裏切りと追放
ある日、イシュタルがいつものようにレイを遠くから見ていると、彼が突然、足を滑らせて倒れてしまった。森の中は木々が密集していて、足元が不安定な場所も多い。イシュタルは一瞬迷ったが、彼の元に駆け寄り、倒れた彼に手を差し伸べた。
「怪我はないか?」と冷静に尋ねるイシュタルに、レイは驚いた表情で答えた。「大丈夫です、ただ足を滑らせただけで…」
彼は痛む足を軽くさすりながら、イシュタルに礼を言った。「君はいつも僕を助けてくれるね。ありがとう、本当に。」
イシュタルは無言で彼の顔を見つめた。彼の言葉に、少しばかりの違和感を覚えたのだ。人間の多くはエルフを恐れるか、憎むものだった。しかし、レイは彼女に対してそうした感情を抱いていないようだった。むしろ、彼はいつも敬意を持って接してくる。初めて出会ったときの怯えた姿とは違い、今の彼の眼差しは、彼女を信頼するかのような温かさがあった。
その日から、イシュタルとレイは度々森の中で会話を交わすようになった。レイは自分が地質学者であることを打ち明け、森の土壌や岩石を研究することが仕事だと説明した。一方で、彼は森を傷つける意図はないことも強調した。
「僕の目的は、森の破壊ではなく、この地の理解なんだ。だけど…」レイは一瞬言葉を詰まらせた。「僕がこの森の資源について嘘をつけば、町の人々は無理な開発を進めないかもしれない。」
「嘘?」イシュタルは鋭く聞き返した。
「そう。僕が調査して、ここには何もないと報告すれば、町の政府は森を壊す理由を失うんだ。」レイは苦笑しながら言った。「本当はそれほど簡単なことじゃないけど、少なくとも君たちにとって少しは役に立てるかもしれない。」
その言葉に、イシュタルは驚きながらも、初めて人間に対してわずかな信頼を抱いた。これまでの人間たちは森をただの資源としか見ていなかった。しかし、レイは違った。彼は森を愛し、エルフたちの苦しみを理解しようとしていた。彼の言葉は、彼女の心の中に深く響いた。
それからしばらくして、レイは毎日のように森に通うようになった。イシュタルも、彼に対する警戒心を少しずつ解き、森の中を案内したり、エルフたちの生活や森の秘密について教えたりするようになった。イシュタルはかつて森の外の世界に興味を持たなかったが、レイの話を聞くうちに、人間の町や文化についても興味を持つようになった。
「君は本当に不思議な存在だ」とレイがある日、森の清流のほとりで言った。「エルフたちはいつも人間を避け、敵対している。でも、君は違う。僕に心を開いてくれる。」
イシュタルはその言葉に、少し微笑んだ。「そうかもしれない。でも、私も変わった。あなたに出会う前は、すべての人間を憎んでいた。でも、あなたと話すたびに、少しずつ考えが変わってきた。」
彼女はそっと清流に手を浸し、その冷たい感触を感じながら、続けた。「あなたといると、私が忘れていた感情を思い出す。昔、私がダークエルフの仲間たちと過ごしていたときの、あの穏やかさを。」
レイは静かに彼女の言葉を聞き、優しい笑顔を浮かべた。「僕も君に出会って変わったよ。森のためにできることがあるなら、それをしたいと本気で思うようになった。」
二人はいつの間にか、言葉だけではなく、互いの存在が心の支えとなるようになっていた。毎日会うたびに、自然に寄り添い、森の中を共に歩き、時には手を握ることさえあった。イシュタルは、レイといることで久しぶりに孤独から解放され、自分が孤独でないことを感じ始めていた。
そしてある日、イシュタルとレイは森の中で静かに過ごしていた。夕暮れが差し込み、森全体が黄金色に染まる頃、レイはそっとイシュタルの手を取った。
「僕は、君が大切だ」とレイは真剣な瞳で言った。「君がこの森を守ろうとしているのを見て、僕はただの研究者じゃいられなくなった。僕は…君とずっと一緒にいたい。君を守りたい。」
イシュタルはその言葉に一瞬戸惑った。彼女は長い間、誰かに守られることや、誰かを愛することを避けて生きてきた。自分自身を守るために、感情を押し殺していたのだ。しかし、レイの真摯な想いが、彼女の固く閉ざされた心の扉を静かに叩いていた。
「私も、あなたと一緒にいたい」と、イシュタルは静かに答えた。「でも、私が人間と共に生きることは、許されないかもしれない。エルフたちは、私を裏切り者として見るだろう。それでも…」
「それでも構わない」とレイはすぐに答えた。「僕は君のそばにいたい。それがどんな困難を招くとしても、君を守りたい。」
その言葉に、イシュタルの心は揺れた。彼女は今まで感じたことのない温かさと共に、レイの強い想いを受け入れることを決意した。そして、愛し合うという事を知らないイシュタルはそっと彼の肩に頭を預け、少し彼女なりの甘えを見せた。
その瞬間、イシュタルは孤独ではなくなった。彼女の心には、レイという存在が確かに根を下ろし、彼女を支える存在となった。
その夜、レイは森を後にし、町へと戻ることを決意した。彼は資源がないことを報告し、これ以上の森の破壊を止めるために自ら行動を起こそうとしていた。イシュタルは彼の決意に感謝し、「ありがとう。あなたと一緒にいられる日を楽しみにしている」と甘く囁いた。
しかし、二人の幸せな時間はそれで終わった。
