第7話 あなたの名前は

笹平の首元には蛇の牙が、深々と突き刺さっていた。


「い……嫌です。……笹平さん!!」


黒薙は笹平の身体を抱き起そうと、手を伸ばす。その手が肩を掴んだ時、彼女は笹平の身体が死んだように冷たいことを感じた。


「う……嘘……ですよね?……私また……」


黒薙が悲哀の声を上げる中、笹平の首元から毒牙を引き抜いたコカトリスは、次なる獲物を見定めるようにゆっくりと巨体を動かしていた。


――ウ~~、カンカンカン


しかし、それは空をつんざくようなサイレンの音によって阻まれる。それは彼女たちのいる警察署全体に反響し、コカトリスも身体の動きをピタリと止めた。


崩れ落ちた建物の周りには、赤いランプを転倒させた特殊車両が集まっていた。


……シュゥゥゥッ


聞き慣れないサイレンの音に驚いた様子のコカトリスは、警戒する唸り声を上げると、大きく翼を広げて半壊した壁から外へと飛び出していった。


「ふむ……とりあえず『死を司る恐怖の魔物』というオーダーで召喚しましたが、提示した条件の不安定さにしては、結果として上々でしょう。」


月岡が瓦礫の中から身体を起こすと、服についた埃を払いながら立ち上がる。その顔に疲労や焦りは見られず、むしろ興味をそそられたような微笑を浮かべていた。


「さて、私はもう少し調べたいことがあるので、これで失礼いたします。」


「待て、月岡蓮慈……お前にはまだ――」


黒薙の言葉が言い終わる前に、月岡は手に持っていたステッキを振る。宝石から溢れ出た無数のハートの花びらが月岡を包み込むと、彼は姿を消したのであった。




「……っ!!」


黒薙は悔しそうに拳を握りしめながら、呆然とその場に立ち尽くしていた。だが、背後から聞こえた微かな呻き声が、彼女を現実に引き戻す。


「ぐっ……」


黒薙が振り返ると、倒れていた笹平の身体が小さく震えていた。


「……さ、笹平さん!?」


黒薙は慌てて彼のもとへ駆け寄ると、その肩を優しく揺さぶった。その顔は青白く、首元は血で赤く染まるが、まだ辛うじて息はあるようだ。


「しっかりしてください!……すぐに治療を――!?」


気道を確保するためにスーツのボタンを緩めた黒薙は、その首元に残された噛み跡を目にして手を止めてしまう。それは、明らかに異様な傷跡だった。


ナイフで抉られたような傷口はひんやりと冷たく、そこから冷気が広がるようにして笹平の全身が石のように硬くなっていっている。


「これは……」


「ナ、ナクシン・カトリス・ヴェルメル・サル……?」


静まり返った部屋の中に、透き通るような綺麗な声が響いた。驚いた黒薙が顔を上げると、そこには魔法陣から現れた白い髪の少女が立っていた。


少女は瞳を細めて笹平の傍らに膝をつくと、そっと杖を構えた。


『セラミス・ヴァルティナ・“エルドリクス”!』


少女が呪文を唱えるとともに、杖から溢れた暖かな白い光が笹平を包み込む。次第に笹平の顔に生気が戻っていった。


「……良かった。」


笹平の容態が落ち着くのを見て、黒薙は思わず安堵の息を漏らす。普段の冷静さを取り戻した彼女は、目の前にいる少女のことを見つめた。


“不思議な力を持つ異国の少女”、“巨大な化け物”、そして月岡が口にしていた『召喚』という単語。そこから考えられる答えは、一つしかなかった


(この少女も、別の世界からやってきた存在。……“アイテム”なのか)


