第9話 恐怖の魔物

コカトリスの目撃情報のあった農業畜舎は、住宅地から離れた丘の上に位置していた。周囲には田畑と樹木に囲まれており、一帯は静まり返っている。


車を小道の路肩に駐車した二人は、畜舎の扉口へと向かう。


「うっ……やっぱり慣れないです、この乗り物。」


顔色を悪くしたフェリエッタは、杖を握りしめながらゆっくりと歩いていた。彼女の横を、黒薙が駆け足で進む。


「中に入ります。」


後ろにいるフェリエッタに声をかけると、黒薙は先へと急ぐ。その表情は硬く、彼女は周囲を警戒しながら薄暗い畜舎へと足を踏み入れた。


「あっ……」


フェリエッタは畜舎に入っていく黒薙を見て、その後を追いかけようとするが、何かにためらうように足を止める。


「……ま、待ってください。」


先に進む黒薙の背中を見て決意を固めたフェリエッタは、震える足を動かして崩れた畜舎の扉を越えていくのだった。




畜舎の中には、牛特有の湿った空気がこもっていた。周囲には、まるで巨大な動物が暴れたように物が散乱しており、興奮した牛たちの荒い鼻息が響く。


通路の奥へと足を進めていた黒薙は、血の臭いを感じる。怯えた牛の唸り声が強くなっていくのを耳にして、彼女は強く万年筆を握りしめた。


――グチュッ、ゴチュッ……


畜舎の奥では、肉を引き裂くような奇妙な音が鳴っていた。巨大な影がうずくまりながら、死骸を咀嚼しているのだ。


(コカトリスだ……。)


