第19話 ユグドラシル

夜が明け始めた頃、薄明の光が宿の窓から差し込んできた。

カエデは顔を洗った、ユグドラシルの森に向かう日だ。


リュックにアーサーを大切に詰め込み、いつものように本を持って行こうと宿泊部屋の中を少し見渡したが、

自宅から持ってきていないことをすぐ思い出した。「そうか。部屋に置いてきちゃったんだ…」と、少し眉を顰めた。


しかし、今日はアーサーと共に新たな冒険へと踏み出す日だ。

冒険心は彼女の中で力強く灯っており、気持ちを切り替えることにした。

大切なのは、勇気をもって挑むことだと、彼女は自分に言い聞かせた。


カエデは部屋から出て鍵を閉めると。手紙を手にダリルの部屋の前に行く。

手紙には、昨日のサイとの戦いの後、話してくれた励ましの言葉への感謝を述べ、ユグドラシルに冒険に行くことが書かれていた。


「ダリル、おかげで新たな一歩を踏み出せるよ。」微笑みながら、カエデは手紙を扉の下の隙間から部屋へ押し入れた。




アルカディア王国の広大な街並みを、カエデは小さな足で歩いた。

人々が行き交う朝の市場、それぞれの生活が営まれる街の喧騒の中をすり抜け、彼女はどこかで心が躍っているのを感じていた。


何キロも歩いた末、ついにユグドラシルの入口に到達した。

目の前に広がるその壮大な森は、彼女を圧倒するような静けさとスケールを誇っていた。

ユグドラシルは、想像していたよりも遥かに神秘的で雄大な場所であり、辺り一面に広がる木々はまるで空に向かって成長しているかのようだった。


大きな木々の冠は太陽の光を遮り、地上に濃密な影を落とす。

薄暗い中に浮かぶ苔の緑は、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。鳥たちが静かに歌うかのようにさえずり、遠くには小さな動物たちが駆け回っている。

かすかに風が吹き、木の葉がざわめく音が、森の命を感じさせる。


そしてその中心部へと続く道は、木々の間を縫うようにして伸びていた。

道端には色とりどりの花が咲き乱れ、風に揺れて優しく香っていた。

どこかしら神秘的な色彩が目に飛び込む中、カエデは深く息を吸い込み、この地の新鮮な空気を全身に感じた。


「ここが、ユグドラシル…」カエデはアーサーに囁く。「本当にすごい森。」


カエデはそういうとユグドラシルの入口をくぐりぬける。

この広大な森の持つ圧倒的な生命力は、それだけで彼女の心に勇気と畏怖をもたらした。

周囲を見回し、人の姿が見えないことを確認すると、彼女は足を止めてリュックをゆっくりと降ろし、その中からアーサーを呼び出した。


「さあ、アーサー。ここからは一緒に歩こう!」カエデは笑顔を浮かべ、アーサーを促した。


アーサーはリュックから軽やかに飛び出し、自らの毛並みを整えるように体を一振りした。

「やっと解放された!」オレンジ色の毛が陽光を受けてきらめき、大きく伸びをしたアーサーは嬉しそうに二足歩行でカエデの隣に立った。


そしてアーサーは周りをきょろきょろと見渡すと

いつも行く森よりも一回り、いや二回りも大きな木に囲まれていることに気付く。

「すごいね!」アーサーは高鳴る胸を抑えつつ、カエデの顔を見上げる。


「うん、早く行こう!」カエデはそう応じる。

万が一見つかってしまわないように、念のためアーサーには木の上から隠れながらついてきてもらうことにした。


足元には苔が柔らかく広がり、踏むたびにほんのり冷たい感触が返ってくる。

森の奥へと続く道を、二人はゆっくりと進み、たまに立ち止まっては目新しい風景に魅了された。

色とりどりの花が風にそよぎ、鳥たちのさえずりが心地よく響く。




その時、微かな音が風に乗って耳に届いた。

人の気配――カエデは思わず耳を澄ませた。

彼女はアーサーを見上げ、合図を送ろうとする――がアーサーも同じく気づいたようだった。

「誰かいるみたい。」


カエデはすばやく木の幹をよじ登り、アーサーもその後に続く。

二人は木の上から視線を巡らせ、その気配の方向を探った。

しばらくすると、下で何者かが地形を利用して修行をしているのが見えてきた。


男が険しい顔つきで身体を低く構え、岩と岩の間を素早く駆け抜ける様子があった。

彼は自然の障害物を利用し、自らを極限まで追い込むように身体を操っていた。

腕の筋肉が鋼のように躍動し、一方でその動きにはしなやかさも感じられる。


カエデは喘ぎ息を小さくして、アーサーに囁いた。

「あの人、ここで修行してるんだ…」


アーサーは小さく頷き、彼のオレンジ色の目は真剣そのものだった。

カエデがさらに耳を澄ますと、いくつもの場所で同様の気配が微かに聞こえ、個々の人物がそれぞれに、この広大な森で心身を鍛え上げていることに気づいた。

山を越えて体を鍛えるもの。滝に打たれて精神を鍛えるもの――

このユグドラシルはただの森ではなく、冒険者たちにとって特別な場所であることを悟ったのだ。




さらに奥に進むと、もともとあまりなかった人の気配がさらに薄れていった。

さすが王国が管理する森――ユグドラシル――、どこまで行っても先が見えない。

奥に行くと、制限区域の大門がいくつもあると聞いていたが、その気配すら感じられない。

アーサーは木の上をはねながら、カエデはゆっくりと地面を踏みしめながら、歩みを続ける。

すると突然、目の前の木々の間から聞き慣れない声が響いた。




「おいおい!昨日コテンパンにされたおこちゃまじゃねえか」

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