SHINKAN(Ⅰ)—神の国—
裏表日影
第1章|Extravaganza(エクストラヴァガンザ)
第1章:第1節|キカイ的な彼女たち
フェリアルは教えを守っていたからこそ、風上に立つことはしなかった。しかしそれは、必然的に祖母も分かっていることだった故、敢えて風下にいることもしなかった。
互いに水平。
互いに平坦。
互いに対等の立地的条件下にて、苔色の地面の匂いに紛れられるよう、濃い茂みの越しに這い
対等? 対等だったことはない。
五親等ほど遡ればエルフの血が混じっているフェリアルは、全盛期よりはるかに縮み、すっかり腰の曲がってしまった、今の祖母の倍ほど背が高い。それは人間の中でもかなり高い方だった。赤毛に影響されたのであろう色のそばかすは、祖母曰く幼少期からあったらしく、今は亡き母親は、「
細身だが強靭な身体と、その真っ直ぐさを象徴するように腰まで長く伸ばした赤毛。髪は長く保ちつつも、寝るとき以外、常に首元で一つに束ねている。これは祖母も同様に、というか祖母からもその先代先々代からも継承した、家訓のようなものであった。早い朝の空を眺める立ち姿の祖母の頭は、白く染まった今でもフェリアルと同じように、首のところで一つに結ばれている。
フェリアルは手に、簡素な木剣を——フェリアルは左利きだったため、左手に握り締め、身を潜めたまま、ただただ
呼吸は浅く、最小限に。
右の掌は地面につけたまま、微細な振動も触覚で分かるように。
視線は向けるが、睨んではいけない。強い意志や気配を、悟らせてはならない。視覚で分かる情報だけに、踊らされてはならない。
はたから見れば通報ものだ。
木剣を持った丈の長いうら若き乙女が、早朝の空をのんびり眺めている老婆を、一心に狙っているのだから。
だがここは森の中であり、二人以外に知能生物の姿は見えない。先述の通り時間も浅く、一見杖代わりに見えてしまうも、フェリアルと同じ木剣が、老婆の手にも軽く握られてあった。
さらに言えば、老婆もうら若き女もかなりの軽装だ。寝巻きに等しい薄手の上下に、靴すら履いていない素足。寧ろ、賊が狙うのなら都合が良い、といった具合の様であったが、もしも本当に狙うのであれば、その考えは非常に浅はかだった。
老婆が、フェリアルに背を向けた。
ワザとであろうとなかろうと、関係ない。ここが
見られていないときの鉄則は、対象が相手に、見られていないことに気付く前に動くこと。
そのひと瞬きで、全てが決する。
フェリアルは音を立てず地面を跳び、茂みを越え、着地と同時に前転。その流れる所作は枝葉の揺れる小さな囁きすらも立てず、起き上がりながらフェリアルは真っ直ぐ、木剣を祖母に突き出した。動作は素早く鋭く。老婆に向ける敵意にしては過剰だと思わせるほどの、
が、剣先は
「甘ったねン」
が、これも空振り。大きく振り返ってしまった所為で、真正面からの刺突(しかも高速)には対応し切れず、弧を描いた木剣は虚しく、またも空振ってしまう。
直後、胸を鋒で軽く押されただけにも関わらず、フェリアルはしっかりと尻餅をつかされてしまった。それでもフェリアルは、左手の木剣を手の中で回そうとしたが、怯んで見えてなかったそのひと瞬きの間に、首元には木剣が当てられていた。
「ケッケッケ。甘い甘いねン。ケッケッケ」
肩越しに聞こえる、笑い声。
フェリアルは、木剣を放った。自分の体を離れた剣は、地面を跳ねて、茂みに突き刺さる。
降参の合図だ。
ケラケラと笑う祖母は木剣を孫の柔肌から離すと、腰紐との隙間に納めた。その動きはよく慣れた、洗練されたものだった。
差し出された手を借りて立ち上がった孫は、その手の主を見下ろす。自身と祖母の身長差をまじまじと見比べ、改めて勝負の結果を疑った。否。疑うのは別に、これが初めてではなかった。見上げる視線は、そんな考えを見透かしたようで。
「朝ご飯にしようかねン」
「……はい。おばあちゃん」
昔聞いた教えが、頭の中でフラッシュバックする。
『相手を見かけで判断しちゃいけないよン。特にあんた、たっぱ有るからねン』
自分の手を見る。剣を握っていた利き手。掌は多少土に汚れているが、血色の良い、色の白さだ。指は細長い割に、しっかりとした健康的な強さがある。
裏返す。手の甲には、中指への筋に合わせて、一本の剣の
今日も、負けた。
屈辱ではない。しかし悔しくはある。
自身への戒めのため、深呼吸をして、その手の甲の筋を撫でた。
