危ない暴君神がおっさん聖女にだけ優しいです
野良猫のらん
第1話 おっさんなのに聖女
布巾を手桶に張った水に浸し、力いっぱいに絞る。手桶の水に、波紋に揺れる顔が映った。
髭面の、冴えない中年の男が自分を見返した。ありふれた茶髪を短く切った髭面のむさ苦しい顔の中心で、緑の瞳だけが宝石のように輝いている。自分の容姿の中で褒められるべき箇所があるとすれば、この瞳だけだと男――オーウェンは考えている。
「オーウェン、これも片づけなさい」
艶やかな女の声が耳に届いた次の瞬間、なにかが頭の上に降ってきた。
手桶の水に映った自分は、頭から生ゴミを被っていた。まとわりつく悪臭が、見間違いではないと雄弁に伝えてくる。
「アハハハ、いいザマね!」
顔を上げると、金髪の若い女が高笑いしていた。
聖女の身分であることを表す、純白の衣服を身にまとっている。つまり彼女は聖女だ。
「汚らわしい雑用係にお似合いだわ!」
何が面白いのか、女はオーウェンを見下ろして悦に浸っている様子だ。
聖女は親元から離れて神殿で暮らし、恋人を作ることも叶わないのだ。こんなおじさんを虐めるくらいしか、することがないのだろうと哀れに思った。自分の姪と同じ年ごろの子に敵意など抱かない。
オーウェンは眉を下げて、笑顔を浮かべた。
「わかりました、片づけておきますね」
素直な返事の何が気に食わなかったのか、彼女の表情は一変した。眉間に深い皺を刻み、眉を直上に吊り上げ睨んできた。
「そうやって、善人のふりをして! 何を企んでいるの! 私は絶対、
彼女は大声を投げつけると、つかつかと床を踏み鳴らして去っていった。
彼女の背中を見送りながら、自分だって信じられないよとオーウェンは胸中で呟いた。神殿の片隅でこうして雑用係をやっていて、純白の衣もまとっておらず薄汚れた服を着て、中年で髭面で、美しさの欠片もない、女ですらない自分が、聖女の一員だなんて。
ごく普通の農夫に過ぎなかったオーウェンの運命が一変したのは、十年に一度の洗礼の儀の日のことだった。
「ああもう、間に合うかなこれ!」
四つに分けた髪の房をねじったり、編んだり。オーウェンのたった一人の肉親である姪は、忙しなく手を動かして髪型を作っていた。
オーウェンと姪が住んでいるのは、農村にありふれた木造の一軒家だ。椅子に座った姪は、自分の手で複雑な髪形を編み上げている。今日が十年に一度の洗礼の儀の日で、姪は出席者の一人だからだ。十年に一度、村に偉い神官がやってきて、若い娘たちに洗礼の儀を行うのだ。
「どうしようあたし、洗礼を受けられなかったら大人になれないわ!」
急いで髪を編みながらも、姪はおどけた調子で言った。
洗礼の儀を受ければ、一人前の女性と認められ、結婚ができるようになる。いざとなれば、姪は髪を編みながらでも、儀式を行う広場に向かうことだろう。
「そうはならないよ。それよりも、聖女に選ばれてしまったときのことを考えておいたらどうだい?」
髪を編むのを手伝うこともできず、そばで手持ち無沙汰に眺めていたオーウェンが、姪の言葉にくすりと笑った。
「聖女だなんて、数十年前に隣の隣の隣の隣村で見つかったっていう話以外聞かないじゃない! 万が一にも選ばれっこないわよ」
姪はちらりとオーウェンの方に顔を向け、えくぼのある笑みを見せた。
洗礼の儀はもともと、女性たちの中から聖女の素質を持つ者を見つけ出す儀式だ。けれども聖女の素質がある者が見つかることなど滅多にないので、すっかりただの成人を迎える日だという扱いになっていた。
「それに聖女に選ばれたら神殿で豊かな暮らしができるかもって夢見る子もいるけれど、あたしはごめんだわ」
肩をすくめながらも、姪は髪を編みこむ手を止めない。
「だって聖女に選ばれたら、遠くの都に行かなきゃならないのよ。それっておじさんや、フィリップと離れ離れになるってことじゃない!」
フィリップとは、姪の婚約者のことだ。姪を大切にしてくれそうな気持ちのいい青年で、二人の仲はとても微笑ましいものだ。姪が洗礼を受けたら、すぐに結婚することになっている。
「そうだね、せっかく結ばれるところなのに」
「だから聖女に選ばれないように祈っていてね。言っておくけれど、おじさんと離れるのも嫌なんだから」
わかっているの、と姪は片眉を上げた。
兄夫婦が事故で亡くなり、オーウェンが姪を男手一つで育て上げてきた。娘同然に大切に育ててきたのだ。姪はすくすくと成長し、洗礼を受けて大人になる瞬間がもう目の前だ。
自分を慕ってくれている姪の言葉に、嬉しさを覚えた。
「ねえ、おじさん」
姪の髪型はもうすぐ完成しそうだ。お団子に結った髪の周りに、三つ編みの束が巻きついていく。
