第8話 悪阻
「これも……駄目みたい」
「無理しなくていい。食べれるものだけ食べたらいい」
誕生日から一か月が過ぎた。
俺は何事もなく過ごしており、本当に妊娠したのか怪しかったが、こればかりは授かって奇跡といったところなので、俺もイヴァンもそのことについては何も言わなかった。
しかし、二、三日前から急に肉料理を受け付けなくなり、食べると吐き気がするようになった。
それが何日も続き、様子を見ていたドロシーは妊娠した可能性があると告げた。
そして今、俺はイヴァンと昼食を取っている。
食べれないものが増えてきた俺の為に、何品も用意された食事はどれも好物だ。
しかし、その中から食べることができたのは、たった二品で、作ってくれた料理人に申し訳ない気持ちがする。
「イヴァン、ごめん」
「謝るな。残ったものは皆で食べるから大丈夫だ」
カットされたフルーツを食べながら、イヴァンの優しい言葉にジーンときていた。
仕事はしなくていいと言われ、今日もベッドに寝転がる。
イヴァンは仕事に行くまでの間、ベッドの横にある椅子に座って俺の頭を撫でていた。
「失礼いたします」
ドロシーとナラが部屋に入ってくる。
妊娠している可能性がある俺は、これからお世話が必要になるだろうと、今日から二人体制で面倒を見てもらうことになった。
「今のアサヒ様の状態は悪阻で間違いないと思います。今日はお薬を持って来ましたので、辛い時にお飲み下さい」
ドロシーは俺に薬の瓶を手渡した。錠剤が入っており、一日三錠までなら身体に影響が無いという。
「これ、飲んで大丈夫なんですか? 子どもに影響があったら……」
「問題ありませんよ。とは言ってもお薬はお薬ですから、飲みすぎは身体に毒ですよ」
本当は一日五錠まで大丈夫とのことだが、俺は身体が小さいため念のため三錠にしておくのだと言われた。
試しに一錠貰ってそれを飲む。数分で気分がスッとした俺は、その効果に驚いた。
「もう大丈夫みたい。これならご飯も食べれるかも」
「そうか。ドロシー、感謝する」
イヴァンはドロシーに礼を述べ、俺の顔色が良いのを確認すると名残惜しそうに仕事へと向かった。
「はぁ……きつい」
俺はベッドでうずくまっていた。
あれからさらに二週間が過ぎ、俺の体調はどんどん悪くなっていった。妊娠は確定だと言われイヴァンと喜んでいたが、悪阻で俺が苦しそうな顔をしている度に、心配そうに背中をさすってくる。
「何もしてやれなくてすまない」と言われると、こちらまで申し訳ない気分になってくる。
男である俺の悪阻は酷く辛いものらしいが、女性もこれに似たものを経験すると聞き、俺は改めて自分の母の偉大さに気付いた。
「薬を飲んだ方がいいんじゃないのか?」
「……もう飲んだよ」
俺は目の前の料理を見つめながら答える。
この一か月と数週間で俺が食べれるものを把握した料理人達は、それに合わせてあっさりとしたメニューを考えてくれる。
食べだした時は良かったのだが、徐々に気持ち悪さを感じてきた俺は、だんだんと料理を口に運ぶスピードが落ちてきた。
「だいぶ食べたし、後は残していいんじゃないか」
「でも、食べないと」
子どもの分まで栄養をと食事を続けようとしたが、その皿を横から取られる。
「もし吐いてしまっては食べた意味がない。今日はもう止めておいたほうがいい」
「食べるから返して」
「駄目だ」
「勝手に決めないでよッ!」
皿を取られたことに焦り、イヴァンが気遣ってくれたにも関わらず怒ったような声が出る。
「あ、俺……」
口を手で覆う。イヴァンは驚いた顔でこちらを見ており、少し沈黙が流れた。
「やっぱり、食べれないかも……」
俺は小さな声を絞り出し、部屋に戻るために席を立つ。
引き留めようと手を伸ばしたイヴァンだったが、手をすぐに引くと、俺に「後で部屋に行く」とだけ告げた。
「はぁ。俺、何であんなこと」
軽く風呂に入ってベッドに倒れこんだ。
用意してある水は柑橘の香りがしていて気分を落ち着かせる。すると先程、イヴァンに向けた言葉を後悔し始めた。
俺とイヴァンはめったに喧嘩をしない。たまにある揉め事は、イヴァンが俺に過保護すぎたり、夜の行為がしつこかったりと、いたって平和な内容だ。
「俺、これからどんどん怒りっぽくなるのかな……そしたらイヴァン、俺のこと嫌いになるかも」
想像していると悲しくなってきて、俺は部屋の明かりを消す。
ベッドに潜り込んだところで部屋に誰かが入ってきた。
「アサヒ、寝たのか?」
食事を終えて帰ってきたイヴァンが寝室へと歩いてくる。俺はどうしていいか分からず、寝たふりをすることにした。
イヴァンは布団が膨らんでいるのを見つけると、近寄りベッドに腰かけた。
お風呂に入ってきた……?
