第3章:第3節|{偕老:かいろう}の二人

「…………どういう……」

 燃え揺らぐランタンと違い、フェリアルの声は小さく燻んでいた。

 外套の男はフードを取ると、あの顔を見せた。黒い肌に赤い瞳の、若い男。ただなにかが、少し違って見えた。

 ヤンドールが口を開いた。

「私の夫です」

「違う」

「生涯を誓った、夜は受けになる私の伴侶です」

「全部違う。ちょっと待て」

「彼が私に、毎晩どんな声で鳴かされ」

「頼む。少し黙れ」

 ヤンドールは大真面目な顔で自分がどれほどベタ惚れなのかを騙ろうとし、外套の男は顔色が見えやすく、慌てるというよりも呆れるという様子で、その言葉を制した。その間、フェリアルは置いてけぼりを喰らっていた。

 シリアスが台無しだった。

 外套の男は、咳払いをする。


「俺はジード。ジード・ジェイ・ファイア。火の国・ブレイアの『シンカン﹅﹅﹅﹅』で、半分人間半分竜人リザードだ」


 …………。

 なるほど。

 それが違う部分か。両顎の輪郭ラインに、鱗状の跡が見えている。前のときは無かった気がするから、隠していたのだろう。なるほどなるほど。

 …………なるほど?

 ……はァ?

 薄々は想定していたものの、ぐにゃりとした疑問が理解不能な思考となって、フェリアルを鈍く、苦悩し始めた。

「はっ? えっ? ……な、なんて……なんっ…………なんで……? な、ど……あ? ……い、えっ? ……えっ?」

 言語中枢が侵食される。

「ちょっと待った」

 元、外套の男——自称「シンカン」であるジード・ジェイ・ファイアは、首から上が暴れ出しそうなフェリアルの眼前で、素早く指を閉じる。

「パニクるのは分かるが、こちらはこの千年くらいでもう見慣れた。疑問もあるだろうがまずここを出るぞ」

 言われるがままの言葉に、脳が従い始める。シンカンの魔法かと一瞬過ぎるも、自分が「従う」という業務に長らく務めていたことを思い出し、ただの職業病だと思考を正す。

 深呼吸を一回。

 それで落ち着ける癖がついている。本当は剣も握りたかったけれど。

「……分かりました。仮にその言葉を信用するとして、ここを出るって、どこに行くのですか?」

 二人は他に説明する間もなく、フェリアルに「下がれ」と合図する。言われた通りにするとヤンドールは、 


逆にアク作動せよタリオス


 と、手から魔法を放ち、牢の鍵を開けた。

 マターナ副団長を拘束しておく檻は、物理的な堅牢度は高いが魔法的な堅牢度はほぼない。ここは地下牢でも魔法師ウィザード用ではなかった。勿論、『特異能力アビリス』用でも。所謂「一般牢」だった。

 あっけなく鍵が開くと、ヤンドールはフェリアルの手にも、同じ魔法をかけた。長らく交差して前に出されていた両手が、自由を取り戻す。

「脱獄が必要な理由は、説明してもらえますか?」

「前に言わなかったか? バーラック・ビー・ベルテンの部屋を調べるぞ」





 地下牢の入り口で、門番は寝ていた。

 「寝ていた」というのは穏やかな言い方であり、おそらく「強い衝撃でも喰らった結果、意識を手放していた」という方が的確な形容であった。フェリアルの前を走る二人は、とうに法など無視することを決めていたようだ。まあ……付いて走る自分もそうであるのだが。

 地下牢はその名の通り、城の東側に造られた特殊監視棟の地下にある。棟は四階まで螺旋階段で繋がり、衛兵や警備兵が利用する施設が重なっているため、そこに向かえば牢への出戻りが確定となってしまうだろう。だが、一階を通らなければならず、通り過がる者たちとの戦闘は避けられないものになるのだろうと、フェリアルは持っていた手錠を強く握る。武器になるかもしれないと思って、輪っか状の金属の塊を持ってきていたのだ。

