西へ

「誰だコイツ……」


 四角い逆しまの世界に向い俺はそう呟いた。


 いや、鏡なのだからそれは俺以外の何者でもない筈なのだ。


 それでも俺は、そこに映った小汚い中年が自分自身の事だなどと信じられなかった。


 汚い駅のトイレの鏡の前、刑が宣告され一月も経っていないにもかかわらず、過酷な逃亡生活が俺を変えてしまったのだ。


 俺が捕まった時は、一部界隈でイケメン殺人鬼等と面白半分に持て囃され、留置所にはファンレターや面会に来て愛を語る滑稽なファンまでいたというのに、その俺が今ではどうだ?


 頬はこけ、目の下には濃い隈ができ、髭は伸び放題で滓が絡んでいる。


 もう何日も洗っていない顔や頭は、脂でテラテラと汚らしく輝いている。


 まだ四十にもなっていないのに、どう見ても五十、下手をすれば還暦を迎えたみずぼらしい浮浪者のような風貌になり果てている。


 いや、浮浪者なのは事実か。


 住む家はもちろん逃走資金も尽きかけ、かと言って働く事も出来ず、人目を避けながらゴミを漁り、雨風を凌げる場所を探して怯えながらこそこそと放浪する日々は、体と心を蝕み、髪や体を洗う余裕すらない。


 しかし、こんな底辺以下に落ちぶれても賞金稼ぎ共は猟犬の如く俺を探し追い詰めてくる。


 あの日からずっと、俺を追い続け、何処に逃げてもその異様な嗅覚で俺に食らいつこうとする。


 どんなに人に紛れても嗅ぎつけてくる。


 電車にいても俺を追いかけてくる。


 トイレに隠れていてもドンドンと扉を叩いて引っ張り出そうとする。


 コンビニに入ろうが、客に紛れて店員に化けて俺を監視している。


 人の少ない田舎に逃げても、老人に変装して俺を指さし睨んでくる。


 何処に逃げようと、誰いないはずの山中ですら誰かが俺を見つけ、暗闇から追いかけてくる。


 せめて人の多い所なら、暗闇のない所なら、そこなら逃げられる。


 光があれば賞金首を見つけられる。


 そう思って西へ西へと逃げてきた。


 それでも──


「おい爺さん。ぶつかっといて無視とはええ度胸やなぁ」


「ヒィッ!」


 見るからに暴力的な男が、俺の肩を掴んで睨んでくる。


 間違いない、コイツも賞金稼ぎだ。


「お、暴れんな、暴れんなよっ!」


 振り払おうと暴れる俺を男は思いきり空いた手で殴りつけてきた。


「ぎぃいっ!?」


「暴れるなっつってんだろうがぁっ!!」


 頬に衝撃が走り、その勢いのままアンモニア臭く固い地面へと叩きつけられる。


 しめたっ!


 捕まえなきゃいけない相手を遠ざけるなんて馬鹿め!!


 俺は跳ね上がるとトイレの出口に一目散に駆け出した。


「おい!待て爺!!」


 待つわけがない。


 俺は後ろを振り返る事なく力の限り走った。


 見なくてもわかる。 


 奴らはいつも俺が倒れるまで追い続けてくるんだ。


 何人も何人も追っかけてくるんだ。


 後ろにも横にも前にだって待ち伏せている。


 あの中年もあの女子高生もあの犬を連れた小学生だって賞金稼ぎなんだ。


 何処に逃げようとどんなに走ろうと奴等は必ず追いかけてくる。


 皆が俺を狙ている。


 こんなにも大勢、皆俺を見ては鋭い目つきで俺を見る。


 だから皆俺を狙った賞金稼ぎなんだ。


 俺はただ闇雲に走った。


 何も考えない。


 ただただ逃げて、力一杯逃げる。


 何処に逃げようかなんて考えたら、奴等は俺の考えを読んで先回りしてくる。


 だから兎に角逃げるしかないんだ。


 何処をどう走ったかもわからない。


 力の限り走り路地を抜けた瞬間、足が縺れて地面に顔面から突っ伏し倒れ込んだ。


 もう駄目だ。


 俺は恐怖に顔を歪め、疲れて立ち上がれない四肢を恐怖に震えさせた。


 しかし、俺に手をかける者はいなかった。


 撒いたのか?


 賞金稼ぎから逃げ切れたのか?


 そう思った瞬間。


「大丈夫ですか?」


 賞金稼ぎがっ!?


 俺は身構えた。


 しかし、予想されるような、暴力的な行為は何もされなかった。


「あの?本当に大丈夫ですか?


 それどころか、声の主は優し気に問いかけてきている。


 俺は恐る恐る視線を上げた。


 目の前には心配そうに俺を見下ろす優男が傘を差しながら俺に片手を差し出していた。


「そんなびしょ濡れで大丈夫ですか?立てます?」


 俺は言われて初めて自分が濡れている事に、雨が降っている事に気づいた。


 そして、俺はついその手を取ってしまった。


「ああ、ありが……とう」


 男は優しく俺を引っ張り上げ、心配そうに俺を見守ってくれた。


 そして、何かを思い出したかのように頷いた。


「ちょっと待ってて下さいね」


 男は俺に傘を手渡すと急ぎ足で何処かへ走り去ってしまった。


 今こそ逃げるべきだ。


 だが、俺には出来なかった。


 疲れ切っているのもそうだが、嘘でもこんなに優しくしてもらったのはいつ振りか。


 それが思い出せなかった。


 もう、彼が賞金稼ぎで捕まってしまってもいいと思った。


 だが、彼が戻ってきた時、彼の手には温かな湯気を上げるコーヒーが二杯。


 その他には誰も連れていなかった。

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