イヴァンからは風呂上がりの良い香りがする。
食事の匂いを消してきてくれたのだと気付き、俺は胸が締め付けられる。
「アサヒ、さっきはすまなかった」
俺が起きていることには気付いているのだろう。
さっきのことをすぐに謝ってきたイヴァンに、俺は小さい声で「ごめん」と言った。
自分があまりに情けなくて、壁の方を向いたまま振り向くことができない。そんな俺を布団越しに撫でる。
「俺は何もしてやることができないから、つい口を出してしまった」
「ううん、怒鳴ってごめん……」
声を荒げてしまったことを謝るがイヴァンがそれに笑う。
「怒鳴ったのか? 子猫の威嚇ぐらいにしか感じなかったんだが」
子猫が小さい身体でフーッと毛を逆立てさせているところを想像する。
ちっとも怖くはなく、むしろ愛らしい行動だ。
その言葉は心外だが、イヴァンがそのことに怒っていないと知ると、安心して力が抜けてきた。やっと顔を振り向かせると、イヴァンがホッとした顔をする。
「アサヒがどうしたいか、もっと伝えてくれ。怒っても、怒鳴ってもいい」
今日みたいに、何も言わずに出ていくようなことはしないで欲しいと頼まれる。
「イヴァン。俺、これからもっと酷いこと言っちゃうかもしれない。そしたら、」
「そんなアサヒも好きだ」
「でも、イヴァンを傷つけたら、」
「アサヒ、俺は変態だ。アサヒに怒られたら興奮する」
胸を張って言うイヴァンに、俺は思わず吹き出す。
「ぷは、イヴァン、そこまでだったの?」
「アサヒはまだまだ俺のことを理解してないな」
そう言って笑うイヴァンの表情は穏やかだ。
「イヴァン、こっちに来て」
心優しい伴侶を無性に抱きしめたくなり、両手を広げ、大きな身体を布団に招いた。
妊娠から二か月が経ち、だいぶ具合が良くなってきた。
まだ食べれないものはあるものの、ほとんど皆と同じ食事を取れるようになった俺は、精神的にもだいぶ落ち着いたみたいだ。
そうはいっても悪阻自体はまだ続いているようで、吐き気がする時はとことん具合が悪くなる。
しかし、休んでいた仕事も事務作業を中心に手伝えるようになったのは嬉しい。
仕事をしている間は、出産の不安などを考えなくて済むからちょうど良いのだ。
「順調そうですね。もう少ししたら悪阻も治まってくるはずです」
「じゃあ、もっと食べれるものが増えますね!」
俺はまだ膨らんでいないお腹を撫でる。その様子を眩しそうに見るドロシーが、思い出したように話題を変えた。
「そういえば、イヴァン様がアサヒ様のことでずいぶんと悩まれていましたよ」
「え、何で?」
身を乗り出してドロシーの続きを待つ。
いつも明るく、暗い姿など見せない伴侶が悩んでいるとは心配だ。
「アサヒ様が夜にうなされているらしいんです。それは妊娠中よくあることなので、大丈夫だとお伝えしたんですが、昔のアサヒ様を思い出して不安に思っていらっしゃるようです」
ドロシーには、俺がこの世界に来てからのことを伝えている。今では懐かしいが、森に住んでいた頃は、毎日夢遊病に悩まされていた。
「腕から逃げようとするので、死のうとしているのでは、と心配なようですよ」
「そうなんだ。知らなかった」
いつも頼りになるイヴァンが不安になっていた事を知った俺は、今は仕事でここに居ないイヴァンを抱きしめたくなった。
その日の夕食後、家族の集まる談話室で、俺は少し緊張しつつ昼間に届いた手紙の内容をイヴァンに伝えた。
王の誕生祭で出会ったハンナや他のメンバーからは、定期的に手紙や贈り物が届く。
そして今回、ハンナからの手紙には『祭の日にそちらに行く』と書いてあった。
皆、それぞれが領主である父親の手伝いをしており、祭の視察としてここへやって来るとのことだ。
「他の人達も含めて、みんなで会わないかって書いてあるんだけど……行ってもいい?」
「そうだな。最近は具合が良い日も多いし、会ってくるといい」
その言葉に俺は「やった」と拳を握る。
そして部屋へ戻ったらさっそく返事を書かなければと、祭がさらに楽しみになった。
「イヴァン、あっさり許すなんて意外だな」
横からアルダリが不思議そうな顔をして話に入ってくる。
いつも俺のこととなると渋るイヴァンが、すぐに外出を許可したことに驚いたようだ。
しかも今回は妊娠中であり、そんな俺を一人にするなどいつものイヴァンなら考えられない。
「失礼な奴だな。友人と会うくらいは良いに決まってるだろう」
俺が『結婚しました』と手紙を出したことで、何人かは連絡をしてこなくなった。
しかし、ハンナと今回やって来る友人二人は、祝福の返事と共に今も関係が続いている。イヴァンは以前から、その数名に関しては信用して良いと言っていた。
「朝、調子が悪いようならすぐに言うんだぞ」
「はい!」
俺は上機嫌でイヴァンの言葉に返事をした。
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