5 Nous ne sommes.(天使のささやき)

5-1 Les Mots Que L'On Ne Dit Pas.(声なき声)

 浮上車は静かにふたりを運んでいた。セリスは車窓から遠くをぼんやりと眺めている。


「なあ、アレックス。最近治安が悪くなったと思わないか。」

ふたりは進行方向を向いて座り、それぞれ窓の外を見ている。絡まない視線。


「それには同意しますね。毎日、不穏な事件ばかり耳にします。」

まだ外を眺めてはいるが、ふたりの手は指を絡めて、きつく結ばれている。


「御神託通りにこの国は動いているはずが、ここの所悪政ばかりだ。こんな事ならまだ無能な三部会に任せた方がましだと思わないか。」

車窓に映る景色は、とりたてて珍しい事は無く、見慣れたものだった。



 セリスはアレックスが選んでくれた、濃紺のイブニングドレスを着て、大人っぽいお洒落をしているというのに、二人の間には艶っぽい話は全く無い。


「セリス、これはあくまでも、あくまでも仮定の話ですが。」

ようやく視線が合うふたり。窓の外の景色は静かに流れていく。


「なんだ。」

セリスは軽く首を傾げる。



「御神託が間違っていたら。」



アレックスの真剣な顔が、セリスの瞳に映る。


「ありえんだろう。それはこの国の根本を否定する事になる。」

バカバカしいと言って、セリスはまた車窓の風景を見る。



「あくまでも仮定の話です。以前、私が話した御神託が私たちに届かなかった事、あれは何者かが自分の都合のいいように御神託を改変しているか、もしくは大元ごと乗っ取っているか。」



再び目が合うふたり。


「それはあまりにも突飛すぎだろう。」

セリスの顰めた眉を、アレックスは軽く小突く。


「それならナナイとの戦いの際に御神託が私たちに届かなかった事の説明もつきます。何者かにとって不都合な私たち12騎士を全滅させて、自分の思うがままの新しい12騎士を誕生させる。私ならこの国を…、この世界を統べる事ができるのならそうしますね。御神託といううわべ上の錦の御旗があるのですから。まあ、私には到底そんな気はありませんね。」

フワッとしたアレックスの穏やかな微笑みは、暖かい陽射しを思い浮かべさせる。


「そうだろうな。あなたにはそんな邪気には縁遠い。この世で最も聖なる存在だから。」

セリスはアレックスに優しく微笑みかける。その笑顔には、全くけんがない。


「それに御神託がどうであれ、この国は行き詰まっています。300年前に集まり、乗った船はもうそれぞれの港に分かれるか、ひとりの国王や貴族、訳のわからないシステムに踊らされる時は終っていい時なのでしょう。」

アレックスの表情とは真逆の辛辣な言葉をセリスは初めて聞いた様な気がしていた。


「あなたは案外過激な事を言うんだな。ところで以前から聞いてみたいと思っていたのだが、アレックスは外に出るときは大体黒い服が多いな、何か意味があるのか。それにその眼鏡はまだ…。」

今日は珍しく眼鏡姿だが、いつも通りの黒っぽいスーツ姿のアレックスをちらりと見る。


「眼鏡に特に意味はありません。服装に合わせただけです。それに毎日、純白の法服ばかり着ていますからね、白いものは少し見飽きているので、真逆の色の服を着たいだけですよ。ほら着きました。さあ、その手を。私の暁の女神。」

あなたは時々クサいセリフを言うと、悪態をつきながらもセリスのそのアメジストのような瞳はきらきらと耀いていた。



 国立第3劇場と銘された金色の文字をセリスは下から眺めた。アレックスの言う話の言い分もわかる。間違いなく、この国は末期を迎えている。弩級の魔族出現の増加だけでなく、魔物の横行。耳にするのも恐ろしい事件の続発に、増税に次ぐ増税…。皆不満に思い、不安に怯え、負の感情に満ち溢れつつある。完璧と思っていたものに誤りがあるのだろうか。セリスは慣れないハイヒールを履いて、アレックスのエスコートに従っていった。



──その夜、セリスはまた悪夢を見た。


「先日は楽しめたかい、セリス。ナナイが君を想い恋い焦がれるあまり魔族化した事を。あれは実に愉快だった。」


四方を覆う黒い闇の中で、セリスの目の前にいるのは頭の取れたビスク・ドールが、小脇に自身の顔を抱えていて喋るという悪趣味な演出がなされていた。


「何が愉快だ。」


セリスは星断剣を召喚し、鋭い目つきで抜刀体制をとる。


「自分の支配欲に負けて、あいつは自滅したんだ。強い歪んだ愛情を持った者が、堕ちていく様は愉快としかいえないだろう。」



小脇に抱えられた顔から血の涙を流し、歪んだ笑顔を見せるその人形に、セリスは本能的に嫌悪感を覚えた。


「貴様が全てを仕組んだのか。」

セリスの声は闇にかき消されていく。


「私は何もしていない、些細なきっかけを与えただけだ。さあ、残りあと一体となった。このセカイが沈むのが先か、真実にたどり着くのが先か。私はどちらでも構わない。そして君のことも興味ない。を倒しさえすれば…。」

