獣人の国で捨てられ拾われ愛でられて

若林亜季

第1話 息長足姫 ~おきながたらしひめ ~

わらわを呼びしはお前か」


 その声は女性としては低く、威厳いげんを感じさせた。

 

 握りしめた古びた手鏡の中には葉月ではない女の人がぼんやりと見えている。葉月は思わず手にした鏡を畳に放り投げた。座り込み、後退りしながら狼狽する。すると急に鏡から煙が立ち上がり、それと同時に人型が現れた。 


 そこには教科書で見た卑弥呼の様な出で立ちの女神がいた。


「妾は息長足姫おきながたらしひめなり」


 葉月は母の実家である鏡神社の神様の名前を思い出した。

 

 息長足姫おきながたらしひめ。妊娠中でも海外に戦に出かけ征伐せいばつを成し遂げた武の女神。そして子宝・安産・子育ての聖母。


 その威厳から四十三歳の葉月より年上にも見えるし、柔らかそうな肌は二十代にも見える。大柄な身長で、絹の着物の下にはしなやかな筋肉が感じられる。濡羽色の髪に彩られた顔立ちは、意志の強そうな眉と黒曜石の瞳が印象的だ。高くはないが、すっきりとした鼻梁。固く結ばれ、それでいて赤く熟れた桜桃のような小さな唇。お雛様と言うよりお内裏様を思い出される容貌だ。


「久方ぶりに現世に呼ばれき。さて、汝の願いは聞き入れむ」


 葉月は息を呑んだ。美しい女神やその不思議な現象に驚いたのではなく、耳に飛び込んできた昔風の言葉に驚愕したのだ。古文の授業を思い出し、じんわりと額や脇に汗が滲んだ。勉強が壊滅的に苦手だった葉月は、古文、いや自分に理解不能な言語自体に拒否反応があるのだ。女神の言葉はほとんど意味のない音にしか聞こえなかった。


 しかし女神の話は続く。

  

「ううむ。清らかなる乙女と言ふには些かとうが立てる様なれど、そは些細な事。汝の心地は十分つたはりたれば、安心したまへ。誰も知らぬ所に行き直さまほしきかな。他の土地に飛ばすは、やりしためしはあらねど妾にならばえむ」 


 葉月は頭痛がしてきたが、真剣そうな女神に失礼になるといけないと思い、さも理解した様に頷く。せっかく願いを叶えてくれると言っているようなのだ。しかし九九も七の段がちょっと怪しい葉月の脳みそでは、その好意も正確に理解できない。せめてこの女神の好意が伝わっている事を示すために正座をし姿勢を正す。


 女神はその凛々しい眉を少し下げ、一瞬言い淀む。そして再度葉月に語り掛けた。 


「あー。これならわかるか? 今は妾の生きていた時代と発音等が違うので言語理解・自動翻訳機能を使っていたのだが……。微調整したが、どうだ?」 


 急に意味を持った言葉に、葉月は即座にこくこくと頷く。


「理解できるようになったのならば良かった。汝の名前はなんだ?」


 女神はその目元をきゅっと細め微笑んだ。


「は、葉月です……」


「清く美しいこの『乙女の髪』のかわりに願いを聞き入れて、葉月のことを誰も知らない異世界に転移させてあげよう」


 女神は、葉月の耳を素通りしていた説明をもう一度説明してくれるようだ。


「約八十年ぶりの祈願なのだ。それに初めて聞く願いだが、きちんと成就させよう。妾もアップデートしているのだぞ。いつもは天照大御神様あまてらすおおみかみさまに『をこ姫』(愚姫)と揶揄からかわれているのだが、それを汚名返上するのだ。異世界転移が上手くいけば神気が増え、葉月と念話もできる様になる。それに、葉月の精神の中で実体と同じように会うことができるのだ」

 

 ちょっとだけ顎を上げ自慢げに話し始める。葉月は段々と息長足姫おきながたらしひめの言動に不安になってきたが、人見知りを発動しているため、その不安をなかなか言い出せないでいた。


「現世では異世界転生・転移ブームが起こってもう何十年か経っているそうだな。トラックにはねられたり過労死すると異世界に呼ばれるのが常なのだろう。先日、神界の研修に行って学んできたのだ。クラス転移やTS転生なども知っているぞ。ただ、妾が実際に行うのは初めてだからマニュアルに従って実施しよう」


 女神が懐から取り出した大きい革表紙の本には日本語ではない文字が書かれている。しかし葉月にも読むことができた。女神の言う言語理解・自動翻訳機能が働いているのだろう。その美しい本には【神界で一番やさしい異世界転生・転移マニュアル】とあった。


 葉月は、益々不安を募らせた。どうも息長足姫おきながたらしひめは優しく親切そうではあるが思い込みが激しそうだ。そもそも葉月は異世界転移までは望んでいない。嫌な事があり気分転換の為に長い髪を切り愚痴っただけだ。「あー、誰も知らない所に行きたい」と口に出したら息長足姫おきながたらしひめが出現したのだ。このままだと異世界転移させられてしまう。


「あ、あの息長足姫おきながたらしひめ。あのっ、あのっ……」


 高校を卒業後、就職もアルバイトもしたことが無いコミュ障の葉月だが、精一杯の気合を入れ息長足姫おきながたらしひめに話しかける。


「葉月よ。心配するでない。マニュアルに従って生活に困らないくらいの生活魔法が使えるようにした。強力な加護や付与は禁止されているから付けられない。あまりにも加護や能力を与えすぎても行先の均衡を崩した例が研究発表でも多数あったのだ。そのため、妾はあくまでも平穏に生きていける能力のみ、お前に授けよう」


「私。こ、困りますっ。あの、異世界転移って。困るんです! 私……」


 女神は、頑張って絞り出した葉月の言葉を遮り、優しく微笑みかけ、葉月の頭にその大きく温かい手を乗せた。なぜか亡くなった母の手を思い出す。その途端葉月の周りが淡く光り、体の中に何かが芽生えた気がした。


「よき。では新しい土地では生まれ変わった気持ちで頑張るがよい。お前が困った時はその手鏡に話しかけるのだ。妾は葉月をいつでも見守っているぞ」


 そう言い残すと女神はやり切ったといった満足げな笑顔をたたえながら、手鏡の中に煙となって吸い込まれていった。


「うそっ! うそでしょ? 息長足姫おきながたらしひめ?」


 手鏡を拾った葉月は必死に鏡面に訴えた。鏡の葉月の姿がぼやけ、次第にその奥の世界に引き込まれる感覚に襲われる。まるで自分自身が鏡の中に溶け込んでしまうかのようだった。


 そして葉月はうっそうとした暗い森の中の広々とした空き地に一人、小さな手鏡と共に転移した。





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