 しかし杞憂だった。

 一階の兵士たちも全て、その辺で熟睡中であった。寝る前に大暴れしたらしく、暖炉の火は消えていたが、壁や床は焦げ跡や煤まみれだった。小傷いっぱいに仲良さげに、積み上がった者たちがいた。

 寝息は聞こえるが、不自然なほど静かだった。

「もう後戻りできないですね」

 フェリアルが言うと、

「する気もないでしょう」

 ヤンドールが言った。ジード・ジェイ・ファイアは、半開きのドアから外を窺うと、ヤンドールに視線でなにかを合図した。

 二人の立ち位置が入れ替わり、手から手へとランタンが渡される。

「グレアットはなにを?」

「魔法探知だ。俺には分からないからな」

「…………なら、私が持ってた報告書の魔力残滓は?」

「彼女に削除してもらった」

「……もしかしてシンカンは、魔法が使えないのですか?」

「最近の子は勉強不足だな。そうだ。シンカンは魔法が使えない」

「それは……しかし、『シンカン』は強大な力を有すると、伝わっています。それは『特異能力アビリス』や古代魔法のような、他のなにか——」

 これも聴き慣れているのか、ジードは首を横に振った。

「違う。逆だ」

「逆?」

「——『シンカン』はどれほど魔法の才があろうと強大な『特異能力アビリス』を持っていようと、その全ては関係無い。『シンカン』に選ばれた時点で、其の者はあらゆる能力を失くす。其の身に残るは、神の力の一端である『神秘しんぴ』だけになる。遺されたのは、それだけに」

 その言い振りは少し遠く。

 探知が終わったらしく、ヤンドールが二人を見る。

「大丈夫です。追跡や罠は特にありません」





 ベルテン卿の部屋の前には、今も警備兵がいる。

 入る手段は二つ。

 一、正面突破で警備兵を倒す。できるだろうが、騒ぎになると面倒だ。

 二、フェリアルが侵入のために通った外から入る。これは鍵が空いている前提での話であり、窓を叩き割れば音がする。騒ぎになると面倒だ。

「いえ。窓を割るのではなく、私が魔法で開ければ良いのです」

 基本腕っぷし派のフェリアルだけではなく、今回は魔法師ウィザードに自称「シンカン」まで居た。問題は問題じゃなくなった。

 ということで、真夜中に連絡通路からバルコニーを4つ飛んで、3人はベルテン卿の部屋に着いた。

「ついでに言うと、マターナ副団長が侵入するかと思って、この窓の鍵を開けておいたのは私です。私の目に狂いはなかったですね」

 ヤンドールは窓越しに、鍵のある部分を触れる。

逆にアク作動せよタリオス

 錠が外れた。

 3人は中へ。

 勿論誰もいない。

 暗闇が濃かったが、ジードはすぐ外套の内側からランタンを取り出し、部屋の中を照らす。

 フェリアルとヤンドールは幾度目かの訪問だったが、ジードは初めての訪問だったらしい。よくよく周囲を見渡し、木枠の台車を見て「……やはりな」と呟いた。

「なにがですか?」

 ジードはフェリアルに向く。

「君を味方につけた理由は幾つかあるが、目的はこの部屋に入ることだった。先に言っておくが、バーラック・ビー・ベルテンと俺には接点がない。俺はこの部屋の主人に関して、顔一つ知らないんだ」