音を立てて砕けたビスク・ドールは、黒い闇の中に沈んで行った──



 気持ちの悪い夢から醒めたセリスは、キッチンに冷たい水を取りに来ていた。月の光も差さない暗い夜。ふらっと外に出ると、ひんやりとした風が心地いい。空を仰ぐと一面の星空が広がっていた。

 西の方角に明るい星が見える。明滅していないところから恒星ではなく、何かの惑星だろう。その星の方角には最愛の人がいる。あの人は今夜も星を見たり、読書をしているのだろうかと、セリスは思案を巡らす。そばにずっといたいという欲求はもちろんある。だが、現状それは叶わないことはよくわかっている。


 セリスは溜息をついて、左薬指の指輪をくるりと一周させると、部屋へと戻っていった。




──その翌日、セリスは奇妙な夢を見た。

「前にも一度会ったね、セリス。私はルードヴィヒ・ド・チェンチ。レインの兄のルーイだ。」

そう話しかけてきた人は、レインと同じ顔をしているが人懐っこい笑顔を浮かべ、明るいオレンジ色の長い髪をなびかせていた。


「ヴィーチェの中にいる、あの引きこもりか。」

セリスの言葉に、ルーイは苦笑いをするしかなかった。


「本当に辛辣だな。ヴィーチェの記憶は共有しているから、君がどんな人物か知ってはいたけれど。」

ルーイはいたずらっぽく笑う。同じ顔なのにレインの生真面目な態度とは違うことが、余計に不思議さを増していた。


「で、何用だ。私は今夜こそ、深く眠りたいのだが。」

セリスはこの状況が夢であることを理解していた。


「君の睡眠を妨げてしまった事については謝るよ。用件は、何故私がここに閉じ込められたか、その理由を明らかにしてほしいんた。」

ルーイは至極真面目にセリスに懇願していた。


「ヴィーチェといい貴様といい、すぐに無理難題をふっかけてくる。私とて忙しいのだ。そのくらい中からヴィーチェをコントロールするなりなんなりして、自分で調べろ。」


セリスは夢の中でも悪態をつく。


──そう、これは自分自身の夢の中だ。自分が舵をとる。



「それはできない。」

ルーイは悲しそうな顔でセリスを見つめる。



「何故だ。」

セリスはヴィーチェが、ルーイが創り出した実の姉の幻想の実体化だと推測していた。姉が亡くなったという事実を受け入れたくなくて、ヴィーチェという殻を創り出し、その術の中に引き込まれて抜け出せなくなっていると推察していた。まるで、自分で創り出した安全な殻に守られて、羽化できないでいる雛鳥のように。


「あれはひとりの独立した人間だ。私でありたい反面、私ではない。」

セリスの仮説を否定する言葉を告げ、ルーイの姿は霧散していった──。


 不思議な夢から醒めたセリスは、昨日と同様にキッチンに冷たい水を取りに来ていた。頼りない月の光が差す、薄暗い夜。またふらっと外に出ると、ひんやりとした風が今夜も心地良い。空を仰ぐと一面の星空が広がっている。今夜も西の方角に明るい星が見えた。最愛の人がいるその方角を見つめる。流れ星が一筋の光を放ち消えていった。セリスはこんな遅い時間だが、アレックスの元へ行こうかと悩む。多分、アレックスはそれを拒まない事を、セリスは誰よりも知っていた。セリスは昨日と同様に左薬指の指輪をくるりと一周させると、何事もなかったかのように部屋へと戻っていった。




 翌々日、セリスとアレックスは公務のため、王宮に来ていた。気分転換にこじつけて、ふたりは中庭を散策する。国王の権威を示す王宮は中庭であっても、恐ろしいまでに花の一輪までも、整然とされていた。

 セリスはオレンジの色味を帯びた黄色いバラを指差して、アレックスに質問する。


「あれはラ・ドルチェ・ヴィータですね。いまの季節に咲くあのバラの色からするとそうだと思います。」

アレックスはいたずらに吹く風に髪をなびかせている。


「さすが、バラには詳しいな。」

セリスは冬の訪れを含んだ風に髪が舞うのを手で押さえている。


「ええ、始終バラに囲まれた生活をしていますから。」

アレックスは優しくセリスに微笑みかける。



「ラ・ドルチェ・ヴィータ甘い生活か…。」



セリスはアレックスから目を逸らすと、どこまでも青く、澄み切った空を見上げた。

「あなたには無理をさせていますね…。」

風に乗ってバラの芳香が、鼻をくすぐる。


「想いが通じているなら、それでいい。これ以上は高望みすぎる。でも、私は欲張りだから…。」

不器用なセリスの作り笑いが、アレックスの心の中の罪悪感を膨らませる。



──胸が痛い。


「…セリス、オレンジ色のバラの花言葉を知っていますか。」

アレックスの言葉は哀愁が漂い、いつもより深みを帯びている。

「私が知るとでも。」

セリスはいつもの様に悪態をつくと、思わずふたりの間に笑いが起きる。



「聞いた私が間違っていました。花言葉は絆、そして熱望です。いつか…、それではダメですね、期限を決めましょう。1年以内に共に暮らす。私は、やっと繋いだ絆は離しません。」

