game 18. 居場所①


 チェスはいい。

 盤面に集中しているうちは、他のことが入り込む余地などない。気を抜けば、一つのミスが一気に形勢を覆す。


 一回の攻撃で動かせる駒はただ一つ。盤の隅々にまで目を凝らす。取れそうな駒はないか? 邪魔な駒はどれだ?

 そして、相手の駒の上に嫌いなヤツの顔でも思い浮かべれば、一匹残らず駆逐してやろうという気になる。


「ユウマ。チェスはキングを取り合うゲームだ」


 向かいからノラにたしなめられた。


「たしかにクイーンは脅威だけど、それを追いかけ回している間に、自分のキングがおろそかになっているぞ」


 チェス盤に目を戻すと、まったくその通りの状況が出来あがっていた。こちらのクイーンやルーク、ビショップなどを動員して相手のクイーンを追い詰めたつもりが、あと一歩のところでかわされ続けていた。

 その合間には残りの駒がどんどん取られていき、キングの周囲はいつの間にか手薄だ。そもそも、キングの現在地さえ頭の中からすっぽり抜けていた。


「今日は精彩を欠いているな。何か、気になることでも?」

「べつに……」


 気になることと言われて、すかさず嫌なヤツの顔が浮かんでしまった。邪魔だ、引っ込んでろハゲ教師。引っこ抜くぞ。

 あと、おまえもだキンキラモジャ頭。


「試験勉強はどうだ? レポートもあるんだろう」


 それもあった! 今だけは忘れていたかったのに。


「なんだよ、ノラまで! ここにも来ちゃいけないって言うのかよ!?」

「えっ……、いや」

「宿題終わるまでゲームはしちゃいけません、ってか? だったら、あいつに先言えよな!」


 悠馬は背後のカウンターを指差して叫んだ。


「何だ? 荒れてるな」


 カイがゲーム機を置いて、面倒くさそうに振り返る。それがまた、悠馬のかんにさわった。


 カイは時間ができるといつも、ポータブルゲーム機を持ち出して遊んでいる。今日も悠馬の相手を交代するなり、カウンター席へ退避してゲームだ。チェスよりそっちが大事かよ、と言いたくなる。


「少し、疲れたんだろう。そろそろ休憩にしたらどうかな」


 なだめるように言いながら、シオンは早速カウンターテーブルに皿を並べだした。それを見てカイはさっさとゲーム機をしまう。


(ゲームに飽きたら、次はおやつか。ホントにガキだな)


 そんなふうに毎日過ごせたら、どんなに楽だろう。誘惑が脳裏をくすぐる。


 だけど、自分はそんな単細胞バカじゃない。

 目先の快楽にとらわれて、ラクな道ばかり選んでいたら、いつか破滅する。現実逃避してないで、ちゃんとその先考えろよ。


「行こう、ユウマ」


 ノラがソファから立ち上がって、悠馬の肩をポンと叩いていった。

 今しがた、自分がとってしまった態度が恥ずかしい。やっぱりノラは大人だ。


 ノラは先にカウンター席について、隣のチェアを悠馬のために引いて待っていてくれた。遠慮がちに悠馬が座ると、シオンが直方体の長いケーキをどんとテーブルの上に置いた。


「水尾の柚子をもらったから、ウィークエンド風に仕立ててみたんだ」

美味うまそうだな」


 ノラは身を乗り出して相好を崩す。

 こういうところは子供っぽい……いや、素直に伝えられるところは、やっぱり大人なのだろうか。


 薄氷のようなうっすら白い衣をまとったケーキが出てきたとき、悠馬も率直に「美味しそう」と思った。ただし、頭で思ったその感想をそのまま口から出す回路は、悠馬の中には存在しない。


 ノラにはあるのだろうか。整った横顔の上に、悠馬はそんな回路を思い描いてみる。大脳皮質を出て、側頭部から、耳介裏を通って、咬筋を越え、口輪筋に沿って……唇へ。人体解剖図のように、ひと皮めくれば見えてくるのだろうか。


「ユウマは、真ん中と端っこ、どっちがいい?」

「うぇっ!?」

「上?」

「あ、いや……」


 人体解剖図――ではなくてノラが、突然振り向いたので悠馬は慌てて前に向き直った。思わずヘンな声が出てしまった。客観的に言えばを想像していたわけだから、とんだ変態だ。

 少し遅れて、心臓がバクバクと警鐘を鳴らす。


 悠馬の不審な態度にも、ノラは大人な対応でスルーしてくれた。


「こういうのって、だいたい端っこが美味いもんだけど、あんまり人に勧められることじゃないだろ?」


 たしかに、実家でもパウンドケーキなんかを切り分けるときは、真ん中が“お客さんのぶん”だった。


「いや、オレは……どっちでも」

「好きなとこ取って」


 悠馬が選ぶまで、自分も取らないつもりだろう。反対隣からはカイの無言の圧力を感じる。見なくたってわかる。

 均等な切れ目の入ったケーキを前に考える。端っこは二つ。かといって、真ん中から取るのも気が引けるし……。


 結局、悩んだ末に左端から二枚を残して、三枚目をそっと抜き取った。孤立した二枚はすぐにノラの皿の上に移っていった。やはり、端を残しておいて正解だ。

 それとも、悠馬が残したから、それにしたのだろうか。


 すかさず反対側からカイの手が伸びて、ケーキ皿を引きずっていった。男兄弟がいたら、こんな感じなのだろうか、と思うとちょっと楽しい。

 なんてのん気に考えていたら、カイは手元に引き寄せたケーキを右端から四、五枚分ごっそり自分の皿に移した。


「カイ! 取りすぎだろ」


 注意する悠馬に、チラリと視線を上げただけで、カイはさっそく端の一切れを倒してフォークを入れる。コイツが年上だというのが、いまだに信じられない。


「ノラだって、二切れしか――」

「ん?」


 振り返ると、ノラはすでに第二ラウンドに入っていた。


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