「それで……?」

「だが、あの日……あの『白い光線』が発生した日だ。俺はこの場所との繋がり﹅﹅﹅を感じた。俺だけじゃない。全ての『シンカン』が——大陸中に散らばっていた、全ての『神の遣い』たちが、その現象を感覚で知った。こんなことは初めてだった。だから俺はすぐ、元々知り合いだったヤンドールと接触し、その状況と状態を話した。それで誰かの協力をと思い、権限のある君を巻き込んでしまった、というわけだ。全ての目的は、万全な守りの城に侵入し、この部屋で確認する﹅﹅﹅﹅こと。だからそれとなく、君に『シンカン』について調べさせた。敵対者が君に近い立場で、しかも予想外に手腕が良かったこと、そして俺たちのやり方が遠回りだったのは認めるが、結局こうなってしまった。なるべく法に基づいて動くために、と思っていたのだが……」

 ヤンドールが言葉を継ぐ。

「私は昔、初心な乙女でしたが、身も心もジードに食べられましたから……」

 両手で自分の身体を抱き締めるヤンドール。その表情は、至って真面目に。

「従う他ありませんでした。うぅ……」

「気にするな。無視して良い」

「ええ。なんとなく分かってきました。続きを」

 ヤンドールは「穢された乙女モード」から、直立に戻る。

 ジードは台車を見下ろす。睨んでいるようだ。

「俺には魔力の残滓が分からない。だが、『神秘﹅﹅の痕跡なら分かる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅……」

 フェリアルは、疑いを以ってジードを見る。交錯した視線は、数刻前にフェリアルが向けたのと同じものだった。

「たとえ数日前のものでも」

 ただ違うのは、その表情を浮かべているのが、自称でも「神の遣い」であるということだった。


ここに居たのは﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅シンカン﹅﹅﹅﹅


 はっきりと、ジードは告げた。


「そしてこの﹅﹅神秘﹅﹅——見たことがない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅


「つまり……?」

 ヤンドールが訊く。

 フェリアルは察する。それは正しかったようだ。

 ジードが口にしたその答えは、誰もが予想していなかったものだった。



「——『シンカン﹅﹅﹅﹅創られた﹅﹅﹅﹅…………?」





 残りの二人は互いに見合うと、フェリアルはジードに声をかけた。

「……『創られた﹅﹅﹅﹅』? 聞きたいことがいっぱい生まれたのですが、まず『シンカン』って、創れるのですか?」

 答えは同時に返ってきた。

「無理だ」

「無理でしょう」

 先に続けたのは、魔法師ウィザードの方。

「人間そのものを創ることさえ、魔法では不可能です。これは、発見されていない原理とかではなく、この世界がそういう風に、絶対的なる法則に基づいて、のことです。『禁忌』とかではなく、あくまで『不可能』なのです。だから、その側面の一つを、『魔』というのです」

 自称「シンカン」も続ける。

「そもそも『創り方﹅﹅﹅』が存在しない。俺たちには寿命の概念が無い。全てのシンカンは死んだらその時点で、ふさわしき別の者が神に選ばれる。『シンカン』は神に選ばれる。死んで継承し、死んで継承し、を繰り返してきた。それが『シンカン』だ。シンカルンは別だが、他の国の『シンカン』たちはまだ生きている。これ以上生まれる必要が無い」

 フェリアルは口を挟む。

「シンカルンが、神にとして認められた、とかは?」

 ジードは首を振る。

「シンカルンには『神』がいない。極聖大資源オーパーツもなければ、『シンカン』が必要だという判断をする理由も無い。あっても他の『シンカン』たちで対処できるのが、この大陸のこの世の常だった。たとえ市民が一人も知らずとも、俺たちはそうやってこの数百年を送ってきている。それなのに、神が『遣い』である俺たちにそんな重要なことを黙っている理由が無い。俺たち『シンカン』は永い付き合いだ。神同士とも『シンカン』同士ともだ。色々あって、互いに気配や感覚で繋がっている。新たな『シンカン』が生まれるとなれば流石に分かるだろうし、そもそもシンカルンは神に認められることはない。絶対に違う者の、なにかの別の意図が介入している」