アレックスの緋色の瞳は、セリスを優しく射貫く。



「私も…。」



ようやく見ることができたセリスの自然な、柔らかい笑顔にアレックスは少しだけ安堵した。風がそよいでも、バラたちは花びら一枚も落とすことはない。


「さて、仕事を済ませて、国王陛下のお茶会に行くとでもしますか。あまり気は乗りませんが。」

アレックスは長い溜息をつくと、大仰に肩をすくめて、やれやれと呟く。

「全く持って同意する。」

セリスは、少しでもアレックスと同じ時間を過ごせるならどこでもいいのだと、自分に言いきかせる様に小さく呟いた。




「セリス、今年でいくつになった。」


3人は王宮内の一室でお茶を飲んでいた。出された紅茶がほろ苦い。セリスは余程つまらないのか、何度も窓の外を眺めている。


「20歳を少し超えましたが、何か問題でも。」

あからさまに悪態をついて、セリスは紅茶を一口含む。


「いや、エドガーが結婚したと聞いてな。セリスも年頃だ、誰かいい人はいてもおかしくはないと思ってな。」

アルヴィスの問いかけに、セリスは心のなかで舌打ちをしながらも、何事もなかったかのように努めて冷静に振る舞う。


「つまらない質問ですね。いないと言ったらどうするのです。」


いつものアルヴィスの持って回った言い方に、セリスは本気で辟易していた。


「私の妃にならぬか。お前の手の中には、最高の剣技、最高の術が既にある。それに加えて最高の地位を欲しいとは思わぬか。」

国王であるアルヴィスが単なる思いつきでその言葉を発したとは思えないが、アレックスは飲んでいた紅茶が変なところに入ったと大仰に咳をしながらも、アルヴィスのその真意を計りかねていた。



「地位など興味ありません。そして私の恋愛対象として陛下の存在は微塵も入りません。陛下は私の魔法の力と、剣聖の名を欲しているだけに過ぎない。即ち、そこには損得しか存在しないつまらない生活が待っているだけでしょう。そもそも私には既に、国家予算以上の財産がありますし、剣聖という地位も名誉もあります。もし私がもっと貪欲に、力を得たいと思うなら、巧妙にこの国を根本から覆し、新たな制度の国を創ります。まあ、私はそこまで暇ではないですから。そんなことより明後日の議会閉会で、しばらくは護衛官の任を離れます。私にも予定はありますし、研究にも専念したいので。」



セリスは、最後の一口を飲み干すと、席から立ち上がった。


「それくらい構わぬ。Fräuleinお嬢さん.」


アルヴィスはセリスの態度を予想していたのか、不敵な笑みを浮かべていた。




 セリスの後をアレックスは追ってきた。歩幅の違いであっという間に追いつく。王宮の長い廊下にはふたりの足音しか聞こえない。

陛下アレは全く何を考えているのか。」

アレックスは、セリスの肩に手を置くと、まあまあと言いながら落ち着かせようとしている。

「さっきまで嫌いと思っていた者が、虫唾が走る者に変わっただけだ。」

セリスは無表情で冷酷に言い放つ。



 虫唾が走る。──地位でも名誉でも財産でもなく愛してくれるアレックスとは真逆の感情。ただの強烈な征服欲をアルヴィスに感じていた。そう、あのシオンとの戦いの時に感じた、まるでコールタールのような重くネットリとした身に絡んでくるような気持ち悪さを、セリスはアルヴィスに持ってしまうようになる。



「リンデンバウム卿。」

 謁見の間に続く長い廊下で、その人はセリスに声をかけてきた。振り向くと、白い直衣を着た背の高い男性が、柔らかい笑顔を見せながら、セリスに近づいてきた。


「あなたは確かナナイの副官の…。」

セリスは名前が思い出せそうで出てこないもどかしさに唸っていた。


「私は、先代のシオン・ナナイの副官を務めていましたシズク・ナナイと申します。といってもナナイの姓を継いだのは先日なので…。先代のシオンがしてしまった件は、決して許してはならない事だと痛感しています。方術寮の新しいおさとしてお詫び申し上げます。あの方は素直に自分の気持ちを伝えれば良かっただけなのに、本当に最後まで世間知らずの不器用な人でした。」

少し寂しそうに語るシズクの姿に、セリスはどう声を掛けていいか分からなかった。


「ところで、リンデンバウム卿。初めて王宮に来たので、謁見の間が分からなくなって困っているので、厚かましいお願いですが案内してくれませんか。」

方術寮の長、即ちナナイの姓を名乗れると認められた者だけ発現するという深い紫色の髪と瞳に、もう戻る事ないあの人の、不器用で真っ直ぐなシオンの事を、セリスは複雑な気分で思い出した。

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