「もうあたしはおじさんの手元から離れるのよ。だからこれからは、おじさんはおじさんの幸せを追わなくちゃ」
突然の言葉に、オーウェンは虚を突かれた。
「僕の幸せだなんて。僕はもう四十過ぎのおじさんだよ」
姪を養うために必死で働いてきたからか、オーウェンは未だに独り身のままであった。
「何を言っているの。四十過ぎてから嫁をもらう人なんて、珍しくもないでしょう」
「そんな。僕の嫁に来る人が可哀想だよ」
姪の言葉に、苦笑いする。
今から嫁を娶るならば確実に年齢差はあるだろう。それだけでも可哀想なのに……自分はいまいち女性に興味が持てない。自分はもしかしたら男性の方が好きなのかもしれない、と考える日もある。
そんな男の元に嫁いできた女性が、幸福になれるとは思えない。
「僕にとっての幸せは、可愛い姪っ子を一人前になるまで育て上げられたことだよ」
微笑んで誤魔化した。
姪を無事に育て上げられた。それだけで、自分の人生の意味など十分ではないか。
姪が結婚したのを見届けたあとは、畑を耕し続けて、耕した土地に埋もれて一生を終えるだけだ。恋だのなんだのとは、無縁の人生がこれからも続くのだ。
「まったくもう、おじさんったら。後悔しても知らないんだからね」
忠告のようなものを口にしたところで、姪の髪型は完成した。
施した化粧も相まって、姪はすっかり見違えていた。我が姪ながら綺麗だ。すっかり大人の女性になっていたのだな、とやっと実感が湧いてきた。
「ふう、間に合った。じゃあ、いってきます!」
「いってらっしゃい」
洗礼の儀が行われる村の広場に、姪は駆け出していった。
一人っきりになった家はやけに広く感じて、寂しさを覚えた。寂しさだけでなく、恐怖を覚えた。姪が結婚すれば、この家にずっと一人なのだ。自分は虚しさを感じずに生きていけるだろうか。ついさっきまでは、そう思えていた。だが、今は……。
「あれ⁉」
テーブルの上を見て、オーウェンは間抜けな声を上げてしまった。そこには、姪の髪飾りが取り残されていたからだ。着けていくのを忘れてしまったのだ。
せっかく洗礼の儀の日のために夜なべして作ったものなのに、そそっかしい子なのだから。
姪が広場に着く前に、走って追いつくだろうか。追いつかなかったとしても、届ける努力はすべきだろう。髪飾りを手に取ると、オーウェンは家を出て駆け出した。
結論から言うと、姪に追いつくことはできないまま広場まで来てしまった。洗礼の儀の場となっている広場は、若い女性ばかりだ。もう儀式が始まるというのに、女性たちをかき分けて姪のところまで行くことはできない。
普通ならば、そのまま諦めることとなっただろう。だが最後列に姪の後ろ姿を発見した。そっと近寄って髪飾りを渡すくらいはできる。
オーウェンは広場に足を踏み入れると、最後列の姪に静かに近寄っていった。
「おじさん⁉」
振り向いて驚いた姪に、髪飾りを見せる。
「持ってきてくれたの? ありがと!」
姪は笑顔を見せ、髪飾りを受け取ると早速髪に着けた。これで完璧だ。
目的は果たしたので、オーウェンは踵を返して広場を去ろうとした。
「天を統べる我らが崇め奉りし神、エルプクタンよ!」
しかし、折悪しく儀式が始まってしまったようだ。神官の声が響き渡る。
悪目立ちせぬようにと、オーウェンはその場にしゃがみ込んだ。立っている女性たちの背に隠れるようにして、そろりそろりと這うようにその場を離れるつもりだ。
「天馬よりも疾く天翔け、怒りの雷を操るエルプクタンよ、貴方の力をお貸しください。お側に侍るに相応しき聖女をお示しください」
神官がなにかしたのだろう、辺りが光に包まれた。広場にいる女性たちの全員が光に包まれる。オーウェンも。
どくり、と。身体の内側でなにかが脈動したような気がした。
「この反応は、まさか……」
思わずといったように、神官が零した。
広場がざわついて、人垣が動く。神官が人垣を掻き分けているのだと、遅れて察した。
まずい、この場を立ち去らねば。そう思った瞬間に、目の前の人垣が分かれ、神官が姿を現した。
「反応があったのは、この辺……そなたか?」
神官は手に持っている杖を、姪の前で掲げた。まさか姪が聖女に選ばれてしまうのかと恐れた。だが、そうではなかった。
「いや、違うな。もっと後ろ……は?」
地面にしゃがんでいたオーウェンと、神官の目が合う。神官の杖が「こいつが聖女だ」と言わんばかりに激しく明滅を繰り返していた。
これが史上初の男性の、それもおっさんの聖女が見出された瞬間だった。
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