「それは……ベルテン卿とか?」

「あり得るが、ヤンドールの話では消えたのか消されたのかは、分かっていないんだろう? そいつはそれほど優秀な魔法師ウィザードだったのか? というより、優秀でも別の種族の別の個体を『創り出す』なんて、不可能だろう」

 この部屋唯一の魔法師ウィザードも、台車に触れながら言う。

「しかし、この部屋はともかくとして、実際『白い光線』に魔法の痕跡はありませんでした。もし優秀な魔法師ウィザードであるのなら、それもやはり妙な話です」


 ガタッ。


 3人は静かにしていたつもりだったが、ドア越しから、なにかが動く音がした。

 …………。

 誰も動かず、耳を澄ませる。

 ————。たまたま、だったようだ。

「確認はした。もう行くぞ」

 囁き声で、ジードは開けっ放しの窓から、軽々とバルコニーへ出た。フェリアルもヤンドールも続き、ゆっくりと音を立てずに、窓を閉める。

 ヤンドールが開いている鍵に向かって、「逆にアク作動せよタリオス」を施す。ジードから順にバルコニーを飛び、3人は連絡通路に出た。そのまま近くの闇に紛れる。

「とにかく、取り返しがつかないことになる前に、あいつらと……」



「——聞こうか、魔法師ウィザードグレアット?」



 最初に気付いたのは、ジードだった。素早くフードを被る。

 風の無い夜の更けに、鋭い金属音が響いた。

「『犯人は現場に戻る』——この言葉は、君の『保管魔法典アカシック』には書いていないのか?」

 現れたのは、ちょうど3人。

 真ん中に立つ、フェリアルのよく知った声が、静かに言う。

「優秀な副官を連れて行かれるのは、非常に困るんだよ……魔法師ウィザードグレアット」

 剣を抜いた男が3人。

「できれば、魔法師団の不祥事ということにしたい。だから後ろの二人は、どうか大人しく動かないでいてくれ」

 月明かりが悍ましくも、一歩前に出たダクード・ディー・べルッツの顔を照らした。

 フェリアルたち3人の中で、その顔が任務中であり、その顔が団長の強さだと知る者は、フェリアルだけだった。

 第二騎士団長のカインヅワースでもなく。

 第三騎士団長のゼストリアスでもなく。

 フェリアル・エフ・マターナが唯一、剣の腕で叶わなかった騎士団長は、ダクード・ディー・べルッツ、ただ一人だけだった。


夜風よペルウィ奏でルド——」


 掌を向けたヤンドールだったが。

 暗い夜でも見えるほどの月に翳っていた濃い陰が、連絡通路の四方から波打ち、3人の騎士たちに迫る——はずが、ジードが「逃げるぞ」と言った瞬間には、銀色の細長い先端が、その魔法師ウィザードの掌に、真っ直ぐに突き刺さっていた。

 ヤンドールの左腕は、真っ直ぐ伸ばしたまま保たれていた。鋭利な痛みが強く、これ以上動かせば自分が耐え切れないと分かっていた。

 フェリアルもジードも、動いてはいなかった。痙攣し始めた掌の越しに、べルッツ団長とヤンドールが睨み合う。

「……っぅ…………。……はなしを、聞いて、もらえませんか……?」

 苦悶に耐えるヤンドールに、べルッツは冷たく、言葉を切るように言う。

「特殊監視棟で負傷した警備兵を見た。荒れ果てたあの惨状は、マターナ第一副団長の手際ではない」

「べルッツ団長」

 フェリアルが口を出そうとしたが。

「そうだ。やったのは俺だ」

 ジードが割って入った。団長は謎のフードを被った外套の男に、首を傾げた。

「……君は誰だ?」

 ジードは、外套の内側からあのランタンを取り出し、小さく揺らぐ炎が点いたそれを、べルッツ団長の足もとに投げ付けた。

 僅かな油が火種を広げ、睨む二人を互いに後退させる。

 連絡通路の床を分断するように、横一線に広がった炎。騎士にとっても魔法師ウィザードにとってもただの火なら大した脅威じゃないが、その炎は壁となるように、溢れた油の量からは考えられないほど、間欠泉みたく勢い良く噴き上がり、互いを隔てる壁となった。

