。杖をついている老体では、春真っ只中の彼女を止めることなどできない。その彼の必死の叫びも、彼女の耳には届いていない。彼女が聞きたいのは、桜真神の声以外ないのだから。ただ、彼女を阻むものはまだ存在する。高所作業車で枝葉を切断する、作業員の一人が彼女の姿に気づいた。

「おい、女の子が入っていく!なにやってんだ!誰か止めろ!」

 その声を聞いた作業員が、一斉に彼女に注目するが、それを一切気にせず森へと突っ込んでいく。突然のことに誰も反応できず、彼女を止められたものはいなかった。上から彼女を見つけた作業員から、たった今チェーンソーで木を切り倒そうとしている作業員に、叫び声が飛ばされる。

「おい!その木を倒すな!今すぐやめろ!」

 機械音でかき消され、その声は本人の耳には微塵も到達することはなかった。擬似的な真夜中の空間に、風華は後先考えず突入していった。



 視界が悪い森の中は、酷い有り様だった。風華よりも何倍も長く太い木が倒れて道を塞ぎ、尖った細かい枝が足を串刺しにしようと、そこら中で待ち構えている。風華は右手で微かに輝く桜の花を頼りに、森の中を慎重に進んでいく。地面に咲いていた道標のタンポポは、枝葉に覆われて分からなくなっていた。ただ、完全に塞がれているわけではなく、隙間から花の光が漏れだしている。不幸中の幸いであるだろう。それにしても、足元が悪く上手いように進めないが、少しは歩いたはず。しかし倒された木々の先はまだ見えてこない。この森の向こうにある桜の木の五、六倍の高さはあるだろうか。まだ倒されていない木の高さを確かめようとしても、黒い霧がかかったような暗闇に阻まれてわからない。そんなどうでもいいことを考えながら、風華は桜真神の姿をキョロキョロ探し、祠へ向かおうとする。視線があっちいったりこっちいったりしているが、彼女の心には迷いや不安などはない。以前彼がこの森を留守にしていたとき、彼女が今も印として使っている黄色の花は光を放っていなかった。桜真神の力で生成された花は、彼が近くにいれば光る仕組みになっている。並木で消えたと思ったその光は、森に入ると僅かだが復活した。つまりそれは彼がここにいる証明。だから彼女はちっとも不安を感じていなかったのだ。今ならイノシシが出てこようと、彼がきっと守ってくれる。森に時折吹く暖かい風も、風華の勇気をそっと後押ししていた。桜真神を見つけ、ここから一緒に逃げようと声をかけ、そしたら何もかも解決だ。祠のことも、彼の力でどうにかできるに違いない。そう楽観的とも言える思考で、彼女はいつの間にかニコニコ笑顔になっていた。助けた彼はどんな顔するだろうか。また照れて顔を赤くして、不器用に感謝を告げてくれるだろうか。そう彼の面白い反応を想像し、うきうきしながら先を目指す風華。


 突然、


 ゾクっと体が震え、不思議な気持ち悪さに思わず後ろを振り向く。。それは速度を増し、どんどん、どんどん大きくなっていく。風華は急な危機に反応することができず、大きくなった目で倒れてくる木を見つめたまま動けなかった。このあと起こる悲劇を理解しているのに、焦りや恐怖、驚き、そんな感情のどれもが出てこない。表情を失った彼女は、時がゆっくり流れる感覚にただ身を任せるしかなかった。潰されると感じたその瞬間に、目をぎゅっと閉じ、真っ黒に染った世界でただ、終わるのを待った。




 ――ドゴオオオオン。




 重圧のある音が森中に響いた。目を閉じていた風華は、暖かくてふわふわの布のようなものが上に乗っかった感触を感じて、即座に目を開いて存在を確認する。風華の体を上から両手で包みこんでいたのは、他でもない、桜真神だった。彼と分かったそのときは、彼女から喜びがぶわっと溢れた。だがそんな喜びはすぐさま、意識せずとも目に飛び込んできたに塗りつぶされた。風華を包んでいる桜真神の後頭部から、が漏れ出ている。左耳も乱雑に千切られたように破損し、濃い赤色がベタり、ベタりと染み付いている。彼から鼻をもぐような強烈な臭い鉄の匂いが広がり、体中の薄桃色の毛にアメリカンチェリーような異色の赤が混じっていく。それを彼女は、恐る恐る指でなぞった。ゾクッと鳥肌が立つ温かさと、ぬとっとした感触に気分が悪くなる。それだけではない。いつもの装束を纏っていない彼の体には、最初に出会ったときのような傷跡が全身に広がっていた。爪で肉を深く抉られたような傷。腹を尖ったもので貫かれたような傷。形が変わるほど強い衝撃で殴られたような傷。その痛々しさに彼女の顔が青白く豹変していく。全身が赤く染まりゆく桜真神とは対象に 、風華の温かそうな色をしていた肌からは色が抜けていく。しばらく動かず彼女を抱きしめていた桜真神はついにゆっくりと動き、彼女を体から離して笑顔を向ける。