心の中で確信した黒薙は、万年筆のペン先をゆっくりと巨大な影へと構える。辺りに漂う血の臭いが、彼女の緊張をより高める。その瞬間だった。


――紅い眼が、薄暗い闇の中でギラリと光る。


刹那、コカトリスの蛇の頭が猛然と黒薙に飛び掛かる。その牙は鋭く、血に飢えた猛獣のように彼女を襲った。


「くっ……“理の介さず綴る筆オートマティスム守る盾コース”!!」


万年筆のペン先からインクが溢れ出ると、瞬時に黒い盾へと姿を変える。牙が盾に衝突すると、黒薙の身体は後方へと大きく吹き飛ばされてしまう。


「んぐっ……!」


黒薙は畜舎の床を転がりながら体勢を立て直す。視線の先には、牛の血に濡れた嘴を持つコカトリスの鶏の頭が、彼女を睨みつけていた。


「“貫く弾丸ファイン”!!」


身体を低く構えたままインクの弾丸を放つ。飛び出した弾丸は正確にコカトリスの胸部を捉えていたが、分厚い羽毛によって弾かれてしまう。


「……硬い。」


次の瞬間、コカトリスは雄叫びを上げたかと思うと、身体を大きく震わせた。畜舎全体に響き渡るその声は、牛たちをさらに怯えさせ、激しい鳴き声が重なり合う。


「まずい……!」


警戒する黒薙は次の攻撃に備えて身を構えるが、コカトリスは彼女の頭上を飛び越えると、畜舎の出口に向かって走り出した。


「……しまった!!」


黒薙もその後を追いかけて飛び出すが、コカトリスの姿はすでに消えていた。コカトリスの逃げていった方向には、薄暗い林が広がっていた。


「……やられた。」


外に出た黒薙は、悔しそうに息を吐く。


「コカトリスが逃げた先に、何か心当たりはないでし……!?」


フェリエッタに助けを求めるために後ろを振り返った黒薙は、扉の影にへたり込むように隠れた彼女を目にする。


フェリエッタの肩は小刻みに震え、額からは冷たい汗が流れ落ちている。彼女の手は杖を握ったまま硬直し、その顔はひどく青ざめていた。


「何かありましたか!?……大丈夫でしょうか?」


フェリエッタのもとに駆け寄った黒薙は、彼女の肩にそっと手を当てる。石化していない柔らかな皮膚を感じ、少しだけ安堵した。


「……だ、大丈夫です。」


そう答えた彼女の声には力がなく、震えが隠せてはいないのだった。




赤い血にまみれたコカトリスを見たフェリエッタは、暗い地下室でジョシアが無残にも噛み殺されてしまった光景を思い出していた。


一級学徒のジョシアでさえも、コカトリスに全く歯が立たなかったのだ。落ちこぼれの五級学徒が何か出来るはずがない。


「そ、その……ご……ごめんなさい。やっぱり私には……無理なんだ。」


フェリエッタは限界を迎えたようにその場にうずくまると、肩を抱え込むようにして身体を縮めた。黒薙のまっすぐな眼差しに向き合う勇気すらも、彼女にはなかった。


「分かりました。」


目の前でうずくまるフェリエッタにほんの一瞬だけ視線を落としたものの、黒薙は特に声を荒げることなく冷静に判断を下す。


「では、ここから先はやはり私一人で行きます。……コカトリスの逃げた先に何か心当たりがあれば、それだけ教えていただけると幸いです。」


黒薙の静かな声が、現実に引き戻すように響く。フェリエッタは震える手を握りしめながら、何とか顔を上げた。


彼女の視線が、畜舎の奥に転がる牛の死体に向けられる。まだ温かい亡骸の腹部は鋭利な鉤爪で引き裂かれ、臓物が飛び出しているのが遠目にも分かる。


「……コ、コカトリスは、本来であれば石化することで獲物を無力化してから捕食します。あの死体が石化していないことを考えると、相当焦っているんだと思います。」


目を伏せると、フェリエッタはゆっくりと説明を始める。


「おそらく不足している脂肪分を、ドングリなどの果実からも補おうとするはずです。だから……多分、コカトリスは林の中でも少し開けた明るい場所にいます。」


「了解しました。ご協力に感謝します。」


黒薙は短く答えると、静かに立ち上がった。畜舎の外にある林に向かおうとする彼女の背中を見つめながら、フェリエッタは息を吞み込んだ。


「……黒薙さんは強いんですね。」


それは思わず彼女の口から漏れた言葉だった。


「……え?」


「私には……無理です。それが、私の“運命”だからです。」


振り返った黒薙に呟くように、フェリエッタが自嘲気味に言葉を紡いだ。うつむいた彼女の顔は影に隠れ、その表情を見ることは出来ない。


ただ、その声に滲む諦念の感情だけが静かに伝わる。


――『あなたには無理。そういう“運命”なのよ。』


彼女の脳裏に過るのは、手紙を踏みつけるジョシアの冷たい姿だ。それは、何度も思い出されてはフェリエッタの心を縛り付けていた。


過去の記憶は、今の無力感と絡み合い、逃げられない現実として押し寄せてくる。


(私は……別の世界でも、何も変われないんだ。)


運命と名付けられた己の呪縛を恨みながら、彼女は静かに拳に力を込めるのであった。




フェリエッタは自傷するような笑みを浮かべながら、顔をうつむかせる。彼女の様子を、黒薙はしばらく黙って見降ろしていた。


「……私は――」


辺りが静まり返る中、黒薙は唐突に口を開いた。


「私は、何者かに定められた運命など信じるつもりはありません。……もし仮に存在していたとしても、私は自分の“生き方”は自分で決めます。」


彼女はその場に立ち尽くしながら、寂しそうな瞳で話していた。それは、まるで自分自身にも言い聞かせているようにも感じられた。


「それだけは、他人に決められるものではないはずです。そして……最後に決められるのも、自分だけです。」


黒薙の声を聞いても、フェリエッタは顔を上げない。だが、黒薙は特に気にする様子もなく静かに話を続ける。


「……私は二度と逃げません。もう何も奪わせない、そのために私は戦います。」


黒薙の声は、畜舎の静寂を破るように響くのだった




黒薙が次に顔を上げた時には、いつもの冷静な表情に戻っていた。


「本部にあなたのことを連絡しておきます。しばらくすれば、本部からの部隊が来るはずです。それまで、ここから動かずに待機していてください。」


彼女はフェリエッタに背向けると、コカトリスが逃げていった林の方へと向き直る。そこには木々が鬱蒼と生い茂り、昼間であるはずなのに薄い闇が漂っていた。


黒薙がもう一度振り返ると、自分の首元に手を回す。


「この装置を使えば、私たちの言語を話せるようになります。渡しておくので、応援が到着するまでに身に着けておいてください。」


自分の首に巻いていたチョーカーを、フェリエッタに差し出したのだった。




フェリエッタは地面に座り込んだまま、暗い林に消えていく黒薙をジッと見つめる。


――その手には、彼女から託されたチョーカーが握りしめられていた。

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