一口ショート

@daikichi-usagi

塩むすびと豚汁

 駅前に、昔ながらの定食屋があった。看板も出していない。だが、この店にはいつも決まった時間に、客がひとりずつ入ってくる。誰もメニューを見ずに、同じものを頼む。


「塩むすびと豚汁をください。」


 店主は黙って頷き、黙々と塩むすびを握り、豚汁を鍋で温める。客はその間、何も言わない。ただ、どこか遠くを見つめるような目をしている。


 ある日、ひとりの男が店に入ってきた。スーツ姿で、少し疲れた表情をしている。カウンターに座ると、やはり彼もメニューを見ずに言った。


「塩むすびと豚汁をください。」


 店主はいつもと同じように頷き、静かに料理を出した。塩むすびはふっくらとしていて、まるで白い宝石のように輝いている。豚汁は具だくさんで、湯気が立ち上っている。


 男は塩むすびを手に取り、じっと見つめた。その顔に、どこか懐かしさがよぎる。


「…久しぶりだな。」男はぽつりと呟き、ひと口食べた。


「美味しいですね。なんだか、昔を思い出すような味です。」


 店主は静かに微笑んだ。


「そうかい。」


 男は豚汁を一口すすった。温かさが体に染み渡る。「これも、懐かしい味だな…」と言いながら、ふと壁に目をやると、一枚の色あせた紙が目に入った。


「どんな人も、最後に味わう一品は塩むすびと豚汁に限る」


 男はしばらくその紙を見つめていたが、すぐにまた塩むすびに目を戻した。何も考えずに、ただ食べ続ける。


 やがて、塩むすびも豚汁もきれいになくなった。男は席を立ち、店主に向かって一礼した。


「ごちそうさまでした。」


「また、いつでも。」店主は微笑んだ。


 男はその言葉に少し違和感を感じたが、深く考えず店を出ていった。外に出た瞬間、ふと冷たい風が吹きつけたが、彼はそのまま黙って駅の方へと歩いていった。


 その後、店主は静かにカウンターを拭きながら、次の客が入ってくるのを待っていた。

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