3-3 Hellfire.(地獄の炎)
3-3 ⅰ
季節はまた2度回った。
──1801年、冬。
マーガレットはアレックスが変わった事を黙って見ているだけだった。
「夕食はいつもの時間に2人分お願いします。午後は外出するので、枢機卿方に従ってください。こんなことをしていてはマチネに遅れてしまいます。後は宜しくお願いします。」
髪をひとつに纏め、タキシードに同じ色のコートを羽織り、白い手袋をして何処かへを消えていってしまった。
マーガレットは何が起きたか戸惑っていると、どかどかと深い緋色のローブを着た枢機卿たちがアレックスの執務室にやってくるなり、皆頭を抱えていた。
「また街へ行ったのか、あのワルガキは。」
「そう言ってもあいつ、若く見えるがいい歳だぞ。」
「仕事はこなしているようだし、ヤツの舞台好きは今始まったことではないが。」
枢機卿たちは皆揃ったように大きな溜息をついて部屋を後にした。
アレックスの執務用の大きな机には片付け忘れたのかガラス製のペンだけが無造作に置かれている。それを手に取り、マーガレットは主のいない部屋を後にした。
夜の大聖堂へ続く長い廊下は冷え冷えとして、より厳粛さを増しているようだった。
「寒くありませんか、セリス。」
アレックスはコートを掛けようと、左隣で少しだけ微笑みながら歩くセリスに話しかける。
「寒くはない。炎と風の魔法で温度調節しているから、なんならコートもいらないくらいに温度も上げられる。」
右にいるアレックスの顔を見上げる。雪景色に映える深い緋色の髪と瞳、困ったように寄せられる眉。悩んだ表情さえも愛おしいとセリスは思っていた。突然アレックスの大きな左手がセリスの頭の上に乗せられる。
「本当ですね、暖かい。ずるいですね、私にもかけてくださいよ。」
ニコニコと笑うアレックスにはやはり不思議な癒しの効果があるのかもしれない。それが今自分だけに語りかけてくれていると思うと、顔が赤くなっていくのをセリスは気づかれまいと俯いたまま歩いていく。
「接触性の魔法だから、その…私に…ちょ、直接触れていないと…。」
その言葉にアレックスも恥ずかしくなったのか、セリスの頭の上に置いた手を慌てて外す。
「し、知らなく…て、そ…そうだったのですね、そんなことなら劇場から帰る前に手を繋いでおくべきでした。」
思わず出てしまったアレックスの言葉にふたりの歩みは止まり、暖かい風が吹き抜けていった。しばしの沈黙が流れ、セリスの鼻の頭が寒さで赤くなっていた。
「初めて術を制御できなかった。」
そう言ってくすくす笑うセリスの表情がどんどん柔らかくなっていくことに、アレックスは目を細めていた。
アレックスの私室は心地よく暖められていた。ふたりはコートを脱ぎ、小さな口づけを交わす。
「さあ、食事をしましょうか。約束でしたからね。」
アレックスが何処かへ連絡すると食事が次々と運び込まれる。
「いつもこんな量を。」
セリスの問いに頭を振る。
「こんな量を毎日食べませんよ。どちらかというと質素な方だと思います。それに私、身長が高いので、横にも大きいと圧迫感があるでしょうね。」
その姿を想像して、セリスは思わず吹き出す。
「そうだな、あなたは父上と変わらないくらいの高さだから、恰幅がいいと大変だ。」
「セリスこそ、体格を維持しなければ最側近護衛官なんて務まらないでしょう。採用条件に容姿に関するものもありますし。」
グラスにワインが静かに注がれる。
「もうそろそろ任を解かれたいと思っている。アルヴィスの相手も疲れる。二言目には回りくどい、それでいて厭味たっぷりな事ばかり言う。以前なんか、ヴィーチェの爪の垢でも煎じて飲んだら、少しは女性になるのではと。癪に障ったから解らないくらいの氷の粒を背中に当てたよ。」
アレックスは飲んでいたワインを勢いよく吹き出して、笑いが止まらないのか何度も机を叩いていた。
「テーブルクロスだけではなく、シャツまで汚れてしまったじゃないですか。陛下に悪態をつくのはセリスだけですよ。それに氷の粒を投げつけるなんて。」
アレックスがこんなに子供っぽく笑うのを初めてみたかもしれない。厳粛だが、人を包み込むような癒やされる不思議な声、時折見せる無垢な姿。どれもセリスの心を掴んで離さない。