 見ていただけのフェリアルの肌が、その炎の分厚さを感じる。

 フェリアルは横を見たが、推察するに事の発端者であろう者の顔は、フードに隠れて見えなかった。

 その者は言った。

「行くぞ」

 轟々と広がった炎の壁は、真夜中では特に目立つ。騒ぎが報られるのも時間の問題だった。フェリアルとヤンドールはジードについて城の中へ。連絡通路の角を曲がる際、フェリアルは炎の壁を振り返った。

 その勢いは止まっていなかった。

「夫なら、妻を守るのは当然のことですね」

 腕を押さえたヤンドールが、痛みを抑え、強がるよう言った。

 もしあの炎が、本当にジードの手際なのであれば、フェリアルには確かに、他称の「夫」は、「シンカン」であるかもしれないと思えた。

 だが派手に立ち回ってしまった所為で、それを言及するほどの余裕の時間はまだとれそうになかった。



 地下道についてはよくは知らない。フェリアルは、出入りしたことがない。しかし、ヤンドールは知っていた。

「そこを左に。その下の方です」

 3人は城から出て、城壁付近のかなり奥まった場所にある、石造りの小屋に着いた。小さな鉄柵に囲まれた石の蓋を、3人で懸命に持ち上げて開けた。あまり信用できなさそうなほど古い、質素な梯子が下へ続いている。

 鉄柵自体は、フェリアルは遠目から見たことがあった。だが、地下への入り口だとは思わなかった。てっきり、図書室とか厨房とか、一部地下に食い込んでいる場所に、出入り口があるかと勝手に思い込んでいた。

 ジードが降りると、腕を痛めているヤンドールが先に。フェリアルは梯子を掴むと、そういえば自分も腕を切っていたんだと思い出す。流血はとっくに止まっていたが、手当てはしていない。気持ち傷口が開かないように、慎重な動きで降りる。

 仄暗い闇の底に立つと、ヤンドールが魔法を放った。

瞬きよりアーサバ発火せよクウェールテ

 ヤンドールの掌に灯った、一瞬の火種。ジードがそれを、掻っ攫うように手を翳して、火種はその手につられるよう、3人の間で弧を描いた。そのままジードの手に収まり、心無しか……いや、実際に肥大化した炎は、下水の臭いの充満する地下道のを、揺らぎながら照らす。

「……本当に、『シンカン』なのですね」

 フェリアルが疑いを口にすると、

「面白いだろ。魔法じゃこうはいかない」

 ジードは焚き火のように燃える手の中の炎をフェリアルに見せる。揺らぐ橙色の炎は、二人の顔の間で伸びると、細く小さな円を描いた。

「行きますよ。時間は少ないですから」

 ヤンドールが、地下道の先を示す。

 灯りを持ったジードが先に。フェリアルも続こうとしたが、ヤンドールに首根っこを掴まれ、そのまま壁に背中を着かされた。

「なっ……んでしょう……?」

 ヤンドールの眼鏡が、フェリアルの鼻先に接近する。

「……私は嫉妬深いので、夫との距離は考えてください。場合によっては、辱め程度では済まないことになります。私は、男だろうと女だろうと、オスだろうとメスだろうと、やろうと思えば——」

「オイコラ」

「はふぅんぅっ!?」

 ヤンドールの顳顬こめかみに、ジードの指先が直角に突かれた。眼鏡とフレームの隙間を狙った、的確な手刀による「突き」であった。

「面倒なことばっか言うな。気にするなよ、マターナ副団長」

「はい……じゃなくて。 それ、なんでしょう?」

 闇の中で円形に流れ揺らぐ炎が、ヤンドールの顔を陽炎のように揺らめいて照らす。突かれた顳顬こめかみからは、黒い影が伸びていた。暗闇だから、見間違いかと思ったが、影にしては艶があったし、しかも両方の顳顬こめかみから、明らかに頭上へ向かって、伸びていた。

