運がよい、アナタへ

八五三(はちごさん)

雨の中の声

 雨が降り続く午後、薄暗い街の通りには、しっとりとした雰囲気が漂っていた。

 街灯の明かりは、ぼんやりとした光の帯を作り、雨粒がそれに反射して微かなきらめきを放つ。

 窓越しには、濡れたガラスに映る影が揺れている。


 カフェの名前は“マロン”。

 店主の浩一こういちは、静まり返った店内で一人、カウンターの奥。

 薄暗い部屋の中でぼんやりと考え事をしていた。今にも消えてしまいそうなコーヒーの香りが漂う中、心には不安が渦巻いていた。


「今日は一体、誰が来るのだろうか」


 独り言を呟きながら、雨音に耳を傾けた。

 雨のリズムは、心の中の焦燥感を増幅させているように感じられた。すると、カフェのドアが突然開き、濡れた男が入ってきた。

 長身で、髪は雨に濡れている。

 表情は冷たく、まるで何かを隠しているようだった。


「いらっしゃいませ」


 声をかけたが、男は無言でカウンターに近づき、じっと彼を見つめていた。その視線に不安を覚え、背筋が冷たくなるのを感じた。


 男は、カウンターに座ると、視線を逸らさずに言った。


「アイスコーヒーをください」

「アイス、ですか?」

「はい」


 その要求に応じた。

 男の顔からは目を離せなかった。彼の目は異様に輝いていて、何か危険な雰囲気を醸し出していた。


「この雨の中、何をしていたのですか?」


 おそる恐る尋ねた。


「声を探していた」


 男は淡々と答えた。


「声?」


 驚いた。

 男の言葉には何かが含まれているようで、理解できない。


「ここら辺りで、奇妙な声が聞こえると言われている。だから、探しに来た」


 浩一はその言葉に身の毛もよだつ思いを感じた。外の雨音と男の声が混ざり合い、頭の中で不気味なメロディーを奏でる。


 男はさらに続けた。


「その声を聞いた者には、運命が変わると言われている。だが、それを聞くのは一度きり。二度目はない」


 身震いした。

 この男が何を求めているのか分からなかったが、心の奥底で恐怖が芽生えていた。


「何があっても、声を聞くな」

 と、心の中で叫んでいた。が、口には出せなかった。すると、男は突然立ち上がり、カフェの外に向かって進み出した。


「待って!?」


 浩一は追いかけたが、男は振り返らず、雨の中に消えていった。彼の後を追おうとしたが、その瞬間、耳元で不気味な声がささやいた。


「運命はすでに決まっている。」


 その声は、男の声に似ていたが、どこか冷たい響きがあった。まるで手に入らない何かを掴もうとしているように感じた。


 浩一は外に出ていた。

 雨の中、街は静まり返り、すべてが黒い影に包まれていた。男はどこにも見当たらず、ただ雨音だけが耳に残る。

 恐怖にかられ、彼が何を探し求めていたのか、そしてその声が何を意味していたのかを理解し始めた。


 不意に、目の前に現れたのは、かつての恋人の姿だった。彼女は微笑んでいて、声をかけてくる。


「ここにいたのね、ずっと待ってた」


 彼女の目の奥にかつての幸せを見つけた。しかし、その直後、笑顔が引きつり、目の前で顔が崩れていく。

 後ずさりした。


「助けて……私を助けて…………」


 彼女の声は次第にかすれ、そして消えていく。その声が、かつて無視した数多の思い出を思い出させ、身を委ねた。

 自分が運命に逆らった代償を払っていることを悟った。


 全てが終わりを迎えたとき、雨はやむことなく降り続いていた。浩一はただその場に立ち尽くし、心の中にある声が、もはや彼を解放することはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る