「そんなに楽しいなら、髪を毎回1本ずつ切った話や、わざとマントを踏んづけた話もあるが。」
「陛下を玩具にしては…いけなくもないですが。私も若作りだの、威厳がないだの、会うたびに言われていますから、今度からその遊びに乗ることにしましょう。」
互いの目を見つめて、無邪気に笑うふたり。窓の外ではしんしんと雪が積もっていた。
食事が終わった事をアレックスが伝えると、マーガレットは恭しく部屋へと入ってきたが、アレックスの姿を見て驚いた。
「聖下、どこかお怪我を。」
理由がわからず、きょとんとしているアレックスにセリスのシャツ、シャツの事だと言う言葉が聞こえる。
「お気遣いありがとう。これはワインをこぼしたものですから。食器と一緒にテーブルクロスも下げてください。新しい物は明日で構いません。セリス、こちらで新しい楽譜でも見ませんか。」
アレックスが声をかけた相手をマーガレットは見た。高く結い上げられたプラチナブロンドの美しい髪、天使と見紛う整った顔立ち、蠟燭に照らされるアメジストのようなきらきらと輝く瞳。セリスと呼ばれた女性がすっと立ち上がる。アレックスの瞳のような深い緋色のドレスの裾捌きさえも無駄がなかった。
「それと、今宵は誰も私の部屋に近づかないよう私が厳命したことを伝達をお願いします。」
マーガレットはその言葉に驚いた。いくら結界で守られているとはいえ、アレックスはシュテルンの最高位である教皇なのだ。魔族だけではなく、その地位を脅かす者は数知れない。
「恐れながら聖下、あまりにも不用心ではありませんか。」
マーガレットの忠告を、アレックスは鼻でわらった。
「心配は無用ですよ。私はそうだと思っていませんが、私はどうやら歴代最強の法力を持つ教皇で、こちらは国王陛下の信頼も熱い王国最強の剣、最側近護衛官のリンデンバウム卿が側にいるのですよ。自ら業火の中に身を投じる
アレックスの強い視線はマーガレットをたじろがせるには十分だった。見たことのない燃え盛る炎のような激しいアレックスの姿にマーガレットは恐怖した。
「では宜しく。セリス、こちらで連弾しませんか。」
「構わないがアレックス、シャツくらい変えてはどうだ。」
ふたりでリビングへと消えていく姿を、マーガレットはただ見つめていることしかできなかった。
そんな事が何度も繰り返された。
マーガレットは思い切って枢機卿たちにふたりの関係をそれとなく聞き回っていた。だが答えは皆口を揃えたように、
「アレックスにとって、セリスは最もこころ許せる親友であり、小さな頃から知っていて娘みたいなもので可愛くて仕方がないのだろう。」
と。
それだけなら、あの距離の近さは理解できた。
しかし、ある日マーガレットは見てしまった。
いつもは夜に閉まっているはずのアレックスの部屋のカーテンがこの日は少し開いていた。マーガレットは湧き上がる好奇心を抑えきれず、庭側から部屋の様子を恐る恐る覗き込む。
部屋の中までは見えないが、揺れるふたつの影が重なり、ついばむような口づけをする音が聞こえる。
しばらくした後聞こえるピアノの優しいアリアや、軽快な連弾、そして時折笑いながら続くフーガ。
その姿にマーガレットは泣き崩れた。
この世で最も高貴な人が戒律に背き、人としてひとりの人を慈しんでいる姿など見たくなかった。
それ以上に何故アレックスの隣にいるのが自分ではないのか。
涙が次々とあふれ、雪を溶かしていく。空を仰げば星は見えず、闇の中から白い雪が舞い落ちる。マーガレットは消え入りそうな声で呟いた。
「聞かなければよかった。聞かなければ、見なければ、平穏な世界があったのに、私は自らそれを潰してしまった。こんなに苦しいのに、なぜあのヒトは振り向いてくれないのか。なぜあの女はこの世で最も神に近い方を地に貶めるのか。わからない。私にはわからない。…知らなければよかった。」
マーガレットは雪の中、力なく座り込む。
「Er war meine größte Liebe.( 彼はわたしの最愛の男性でした。)」
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