 鋭利なツノのように。

「あラッ?」

 自覚があったらしく、ヤンドールは眼鏡の鼻あてを押すと、目を閉じる。

 影は「ニュルり」と顳顬こめかみに引っ込み、いつもの理知的で真面目な、『人間』の顔立ちに戻った。

「……いやいや。なかったことにはなりません。説明を」

 シンカンと魔法師ウィザードは目を合わせると、シンカンの方が、

「ここまで来たら、言っていいぞ」

 と、なにかの許可を与えた。しかし、

「私は夫を紹介しました。今度は貴方が妻を紹介する番では?」

 魔法師ウィザードは異常に正常であった。シンカンは溜め息を吐くと、フェリアルに向く。

「顔が近いですよ」

 魔法師ウィザードはうるさかった。二人は一歩ずつ離れた。

「まず俺は夫じゃないし、ヤンドールは妻じゃない。彼女は『サキュバス』だ」

「さ——『サキュバス』? それはなんですか?」

「異界の種族の一人だ。『アリウス』で開いた別世界のゲートが……待った。流石に『アリウス』は知ってるよな?」

「ええ。シンカルンの南西側にある、『光の国・アリウス』ですよね? 詳細は伏せられているけれど、確か……異界と繋がる『ゲート』を中心に、国土が広がっていて、その『ゲート』から先にある別の世界が、通称『異界いかいアリウス』と呼ばれている……といった感じでした、よね……?」

「まあ、大体そんな感じだ。そして30年くらい前のある日、その『ゲート』が一時的に、混線した﹅﹅﹅﹅。それに巻き込まれてしまった異界からの逸れ者が、ヤンドールだ。ちなみに、成人するまでは俺が保護者として育てていた」

「そのサ……サキュ、バス? というのは、どのような種族なのですか?」

「残念ながらウェルド大陸には、サキュバスはヤンドール一人しかいないからな。詳細は知らないが、魔法に対する適性が高いことと、やたら色欲に関して反応する傾向が強いのと、他人の精神に微弱ながら、潜在的な麻痺をかけられる、くらいしか分かっていない」

「……そんな、凄い種族だったとは」

 ヤンドールは至って真面目な顔をしていたが、フェリアルから見て分かるほど、それはこそばゆさに対して、平静を保っていようとしているだけだった。

「まあ珍しいが、一種の『特異能力アビリス』だと思ってれば良い。ついでに夜は夜目よめが利くようになるんだから、先に行け」

「ええっ!? よめになるっ!? もう……プロポーズなら——」

「これでこの大陸唯一なんだから、ガッカリだよな」

「……ガッカリですね」

「ちょっと待ってください。私の扱いが酷くないですか?」

「そういえば、事件現場で脱いでましたね。あれも関係が?」

「あれは仕方なかったんです。私は血筋上、脱げば脱ぐほど色々と強くなれます。城の内部になんとなく敵意を感じるようになったので、一時的にでも一人になれる場所で、裸になっておく必要があったんです」

「……不思議なシステムですね……」

 フェリアルが言葉を切ると、

「最近は、本人の性癖﹅﹅だと思ってる」

 困った声でジードも同調した。そう……これは「同調」であった。

「変な二人組に捕まったと思え」

 ジードに言われるまま、フェリアルは頷いた。

「そうですね。とても愉快なお二人が、私を拉致して兵や騎士のことごとくを、圧倒したと」

 神の遣いであるシンカンと、異界から来た唯一の種族のサキュバスに、ただの人間は言う。

「まだまだ私は、未熟者みたいです」


 そのとき、先の奥から、「カツーン」と音が響いてきた。

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