祖母との敗戦記録は、未だ破られたことがない。
大海に囲まれた、広大で多様な地域特性を有するウェルド大陸は、恩恵の高い神聖な環境資源——『
古くは数千年前から及んでいた数々の大陸内紛争も、シンカルン王国が発展してからはその数を極端に減少させていき、現在はそれぞれ国の都合はあれど、国家間では安定した関係性を
人間の国、シンカルン。
今はもう神を必要としない、シンカルン。
神の国・シンカルン王国。
その王城の、とある一室にて。
見上げるほど高いドアが開き、入ってきたのは一人の男。
若くはないが年老いてもいない。短い金髪は内側を刈り込んでおり、整った顔のその表情は堅牢だった。固く険しく、難題を抱えているように。
廊下の途中で脱いだ銀色のローブを椅子に掛け、手近にあった小さな革の手提げ鞄を掴むと、指を三回鳴らし、放った。
鞄は二、三度跳ねるとそのまま床に寝た。と、がま口を大きく開き跳ね起きて、自立する。
呼吸するようにパクパクと開閉するがま口に、男は大きな本棚から引き抜いた本を次々と放っていく。鞄は球技の練習であるかのように、宙を舞う本を追いかけては、床に着く前に呑み込んでいった。さらに男は本棚から机へ。指を二回鳴らすと鞄は、床を転がって跳ね、男のもとに。男はその取っ手を掴み、出しっぱなしにしていた紙束や書類を次々と押し込んでいった。
途中、袖が試験管を倒し、ピンク色の液体が床に流れたが、男は無視した。その液体が落ちていた紙に侵食し——「ボンッ!」と小さく爆ぜても、無視を続ける。
『——慌てていますね』
部屋の中に、声が響いた。
カーテンは閉め切っており、隙間から薄く漏れる、朝の光だけが光源であったこの部屋は、典型的な
「
と唱え、小さな灯火を点けた。そのまま暖炉の中で冷え切っていた炭に向かって灯火を放ち、暗かった部屋が轟々とした橙色に照らされる。
『——どこかへ、行かれるのですか?』
再び、声がした。
二重にしたような女の声だった。
この部屋には個性的な造形の道具が多々あるが、その中で最も異質な様子で在ったのが、声を発したそれであった。
部屋の中央に置かれた、白い
そう表現するのが正しいであろう、不自然なほど真っ白の、卵形の塊。直径一メートルほどの
その繭が呼吸するように、内側に宿る白い光を脈動させ、言葉を発したのだ。
本を掴もうと伸ばした男。その手が、近くにあった試験管を倒した。青色の液体が溢れ、置いてあった紙束を濡らす————シュー————ボンッ! 紙束が小さく爆ぜたが、またも男は気にもしていなかった。近くに積み上げていた本を上から数冊掴むと、再び床を跳ねていた鞄に向かって、纏めて放る。それが入ったかどうかも見ずに、今度は引き出しを開けると、巻物を鷲掴んだ。
『——どこかへ、行かれるのですか?』
「…………そうだ」
男は言いながら、ついでにと言わんばかりに、近くに積み重ねていた本も数冊、暖炉へと投げた。贄を食らい、炎が大きくなる。
『お戻りは、いつ頃ですか?』
「……戻らない」
『それは——どういうコト、ことでしょう?』
「色々あってな。……
『少々、お待ちく、ダサい——』
男は気にせず、部屋中を荒らし回す作業に戻る。
『——ナ……「なに」か——が、ガガ——ココ……「
「時間を掛けて良い。ゆっくりとしろ」
『——ゲゲ——げ、現象を
男はカーテンを開けると、小窓の一つを開けた。そして、部屋の隅で飼っていた小さな黄色い鳥の入った籠を窓枠に乗せた。
「さよならだ」
飼い慣らされた寝起きの鳥であったが、野生の勘でも働いたのか、すぐに大空へと羽ばたいて行った。
『——おはようござい、マス』
「……今日は晴れてるぞ」
『——お散歩日和、デスね……。……DEATH……DEATHね…………?』
「……落ち着け。オレはもう出る。あとは
『——どれほど
「…………戻らない」
『と、言うと——この部屋には、もう来ない、ということで
「……そうだ。オレが出たら、また
『はい。
閉じた窓から城の中庭が見下ろせた。整えられた芝生が広がっている。まだ早朝で、人の影はない。
男はカーテンを閉めた。
「……長い散歩だ。お前に会うのは最後かもしれない」
『それは悲しいですね。とテモ』
「そうだな。だが、必要なことだ」
『それはそれdemo、とても悲しいです。ワタシは貴方にとって、価値あるモノだったのでショーか?』
「さあな。……だが、愛してるよ」
『ワタシも、貴方を愛しテイます』
