第5話「嵐の予兆」
医学部の研究棟、深夜。早乙女燐は、疲れた表情で実験データを見つめていた。プロジェクト開始から一ヶ月、研究は着実に進展していた。
「もう遅いですよ、早乙女さん」
鷹宮翔の声に、燐はハッとして顔を上げた。
「あ、翔さん。まだ少し……」
翔は優しく微笑んだ。
「無理は禁物です。明日も大切な日ですからね」
そう、明日は中間発表会だった。燐は深くため息をついた。
「緊張します……」
「大丈夫、あなたなら」
翔の言葉に、燐は小さく頷いた。二人の間に、穏やかな空気が流れる。
翌朝、医学部大講堂。中間発表会場は、研究者や医療関係者で溢れていた。
壇上に立った燐は、深呼吸をして話し始めた。
「私たちの研究は、乳がんの早期発見に革命をもたらす可能性があります」
燐の声は、始めこそ震えていたが、次第に力強さを増していった。彼女は自信を持って、研究の成果を説明した。
発表が終わると、会場から大きな拍手が沸き起こった。燐は安堵の表情を浮かべ、壇上を降りた。
「素晴らしかったわ、燐!」
葉月詩織が駆け寄ってきた。その表情には、純粋な喜びが溢れていた。
「ありがとう、詩織」
燐が答えようとした瞬間、不穏な空気が流れた。
「ちょっと、あなたたち」
声の主は、医学部の上級生、霧島澪だった。彼女の目には、明らかな敵意が宿っていた。澪の後ろには、数人の女子学生が控えていた。
燐は息を呑んだ。
澪たちは、極端に露出度の高い服装をしていた。彼女たちの胸元は大胆に開かれ、豊満な乳房があらわになっている。乳首には派手なピアスが光っていた。それは彼女たち自身が己の生殖能力の高さを誇示しているのと同義だった。
「こんな研究、本当に意味があるの?」
澪が冷笑しながら言った。
「あなたの貧相な体を晒して、何が分かるっていうの?」
澪は意図的に胸を突き出し、燐に近づいた。その姿は、まるで自分の肉体の優位性を誇示するかのようだった。
「ほら、これが普通の女性の体よ」
澪が言い、燐を威圧するように囲み始めた。
「あなたのような例外的な体で何が分かるっていうの?」
燐は言葉につまり、周囲を見回した。そこには冷たい視線の嵐が待ち受けていた。
周りを取り囲む女子学生たちは、まるで申し合わせたかのように、胸元を大胆に強調していた。彼女たちの豊満な胸は、燐の目の前で挑発的に揺れている。華やかな装飾や光沢のあるピアスが、その存在感をさらに際立たせていた。
「ねえ、早乙女さん」
一人の学生が甘ったるい声で話しかけてきた。彼女も意図的に姿勢を正し、胸を突き出す。
「あなたの『研究』って、本当に科学的なの? それとも……」
彼女は言葉を濁し、意味ありげな笑みを浮かべた。
別の学生が割り込んできた。
「そうよ。私たちの体こそが普通なのよ。あなたみたいな例外で何がわかるっていうの?」
彼女の声には、優越感と軽蔑が混ざっていた。
さらに別の学生が加わる。
「早乙女さん、あなたの体で本当に有意なデータが取れるの?」
彼女は首を傾げ、偽りの同情を装いながら言った。
「かわいそうに、そんな体じゃ、誰も見向きもしないでしょう」
燐は息苦しさを感じ始めた。学生たちの言葉は、表面上は丁寧でありながら、その実、鋭い刃物のように彼女の心を切り刻んでいく。
「私たち、心配なのよ」
また別の学生が口を開いた。彼女は燐に近づき、優しげに肩に手を置いた。しかしその仕草は、明らかに威圧的だった。
「この研究……こんな研究が、あなたの将来にどんな影響を与えるか、考えたことある?」
学生たちの囁きが、燐の周りで渦を巻く。その声は優しげでありながら、毒を含んでいた。彼女たちの体の動きも、まるで舞踏のように優雅でありながら、その実、燐を追い詰めるための周到な動きだった。
燐は喉が渇くのを感じた。答えようとしても、声が出ない。周囲の視線が、彼女を押しつぶそうとしているようだった。
この瞬間、燐は自分の体の小ささを痛感していた。周りの学生たちの豊満な体つきと比べ、自分がいかに「普通」から外れているかを。しかし同時に、彼女の心の奥底では、自分の研究の正当性を信じる気持ちが、かすかに、しかし確実に燃え続けていた。
「待って」
詩織が燐の前に立ちはだかった。
「燐の研究は、多くの女性の命を救う可能性があるのよ。それを否定するなんて……」
澪は冷笑した。
「ふん、命を救う? それとも、ただの自己顕示欲? 自分の体を男に見せたいだけじゃないの? その貧相な体を」
その言葉に、燐の体が小さく震えた。
「そんなこと……」
その時、鷹宮翔が現れた。
「皆さん、ここは発表会場です。個人的な感情は、別の場所で」
翔の冷静な声に、澪たちは渋々と立ち去っていった。しかし、去り際に澪は燐に向かって、「これで終わりじゃないわよ」と警告するような目線を送った。
「大丈夫ですか、早乙女さん」
翔が心配そうに燐を見つめた。
「はい……ありがとうございます」
燐は小さく頷いたが、その目には不安の色が宿っていた。
その日の夕方、燐は研究棟の屋上にいた。遠くを見つめる目は、複雑な感情で揺れている。
「燐」
詩織が、そっと近づいてきた。
「大丈夫? さっきのこと、気にしないで」
燐は微かに首を振った。
「でも、彼女たちの言うことも、分からなくはないの。私、本当に正しいことをしているのかな……」
詩織は燐の肩に手を置いた。
「あなたは正しいわ。そして、勇敢よ。私は、あなたを誇りに思う」
燐は、詩織の言葉に涙がにじんだ。
「ありがとう……」
二人が抱き合った瞬間、ドアが開く音がした。
「あ……」
そこに立っていたのは、鷹宮翔だった。彼の表情には、複雑な感情が浮かんでいた。
「邪魔をしてすみません」
そう言って、翔は踵を返して立ち去った。
燐は、翔の背中を見つめながら、胸の中に湧き上がる複雑な感情に戸惑っていた。研究への不安、周囲の反応、そして翔への想い。すべてが渦巻いて、燐の心を揺さぶっていた。
空には、黒い雲が垂れ込めていた。まるで、これから燐たちを襲う嵐を予感させるかのように。
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