「……平気そうだな」

 頭から溢れる血が顔にもだらっと垂れ、彼の笑みに残酷さを加えている。神々しい光も放っておらず、もはや生気すら感じられないほど弱った桜真神。そんな彼が喉の奥から絞り出すように、震えた声でこう言った。

「最期に桜を見られて、良かった」

 彼の言葉は、現実を受け入れられずに固まっていた風華を正気に戻してしまった。血のついた太く、温かく、優しい手で彼女の頬をなぞり。最期に見せたのは、ニッと白い尖った歯を出した、満足したと言わんばかりの笑み。彼が見せた中で一番印象に残る笑みを放って、芯が抜けたようにドザッと倒れた。風華は膝をついて座り、目の前で倒れた桜真神の体を揺する。乾いた目は、大きく見開いたまま。

「真神さん……?」

 弱々しい声で名前を呼びながら、体を何度も何度も揺らす。状況が飲み込めないフリをする彼女は、彼を起こそうと必死に、必死に声をかけ続ける。温かい毛に包まれてるはずなのに冷たくなる身体と、次第に薄くなりゆく春の匂い。ついに聞こえなくなった春の息吹で、彼女も認めるしか無くなった。いや、本当は目を開けた瞬間。近くにいるはずの彼の暖かい風が、スアッと消えたあのときから気づいていた。

「いやだ、いやだ……」

 震えた声で、桜真神を揺するのをやめない。眠っている彼を揺らす風華の手には、いつの間にか力が入り、ぐいっぐいっと激しく揺さぶる。それでも、おはようと起きてはくれない。ぽたぽたと温かい水が彼の傷口に落ちていく。やがて彼女の手は動かなくなり、温もりのある雫だけが、彼の体に触れていた。どれほど抑えても目から湧き出てくるそれを、両腕で必死に拭う。叫びそうになるのを、必死に抑える。なぜなら、泣いていたら彼に怒られてしまうからだ。それでも、雫は指の間をするりと抜けて、彼の体へとぽとぽと打ちつける。ならば、怒ってほしい。泣きじゃくる弱い私を、愚か者、馬鹿者と叱ってほしい。そう思って彼の顔から目を逸らさずいるのに、反応はなにもない。くしゃくしゃになった顔と、ぐしゃぐしゃになった心。風華に訪れた、あまりにも凄惨な春の終わりだった。





 ――体から、光が漏れていくのを感じる。


 僅かに持った希望もそれによる明日も全部零れ、闇に跡形もなく呑み込まれていく。あぁ、だがそれは俺だけではないのかもしれない。体に触れる温かい雫は……俺のためだろうか。俺のせいで、その眩しすぎる太陽が陰ってしまったのか。俺のせいで、この可憐な花は萎れてしまったのか。……風華。お前は馬鹿で、我儘なガキだ。今日だって、森に来なければこんな残酷な光景を目にすることはなかったんだ。お前がここにいなけりゃ、勝手に消えゆくだけの存在だったんだ。ただお前が……お前が来年も桜を見ると言ったから。お前に未来を魅せられたから、明日を諦めきれなかったんだ。元々、明日に期待しても意味ねえんだと知っていたのにな。おいガキ、勘違いするんじゃねえぞ。俺はお前が危険な真似をしなければ、なんて思ってねえ。むしろ、お前を守れたことを誇りに思ってんだ。ようやく神らしいことができた、ってな。だが、まぁ……憎いな。俺の未来を潰した身勝手なクソ野郎共が、憎い。なあ、この感情はガキのお前でも理解できるか?二度と日の目を浴びないと思っていた枯れた桜が、輝かしい光に照らされたという喜びよりも、俺の最期を飾ってくれた花があったという幸せよりも。もっと強く残ってしまった、グツグツと煮立って中身が掻き回された……混沌の感情だ。



 ――涙浴び消えぬ春怨爪を隠せず

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