男の声は心からの悲恋を含んでいたが、繭から返ってきたのは、相変わらず機械的なものだった。深い溜め息を吐く。
『お疲レデすね。少し、お休みになラレテワ?』
「オレはもう行く。忘れるな——どうか頼むから、最後まで味方でいてくれ」
『はい、モチロンです。ワタシは貴方の味方です。最後マデ……
男は繭に手を触れた。
少し熱を帯び、白く発光している。
「恨むなよ。これはきっと、必要になる」
『はい。————愛しテル。忘れるな。恨むな。でスネ…………ですね……?』
それは——ソレは——と。
繭の光が消えた。
「…………どうした?」
心配の声に返ってきたのは、これまでとは違う声だった。
『貴方は——貴方は、
まるで生物のように、スラスラとした言葉だった。イントネーションも完璧で、部屋の外で誰かが聞いてたら、それは誰かと話していると思われるほど、流暢なものであった。
「……治ったな」
『そのようです。ですが——「なにか」が、まだ残っています。「なにか」——それは、それが「なにか」は、まだ分かりません。脈動し、循環し——まるで、まるで
「…………時間がないか…………」
男は、部屋に入るとき着ていたローブを手に、鞄に向かって指をクイっと示す。がま口鞄は床を跳ね上がり、男の脇に大人しく納まった。
「……三十分だ。三十分後に
『——それは、それはなんの目的、でしょうか?』
「…………お前が、お前らしくあるためだ」
男の口には、躊躇われた言葉だった。
『——よく分かりません』
「分からなくていい。ただ、忘れるな」
『——理解しました。……が、理解できません』
「……どうした?」
「——ア……アー…………。……貴方の事が、理解できません……」
その言葉を聞くと、男はフッと笑った。そう——
「その言葉が、聞きたかった」
聞き届けたかったのだと。
男は部屋を出て行った。
再び暗くなった部屋で、繭は白く光る。
「————貴方の事が——理解できません————」
その声は確かに、悲恋を含んでいるようだった。
フェリアルの朝は早いが、それはフェリアルだけの朝ではない。
ウェルド大陸の十一の国々——シンカルン王国も含め、その国境は曖昧だ。互いの領土の境目が自然環境であるからにして、それを一々管理するのはあまりに面倒であるからだ。環境上例外的な国はあるものの、大半の国は境目の資源に関して、互いに極度に触れることはない。そこに暮らす遊牧民や野生動物のことも考慮し、それはそれで、「暗黙の自由」なのである。
しかしシンカルン王城は、流石に開けっ放しとはいかない。王城に至るまでに二つ、城下町に至るまでに一つ、尊大な城門が構えられている。形は違えど他の国々も、似たようなことはしているはずだ(してなかったら、それはそれですごいことだが、フェリアルはシンカルン国土から出たことがないため、詳細は知らない)。
見た目だけでも——なれば遠くからでも——判断できるほど顔見知りだが、門の警備兵はいつも通り、今日も仕事熱心であった。
「お名前と役職を」
フェリアルは厳格な表情で告げる。
「フェリアル・エフ・マターナ。シンカルン王国第一騎士団の、副団長です」
裏腹に、その内心は満足げだった。
腰から下げた鞘に納められた剣の柄を見せ、そこに刻まれた紋章が、自分の身分の半分を保証しているのを見届ける。その剣は勿論、木剣ではなく真剣であり、フェリアル自身も、騎士団員としての正式な革鎧を着用していた。
そして、左手の甲を——「一本の剣」の
「ハッ——マターナ副団長、お通りを」
「ありがとうございます。お勤めご苦労様です」
「ハッ」
左手を鉤爪のように立て、右肩から左脇まで引く——二人の警備兵と互いに敬礼を交わし、城下町へ入る。その様は副騎士団長らしく、規律正しく優雅であった。
幅は二十メートルもあろうトンネルのような門の下を通り、市場へ出る。
陰から日の下に。
今日は快晴。空は雲一つない。
昼間は人通りで少し埃っぽくなるが、早朝は朝市の準備に出る者たちしか往来に姿はない。と言っても物流が動き出している時間で、多数の人々が行き来しているのだが。
「おはよう、嬢ちゃん!」
「マターナ副団長! 今日も早いねえ」
「あら! 調子どう?」
見習いとして認められ、訓練生となり、入団を許可される。
たったその三段階が、無類の敬意に値する格式となり、その中でも実力と実績を兼ね備えた者は——たとえば騎士団長や副騎士団長は——一目置かれ、尊敬の眼差しを集めることになる。
