game 28. 夜の顔
カイの後について再び二階の部屋へ上がると、パジャマとタオル、それに歯ブラシと、必要な諸々を用意してくれた。
「あとは適当に探せ。シャワーの場所は知ってるな? バスタブ使いたかったら、ノラの部屋にある」
「うん……。ありがとう」
そういえば、トイレの横にシャワーブースがあったが、バスタブは見なかった。
部屋にあるって、どういうことだろう。
「質問は?」
「あっ、えっと……。オレは、どこに寝ればいいのかな?」
「そこに決まってんだろ」
物置から予備の布団でも出てくるかと思いきや、カイは平然と自分のシングルベッドを指さした。
「えっ、でも、カイは?」
「オレは家に帰る」
ああ、そうか。「ここに住んでいるのはノラだけ」と、この前言っていた。妙な誤解をさせないでくれ。
「ノラもそのうち帰ってくるだろうから、何かあったらあいつに言えよ」
「カイは、大丈夫なの?」
「オレは歩いて帰れる距離だからな」
「へえ、そうなんだ。どのへん?」
「そのへん」
カイは壁を指して言う。
何だよ、それは。
帰宅問題に解決策が出たところで、せっかくだからと店に戻ってもう少しチェスを続けることになった。
何度目かの対戦を終えて、ふと顔を上げると、店の様子がいつもと違う。
また何か起きたのだろうか……と視線を巡らせたところへ、カランと涼しげな氷の音がした。
「随分と、集中していたようだね。感心感心」
シオンが炭酸の入ったグラスを差し出している。カイのほうには、マシュマロが浮いたホットドリンクだ。りんごとシナモンの香りが漂ってくる。
「少し休憩にしたら?」
言われてみると、集中というか、もはや熱中していたようだ。冷たいサイダーには少しハーブの風味が効いていて、アドレナリンダバダバの悠馬の脳をイイ感じにチルしてくれる。
いや、これもやっぱり、医学的には不正確か。アドレナリンを分泌するのは副腎だし、サイダーが冷たいまま血管内に吸収されるわけじゃないし……。
またつまらぬことを考え出した悠馬の思考回路を、ドアベルの音が遮断した。
「よう、シオン!」
派手な音と共に派手に登場したのは、シュッと細身のスーツをまとった男性だ。
「やあ、
迎えるシオンは、歓迎する気があるのかないのか。
伊織はシオンやノラと同年代で、この店の客の中では若いほうだろう。比較的遅い時間に来ることが多いらしく、悠馬も帰りがけに会ったことが何度かある。いつもスーツなのに、なぜか派手な印象で、悠馬はなんとなく苦手だ。
「おう、少年。来てたのか」
来てたのか、じゃなくて、毎日来てますけど。
ささやかな反抗心を、グッとこらえた。
「……えっと、こんばんは」
「シオン、いつもの」
ほら、やっぱり人の話を聞いちゃいない。
空いている席は他にもあるのに、伊織はわざわざ悠馬の隣のカウンターチェアに座ってシオンと話し始めた。
その姿を見て気が付いた。ああ、違和感の正体はこれか。
お店で飲んでいるお客さんたちが、それまでは「近所のおっちゃんたちの寄合い」という雰囲気だったのに、いつの間にか「仕事帰りのビジネスマン」ぽくなっている。話す内容もお隣の誰それの噂話から、政治や経済といったマクロな話題へとシフトしていた。悠馬が四十センチ四方のチェスボードに熱中していた小一時間のうちに、世界は広がっていたのだ。
十一時頃には、カイも自分の家に帰っていった。悠馬がパブに残り、夜道に出て行くカイを見送る。いつもと逆で、少し不思議な気分だった。
「ユウマ、キミも適当に切り上げて寝なさい」
グラスを換えながらシオンが言う。伊織も長居はせず、今やカウンターテーブルには悠馬一人だ。店のBGMも心なしかスローテンポになっていて、ゆるやかなスウィングが眠気を誘う。
今日は長い一日だった。いきなりピクニックに連れ出されたかと思えば、公園でトラさんとチェスの初対戦。帰ってきてノラとやって、夜にはカイとやって。
そういえば、今朝は優雅な朝ごはんをしていたっけ。そんなことは、もう遠い昔のような気がする。
ふと、コーヒーの香りが漂ってきた。
顔を上げると、ノラが湯気の立つカップを手にしている。お客さんの注文らしい。テーブル席へ運ばれていく。
なんだ、自分で飲むんじゃないのかと、少しだけ残念な気がした。何がどう残念なのかと、考えてみたけれどわからない。ノラはそのまま、お客さんに同席してアメリカの新大統領について議論している。
しばらく居残ってみたが、だんだん場違いに感じて、悠馬はシオンがキッチンに入った隙をみてそっとカウンターチェアを降りた。ノラが気づいて声をかける。
「おやすみ、ユウマ」
「……あ、うん。おやすみ」
この言葉を口にするのは、いつぶりだろう。なんだか、いい響きだ。
カイのベッドに潜りこんでも、すぐには寝付けそうになかった。
耳をすませば、ゆったりとしたピアノ・ジャズが聞こえてくる。くぐもった声と食器の音。この下には大人の世界が広がっている。
重いまぶたを持ち上げると、生活感のない部屋が薄闇に浮かんだ。急な泊まりだったのに、ベッドも使った形跡はなかった。昼寝をしたわけではないのか。住んでいなくて、何のための部屋なのだろう? ゲームをするため?
ゴロンと寝返りを打つ。目の前に壁が迫った。この向こうはすぐ隣家だ。税理士事務所の看板が出ていて、パブの営業が始まる六時頃には大概電気が消えているから、夜は人がいないのだろう。
裏は民家みたいだったけど、あっちは大丈夫なのだろうか? 家との間に多少スペースと塀があるみたいだから、そんなに響かないのかな?
このパブは、客にとってはオアシスかもしれない。でも、近隣住民にとってはどうなのだろう。
自由気ままに生きる大人たち。身勝手な者ほど得をする。
一人ベッドに横たわりながら、反発心を高めた。アイツらと自分では、生き方が違う。ここは自分の場所じゃない。
そうして眠い頭に何度も言い聞かせる。
このまま今日を終えてしまうのが、なんとなく勿体なくて。まだ何かをやり残した気がして。
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