黒薙は心の中でそう確信するのであった。




笹平を包んでいた光が消えると、白い髪の少女はゆっくりと杖を下した。彼女の視線が黒薙に向けられる。


「カ、カトリス・ヴェルメル・トゥルミナ・サル……」


目の前の少女の呟いた言葉を、黒薙は理解することが出来なかった。


「……フォルメス・リュークス・セリタ?」


少女は続けて何かを言おうとしたが、黒薙の困惑した表情から自分の言葉が通じていないことに気が付いたのか、彼女は大げさなジェスチャーを始めた。


しかし、それは実に分かりにくいジェスチャーだった。必死に何かを伝えようとする彼女の姿を見た黒薙は、スーツから帯状の“認可アイテム”を取り出す。


「カチン。」


黒薙が首元に押し当てると、黒い帯は瞬時にリング状に変形する。まるでチョーカーのように、彼女の首へと装着されたのだ。


数秒の電子音の後、チョーカーが少女の言葉を翻訳し始める。


「わ、私、魔法使い。この人、毒、侵されている。私、魔法使って、それ――」


「……もう、大丈夫です。」


片言の口調で必死に説明する少女を、黒薙は手を上げて軽く制止した。自分の言葉が突然通じたことに、少女は驚いた表情を見せた。


「あ、あれ……?わ、私の言ってたこと、分かってたんですか?」


「いえ、正確には“分かるようになった”というのが正しいでしょうか。」


「……?」


黒薙の淡々とした答えに、少女は不思議そうな顔を浮かべていた。やがて、彼女は慌てた様子で話を始める。


「と、とりあえず、応急処置で石化を遅らせる魔法エルドリクスはかけました。で……でも、早く上級魔法使いに診てもらわないと、手遅れになっちゃいます!」


「……上級魔法使い、でしょうか?」


「は、はい。私、アリスティア魔法学園の生徒ですなんけど……私には無理なんです。早くちゃんとした魔法使いに、石化を解除する魔法をかけてもらわないと!」


焦りを隠しきれていない少女の瞳からは、目の前にいる笹平を救いたいという想いがひしひしと伝わってくるようだった。


だが、少女の話を聞いた黒薙は、暗い表情を浮かべる。


――それは、少女にとっての「上級魔法使い」や「魔法」がこの世界には存在しないことを知っているからだ。


黒薙は目を閉じると、深呼吸を一度だけした後に冷静な声で尋ねる。


「教えていただきありがとうございます。ですが……この人を救う方法は、あなたの言う魔法に頼る他には、もう無いのでしょうか?」


「……え?」


少女は黒薙の言葉を聞いて、何かを考え込みながら首をかしげた


「な、無いわけじゃ、ないですけど……」


「本当ですか!……ぜひ教えてください。」


「コ、コカトリスの血液には石化毒に抵抗する血清が含まれています。完全に石化する前であれば、その血清を使って治療することもできた……はずです。」


少女の話を聞いた黒薙は、少し考えるように目を細めた。


「石化するまで猶予の時間は、どの程度あるのでしょうか?」


「え、えーと、この状態だったら大体2時間……くらいです。」


「2時間……」


残された時間が少ないことを知った黒薙は、すぐに動き出す決意を固めた。彼女は笹平のスーツから車の鍵と“ふだ”の束を取り出すと、素早く自分のスーツにしまう。


(この話が本当なら、組織の本部からの応援を待ってからだと間に合わない。)


自分の万年筆のインクカートリッジにも十分に残量があることを確認すると、彼女は座り込んでいる少女の方へと向き直った。


「あなたの現状をご説明します。落ち着いて聞いてください。」


黒薙は少女に目線をあわせると、少し早口で話し始める。


「ここは、あなたがいた世界とは、別の世界です。おそらく、先ほどの魔法陣のようなものを通ってこちらに来たのでしょう。」


理解が追いつかない少女はポカンとするが、黒薙は待つことなく話を続けた。


「私たちには、あなたに危害を加えるつもりはありません。しばらくすると、ここに大勢の人が来ると思います。その方たちの誘導に従ってください。」


そう言葉を締めた黒薙は、立ち上がると次の行動に移ろうとしていた。それを見て、少女は慌てて彼女を引き留める。


「ま、待ってください!……こ、ここが異世界だってことは分かりましたけど……もしかして、一人でコカトリスを追うつもりなんですか!?」


歩き出した黒薙は、少女の問いに答えようとはしていなかった。


「コカトリスは王国でも討伐隊が編成されるほど凶暴な魔物なんですよ!一人では、絶対に無理です。大人しく他の魔法使いたちに任せるしか――」


「残念ながら、この世界にあなたの言う“魔法”も“魔法使い”もいません。」


少女の叫びを遮るように、黒薙が静かに口を開いた。その言葉には彼女の強い意思が宿っているようにも感じられ、それを聞いた少女は思わず押し黙ってしまう。


「……私がやるしかないのです。」


そう言うと、黒薙は再び前を向く。歩き出した彼女の背中は、強い言葉とは裏腹に不思議と弱弱しく、そして危なげに見えた。


――彼女の背中を眺めていた少女は、思わず声をかけてしまう。


「じゃ、じゃあ……私も行きます。」


「……え?」


驚いた黒薙は後ろを振り返ると、そこには恐怖に震える足で立つ少女がいた。


「あなたは保護対象です。それに、ここはあなたがいた世界とは……」


「それなら、なおさら私の力が必要じゃないですか?」


少女は一歩大きく踏み出して、黒薙の方へと近づく。


「コカトリスのことは、学校の授業でも一応習ったこともあります。戦うことは出来ませんけど、貴方のお力にはなれるはずです。それに、私だって……」


そう言いながら顔を伏せる少女を見て、黒薙は複雑そうな表情を浮かべる。確かに、彼女の助けがなければコカトリスを追うことは難しいだろう。


「……分かりました。ご協力の申し出、ありがとうございます。」


少しの戸惑いを見せた黒薙だったが、すぐに視線を少女へと戻す。


「あの……私、フェリエッタ・ウィリアムズって言います。…お、お名前って――」


「黒薙です。少し、失礼します。」


「え?」


黒薙は簡潔に自分の名前を答えると、フェリエッタの手を握る。そして、彼女をコカトリスの逃げた大穴の近くまで連れてきた。


――ドタドタッ!


彼女たちの背後では、武装した集団の足音が迫っている。爆発処理のために警察の特殊部隊が、二人のいる3階にやってくるのも時間の問題だろう。


「時間がありません。しっかり捕まってください。」


「え!?ちょっ……!」


黒薙はフェリエッタを抱きかかえると、壁に空いた大穴から地上に飛び降りる。


「うあああ!!」


フェリエッタの悲鳴が響き渡る中でも、黒薙は手に持った万年筆を冷静に振るう。


「 “理の介さず綴る筆オートマティスム拘束する鎖シグネチャー”!!」


万年筆から打ち上げたインクの鎖が、壁に突き刺さる。その鎖にぶら下がると、黒薙は衝撃を抑えながら地面に着地した。


そのまま駐車場に止めてあった車へと駆け込むと、黒薙は抱えていたフェリエッタを助手席に押し込む。


「な、何ですか、これ!?」


「説明は後でします。」


助手席に座ったフェリエッタが再び何かを言おうとしたが、その言葉は背後から響く警察の怒声とサイレンの音にかき消される。


「訓練は受けましたが、無免許です。……揺れたらすみません。」


黒薙がアクセルと踏むと、二人を乗せた車は木枯らしの中を駆け抜けるのだった。

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