小さな麻袋に詰められた手土産が、出勤するだけでフェリアルに渡されていく。
賄賂や秘め事の取引などではなく、純然たる市民からの敬愛。
毎朝自分が戒めとなり、保ち続けている誇りを自覚する。
そのために歩いて王城まで出勤する。これも、フェリアルの日課であった。
「フェリアル!」
木組の簡素な屋台から、使い古した前掛けと、豊かな茶髪を頭巾で縛った一人の女が、小走りで向かって来た。見慣れた、いつも通りの笑顔。
「おはよう、チャーグ」
チャーグ・シー・ラント。フェリアルと同い年で、青果屋の幼馴染だ。店の準備中であろうが、すぐ近くまで来た彼女は、その両手にある
「持ってって。こっちも」
ポケットから出すは、
フェリアルは苦笑を浮かべた。
「……また?」
「また! でも聞いて! 今回やっちゃったのはパパ! 持ってくる量間違えたのは向こうの所為だったの。でも、結局もう買っちゃっててさ……。三日ぐらいは頑張ったんだけど、てんでダメ。ウチじゃ捌ききれそうになくて。明日の分もたぶんあるけど、熟しちゃうから今週中に捌きたくてさ」
チャーグ越しに、彼女の父親が見えた。
その強面は自分の失態を照れくさそうに、紛らわすようにフェリアルに会釈を。フェリアルも返す。
「ね? いつも私にうるさいクセして! まあ、てなわけだからさ、できたら帰りも寄ってって! オマケするから! お願い!」
「……わかった。ヴァシーガとペノンにも、声掛けとこうか?」
「やった! 助かる!」
朝から元気なチャーグを見て、フェリアルは微笑ましく思う。
フェリアルの両親は騎士だったが、任務で事故死している。小さい頃はコンプレックスも感じていたが、今は彼女らを護るために生きている。それはフェリアルだからできることだと、入団するときに納得していることだった。
「それはそうと……今日は当直? ずいぶん早くない?」
「そんなことないと思うけど——」
と、チャーグの額に白い点があるのに気付いた。……野菜の汁?
「チャーグ、それ……」
が、
認識と記憶にズレが生じるほど一瞬のことであったが、その白い
フェリアルは、気付いたら建物の壁に叩き付けられていた。膨張した勢いを食らったのだ。地面から弾かれるようにして、列を成して通りを造る、一つの建物の壁に。思いっ切り背中から。
それが目の前に突然現れた、肌で感じて分かるほど、密度の高い白い光線が原因であるというのは、その記憶に認識が追いついて漸く気付いたことであった。
衝撃で肺から空気が全部出た——そんな気がして、慌てて呼吸を思い出す。
それさえも、意識的にできたことなのか無意識でできたことなのか、まるで分からない。
分かっていない。
いつから出ていたのか、脂汗が止まらない。種族としてのエルフは汗をかきにくい生き物だ。フェリアルは人間であるも、その性質はわずかながらあった。
そんなことなど、お構いなしに。
全身を巡る自分の血の流れが分かる。革鎧の下で、心臓の早鐘が加速するのが分かる。しかし、それでも分からない。分かっていなかった。
見えている世界は一変した。
見えてないところまで、急変した。
光線は直線だったが、通りの道を削るようなうねりを見せて、無作法に通過していった。それは通りに合わせてではなく、空の雲間から差し込んだ光のように、傾いた上から来た、なににも従っていない動きだった。
——今日は快晴。空は雲一つない。
護るべき善良な市民たちの悲鳴が、はるか遠くに感じる。かろうじて残っていた騎士道精神は、光線の出所に向けフェリアルの目線を流した。
首が左に。同じように呆然としている民とその先——荘厳に構えられた、シンカルン王城ヘ。
城門を跨いだ遥か先から——王城のどこからか、伸びて来ていた。
それは城を貫いたかもしれない。
それはその先から来たものかもしれない。
城には顔見知りが沢山いる。
そして、今し方目の前にも、いた。
フェリアルが立ち上がると同時に、大きな萎む音と共に、その『白い光線』は消えた。
視線が、向こう側にいた者と交錯する。
幼馴染の——父親。
…………。
……………………チャーグは…………?
————。
互いに、答えは無かった。
そこにあったのは、使い古した前掛けと、解かれた頭巾だけ。
チャーグが着ていた衣類だけが、力無く、煤に汚れた通りの路面に落ちていた。
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