全自動不幸誘引機
小狸
短編
自分は幸福になることができない類の人間だと気が付いたのは、二十七歳の秋口のことである。
皆が全自動で享受している人並みの幸福とか、幸せとか、嬉しさとか、楽しさとか、そういうものとはもう生涯無縁なのだと、理解した。
早計だと断ずることができるかもしれないが、事実である。
幸せなことより、辛いことの方が多い人生だった。
常に何かが欠けていた。
誰も僕のことを助けてくれなかった。
助けは求めた。
求めたよ。
しかし、常に強要されるのは、我慢と抑圧であった。
我慢しなさい。
抑えなさい。
仕方ないから。
――仕方ない。
そう、僕の人生は、仕方ないで全て済まされてきたのだ。
機能不全家族も。
暴力を伴ったいじめも。
クラス全体からの無視も。
担任教師からの無理強いも。
好きでもない相手からのストーカーも。
友人からの性的暴力も。
全て――仕方ない、の一言で通過させられてきた。
ならばお前自身は動いたのか――と思うかもしれない。
お前自身は、自分が幸せになるために努力したのか、と。
したよ。
したさ。
つい先日まで、自分は幸せなんだとずっと思いこんで、無理と無茶を重ね合わせながら生きてきた。
幸せになるために、辛酸を舐めてきた。
ただ。
人間一人だけの力でできることは限られている。
良い人に巡り合えなかった、縁がなかった。
なんて。
そんな二文でまとめられてしまう人生だった。
誰かに助けを求めることなんて無意味で、人は生来にして一人で、辛いことは辛いことのまま一生背負って生きるしかないのだと、僕は学んだ。
莫迦である。
二十七になるまで、その程度のことも分かっていなかったのだから。
良い歳して、そんなことも理解していなかった。
気付いてしまった。
あ、死のっと。
一瞬でそう思うくらいには、僕の人生はあまりにも重すぎた。
誰にも相談せずに、死のう。
心配はかけたくない。
そもそも僕を心配するような人などいない。
死んだら死んだでちょっと悲しんで、そのうち忘れるだろう。
皆は幸せなのだ。
当たり前みたいに。
僕にはそれがなかった。
それだけの話だ。
それ以上でも以下でもない。
そうして包丁を取り出して、ふと。
せっかく死ぬのなら、一人人を殺しておこうと思った。
いや、誤解を恐れずに言うのなら、僕は僕が受けた数々の暴挙に納得していた訳ではない。
我慢と抑圧の連続であった。
どうせ死ぬのなら、派手に社会に迷惑を掛けて死のう。
だって社会は、世界は、僕を助けてはくれなかったのだから。
それくらいの報復は、許されるだろう。
良く「世に迷惑を掛けずに死ねよ」という言葉がある。
大方人身事故や拡大自殺に対しての言葉かもしれないが、死人に口はないし、耳もない。世間がそのニュースを見、ネットのコメント欄に無駄な僕見を述べる際には、どうせ僕は自殺しているのである。その言葉が僕に届くことは永遠にない。
死んだ後どう思われようが、別にどうでも良い。
どうせ皆幸せなんだ。
僕がどれだけ藻掻こうと、足掻こうと、その気持ちは誰にも届かない。
僕が死のうと、どうせ皆には明日があるんだろう?
だったら、それで良いじゃないか。
電車に投身しないだけマシだと思って欲しい。
そう思って、包丁を持った。
新聞紙に何重にも包んで、リュックへと入れた。
殺す人は決まっている。
僕に性的暴行をした友人である。
その友人のその行動は、最後の一撃であった。
何とか繋がっていた世の中との縁を全て断ち切られることとなり、多重の精神疾患になり、「男から男への性的暴行に未だ不寛容な世の中」を都合良く利用して、全てを奪った張本人である。
住所と部屋番号は、把握している。
公務員として仕事をしているから、今日はまだ仕事中だろう。
最寄り駅まで行った。
汗だくになった。
そもそも主治医に外出は非推奨されているのである。
余計な視線、音、匂いを感知して、体調が悪くなった。
でも――もう少しだ。
もう少しで、全てが終わる。
僕はその友人の部屋の前で、帰宅するのを待った。
階段を上る音が聞こえてきた。多分友人だろう。隣の部屋には人がいないと言っていた。
リュックの中から、包丁を取り出して、構えた。
視線の上に現れた瞬間に、殺す。
殺す。まさかそんな台詞を、真剣に口にする時が来るとは、学生時代には思っていなかった。せいぜい小説の中の言葉とばかり思っていた。でも、僕はその友人を殺したいと思うし、死んでほしいと思う。いや? 殺したいから、最早友人でもないのか。ただの殺害対象である。止めても無駄である。僕の人生は、もう既にどうしようもないほどに崩壊してしまった。皆が普通に昇進し、普通に生き、普通に頑張っているような人生は、もう送ることはできないのである。頑張りも、努力も、精進も、零からやり直しである。そんな人生やってらんねえんだよ。ふざけんな。何のうのうと生きてんだ。死ねよ。死んじまえよ。全員死ね。生きてんじゃねえ。幸せそうににこにこ笑いやがって、一生笑顔なんてできなくしてやる。そしてその後で、僕は自殺をすればいい。それが僕にできる、ささやかな、世界に対する復讐である。
もう全部どうでも良いんだ。
そう思って、僕は友人の心臓に向かって、包丁を突き刺した。
「!? ■■ッ」
友人は僕の名前を呼んだ。殺されるとは思っていなかったのだろうか。愚かなことである。人の人生を滅茶苦茶にしておいて、まさか自分だけ生きていられると思っている。そんなはずがなかろう。
二撃。
三撃。
四撃。
五撃。
六撃。
七撃。
八撃。
九撃。
十撃。
ざく。
ざく。
ざく。
ざく。
ざく。
ざく。
ざく。
ざく。
ざく。
人間の弱点がどこにあるのかという話ではあるけれど、取り敢えず頭と胸と首を執拗に突き刺した。本当は腹部も刺したかったが、胸部を覆って倒れてしまったので、背中側から刺すしかなかった。
刺している間は、後頭葉にはどんな機能があるんだっけとか、首のどこに重要な部位があるんだっけとか、人間はどうやったら死んだ判定になるんだっけとか、そんなことばかりを考えていた。
大量に返り血を浴びた。アパートの三階の廊下に、血が滴った。どうせ監視カメラとかで記録されているのだろう。
ほら?
こんな風になってしまった。
誰も助けてくれなかっただろ?
僕は、不幸だ。
そう思った。
気付けば。
血と肉と骨と。
その他何らかの液体のようなもので。
友人は背中側からぐちゃぐちゃになっていた。
良し。
ここまですれば、まず、生きているということはないだろう。
後は――僕が死ぬだけ。
他人とは違って、自分の臓器の位置は、何となく以上に把握している。
最後に僕は、自分の心臓に向けて、思いっきり刃を突き立てた。
躊躇はなかったし、余裕もなかった。
どうせ僕の人生だ。
誰にも分かってもらえないくらいなら、死んだ方がマシだ。
さようなら。
(「全自動不幸誘引機」――了)
全自動不幸誘引機 小狸 @segen_gen
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