第12話 ヤンデレさん、ついに本領発揮
「あらあら、本当に騒がしいお猿さんでしたね。追わなくていいですよ、兄さん。駆除は行政に任せましょう」
立ち上がろうとする僕の腕を、紫子の腕と胸がきっちりホールドして離してくれない。力尽くで立ち上がろうものなら、皮余りが立ち上がっていることまでバレてしまう。
「お元気ですね、兄さん……♪」
バレバレだった。ニコニコだった。ニコニコならまぁいいか。
「ところで兄さん、紫子には気になっていることがありまして」
おもむろに立ち上がった紫子は、キッチンの方へと移動し、
「冷凍庫に入っていたこのおにぎりなんですが」
「おにぎり? ……あっ」
紫子が両手で掲げていたのは、ラップに包まれた琥珀色の球体二つ――昨日、文に作ってきてもらったおにぎりであった。セックスに夢中で食べる暇がなかったため、冷凍しておいたのだった。
「出汁おにぎりですか。とても食欲をそそる色合いですね。これも、華乃さんの手作りで?」
「え、あ、うん。そうなんだ。華乃が作ってくれたけど食べきれなかったやつを冷凍していてね」
「なぜ嘘をおつきになられたのですか、兄さん」
「え」
紫子は柔らかく微笑みながら、しかし決して僕から目を逸らさずに続ける。僕は椅子に縛りつけられたように、動けない。心臓だけが激しく、不規則に動いている。
「あの華乃さんの中にこんなレパートリーはなかったと、紫子は記憶しておりますが。古風なおばあさんやお母さんへの反発からなのか、洋食ばかり作りたがる方ですものね。見た目もそうですが」
「い、いや華乃だってたまにはそういうのを作るようになったんだよ。君は三年間会ってなかったから知らないだろうけどね」
「残念です、兄さん。既に華乃さんご本人に確認済みです。『澄佳ちゃんが作ったやつじゃない?』と言っていました」
「…………っ、あ、そっか。母さんが作ってたね、そういえば。うん、確かに見た」
「叔母さんにもお電話で確認しました。あ、安心してください。固定電話を使いましたので、わたしのスマートフォンが初めて通話を体験したのは兄さん相手です。兄さんに開通させられてしまいました」
「安心できない」
「うーん、何で兄さんはこんな嘘をついているのでしょう。紫子には分かりません。まるでこのおにぎりを作った女が誰なのか知られては困るみたいです」
「い、いやぁ、そういうわけじゃ」
「女ということは否定しないのですね」
「…………くそっ! ああ、ああ、そうだよ! そのおにぎりを作った女のことを、僕は隠そうとしたよ!」
ここまで追い詰められてしまっては仕方ない。もう、開き直るしかない……!
僕は、覚悟を決める。
「白状する気になりましたか」
「まさか父さんが不倫をするだなんてね……! いや、もちろん手は出していないと、僕は信じてる! でも、部下の女性からもらったという手作りおにぎりをあんなに嬉しそうに冷凍庫に入れている姿を見てしまったときはショックだったね……こんなの、母さんに対する裏切り行為だよ……!」
「…………」
「紫子もこの事実は母さんに黙っていてくれ……そのおにぎりは華乃が作ったということにしておくのが一番いい……君はまだ子どもだから理解できないかもしれないがこの世には知らないままの方が幸せな、」
「そうですか」
「そうなんです」
「そう来ましたか。うふふっ」
父さん、ごめん。同居する姪っ子にずっと軽蔑されたまま生き続けてくれ。
「では、敵情視察させていただきましょう」
「え」
紫子は笑顔のまま、おにぎりを二つとも、電子レンジにかける。
「わたしたち家族の絆を壊す、爆弾ですからね、これは。どんな性能なのか、しっかり分析しておきましょう」
「う、うん。……うん?」
「はい、どうぞ。兄さんも。ご協力お願いしますっ」
レンジから取り出したおにぎりの片方を僕に手渡し、そしてもう一方のラップを外して、紫子は大きく一口、それを頬張る。ゆっくりと味わうように咀嚼しながら、また僕の隣へと座り、そして僕の目をじっと見つめながら、ゴクンと飲み込む。
「なるほど……かつおぶし、昆布、干し椎茸……滋味溢れる素晴らしいお出汁が染み込んでいます。ササミはただの茹で鶏じゃありませんね。いわゆる鶏ハムになっています。最低でも一晩は掛けてしっかり仕込まれたのでしょう、しっとりした食感が堪りません。余計な油分が添加されていないところもポイントが高いですね。食べる人の体作りにまで配慮されていることが窺えます。梅肉も市販のチューブのものではありません。まさかこれ、一から手作りされているのでしょうか。たぶん、そうですね。このちょっとしたアクセントのためだけに相当な手間暇が費やされています。紫蘇や白ごまなどの使い方も絶妙です。全体として、相当レベルが高い。わたしや華乃さんにも引けを取らない……どころか、悔しいですが、わたしよりも……とにかく、このおにぎり一つに、様々な技法やいろんな気持ちが詰め込まれています。残念ながら、これは不倫ですね」
「…………」
圧倒されてしまった。言葉が出ない。開いた口が塞がらないとはこのことか。
「あ、いえ、もちろん叔父さんがどう思っているのかまではわかりません。というか、本来これほどの品物は、出来るだけ早くいただくべき一品です。その場で食べずに冷凍庫に、という軽い扱いを見るに、叔父さん側は、都合の良い女、体だけの関係だと捉えている可能性が高いですね」
「いや、別に冷凍したからといって、作り手を軽んじているとは……」
「ものによってはそうですけれど、これほど完成度の高いおにぎりです。握り具合にも相当なこだわりがあったと見ていいはずです。冷凍保存によって、繊細な食感は失われてしまったことでしょう。女性側も気にしていない素振りをしつつも、内心ではショックを受けていたかもしれませんね」
「い、いやぁ、でも。どうしても忙しくて食べられなかっただけって可能性もあるしなぁ」
「どうしてそこを否定したがるんですか? 叔父さんが不倫相手を体だけの関係だと見ているのであれば、兄さんにとっても不幸中の幸いではないですか。本気だったら困るのでは?」
「何ごとも最悪の事態を想定して考えるべきだからね。希望的観測はよくないよ」
「そうですか、そうですね。ですが私も、決して楽観視しているわけではありません。女性側は、間違いなく本気でしょう。体だけの関係の相手に、こんな優しく重い爆弾を投げつけたりなんてするわけがありません。わたしの女の勘も入った分析ですが……これは、本気の恋です。身を焦がすような、一生を捧げてしまうような恋心を、相手に抱いているのでしょうね」
「……いや、それはないんじゃないかな」
「なぜ兄さんがそんなことを? 彼女をお目にかかったことがあるのですか?」
「……希望的観測だよ……」
「……うふふっ。面白い兄さん♪ ところで、食べないのですか、不倫おにぎり。とーっても、美味しいですよっ。ほっぺたが落ちて、思わず口が軽くなってしまうくらいかもしれませんっ!」
「あははっ……!」
紫子のクリクリとした両目に見つめられながら食べても、そのお米に染み込んだお出汁の旨味はしっかりと僕の舌を喜ばせてくれた。
鼓動は全っ然収まらないままだけどなぁ! ドッキドキのバックバクだよ!
どうすんだ、これ……紫子の奴、三年の沈黙を経て、さらにパワーアップしてやがるぞ……!
こんな女を欺いて、セフレ関係の継続なんて……本当にやっていけるのか、文……!?
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