イシュタルと別れたレイは、心に決意を固め、町へと戻った。彼は町の政府に対し、森に資源がないことを伝え、これ以上の破壊を止めさせるつもりだった。彼の心には、イシュタルとの約束を果たすという使命感と、この森を守りたいという強い思いがあった。しかし、彼はすぐに、この決意が命取りになることを思い知ることとなった。
政府の役人たちの元に戻ったレイは、予定通り調査の結果を報告した。「この森には資源はありません。開発を進めることは無意味です。むしろ、この美しい森を保護するべきです」と力強く告げた。
しかし、その言葉が伝わった瞬間、部屋の空気が一変した。役人たちは冷たい視線でレイを見つめ、誰一人として彼の言葉を信じているようには見えなかった。
「資源がないだと?」役人の一人が、軽蔑に満ちた口調で言った。「それはあり得ない。我々の情報筋では、そこに多大な資源が眠っているはずだ。お前は何を企んでいる?」
レイは驚き、強く反論した。「僕は嘘などついていない!実際に調査をした結果、何もなかったんだ!」
だが、その言い訳は無駄だった。役人たちは無表情のまま、レイを疑いの目で見続けた。やがて、部屋の扉が開き、衛兵たちが無言で部屋に入ってきた。その瞬間、レイは自分に何が起ころうとしているのかを悟った。
「お前がダークエルフと密会していたという噂がある」と一人の役人が口を開いた。「それが事実なら、お前は反逆者だ。森を守るどころか、人間を裏切り、エルフと手を組んでいるということになる。」
レイの血の気が一気に引いた。イシュタルとの密会が知られている。彼は必死に弁解しようとした。「違う!僕はただ、森を守るために…エルフと協力しているわけじゃないんだ!」
「黙れ!」役人が怒鳴り、テーブルを叩いた。「お前があのダークエルフと共謀していることは既に分かっている。資源がないという報告も、すべては我々を欺くための作り話だろう!」
「違う、信じてくれ!」レイは叫びながらも、衛兵たちに腕を掴まれ、無理やり引きずられた。
「お前は反逆者だ。森の中でエルフと手を組み、我々の国家を裏切ろうとしたのだ。そんなことが許されると思っているのか?」
レイは必死に抵抗したが、力の差は明らかだった。彼は無理やり椅子に押し倒され、鎖で手足を拘束された。部屋にいた役人たちは、冷酷な笑みを浮かべ、レイに容赦ない言葉を浴びせた。
「お前は国家への裏切り者だ。エルフと手を組んでこの国を倒そうとしたんだろう?」
「ダークエルフと密会していることをどう説明する?」
「すべてはエルフたちに有利に働かせるための陰謀だ!」
「違う!僕は森を守ろうとしただけなんだ!エルフと手を組んでなんかいない!」
レイの声は虚しく響いたが、役人たちはその言葉を一切聞き入れなかった。彼が密かにイシュタルと出会い、何度も森の中で会話を交わしていた事実は、彼の弁解を無意味にした。人間の街でエルフと通じ合うことは裏切りと見なされ、反逆の罪に問われるには十分な理由だった。
「お前の命は、もう我々の手中にある」と役人は冷たく言い放った。「近いうちに、公開処刑を行うことになるだろう。お前のような裏切り者には、我々の世界に居場所はない。」
レイの心臓は激しく打ち、血の気が失われていくのを感じた。彼は森を守り、イシュタルとの約束を果たそうとしたが、その代償はあまりにも大きかった。これ以上の説得は無駄だと悟った彼は、次第に抵抗する力を失い、鎖に繋がれたまま椅子に倒れ込んだ。
彼の心にはただ一つの思いが残っていた――イシュタル。彼女がこの状況を知ることはないだろうか?彼女を裏切ることなく、せめて彼女だけでも守りたいという思いが、彼の胸を締め付けた。
一方で、エルフたちは既に人間たちの侵攻に対して危機感を募らせていた。エルフたちの神聖な森が次々と荒らされ、幾つもの木々が倒されていく様子に、彼らの怒りは日増しに強まっていた。だが、イシュタルにとって最も予想外だったのは、彼女自身がその怒りの矛先になることだった。
その日、エルフの長老たちと数人のエルフたちがイシュタルの元に押し寄せた。彼らの顔には険しい怒りと蔑みが浮かび、彼女を鋭く睨みつけていた。
「お前が…人間と通じていたことは、もう皆が知っている」一人のエルフが吐き捨てるように言った。
イシュタルは一瞬、動揺したが、すぐに表情を取り繕い、冷静に答えようとした。「人間が森を破壊しないよう、対話を試みただけだ。私が彼と共謀したわけではない。」
だが、その言葉は火に油を注ぐだけだった。周囲のエルフたちが一斉に罵声を浴びせ始めた。
「対話だと?人間どもにお前の心を売り渡したくせに!」
「この裏切り者!貴様のせいで森は滅びようとしているのだ!」
「お前がこの森の守護者などと名乗る資格などない!」
「ダークエルフだからだろう!お前は最初から異質な存在だった!」
彼らの言葉は鋭く、刃のようにイシュタルの胸に突き刺さった。エルフたちの蔑視は、彼女がダークエルフという種族であることに根ざしていた。もともと孤立していた彼女は、エルフたちの中で異端視されていたが、今やその疎外感は最高潮に達していた。
「お前のせいで多くのエルフが犠牲になっているのだ!お前の行いが、我々を滅亡へと導いている!」
その叫びに対して、イシュタルは反論しようとしたが、声を張り上げる隙すら与えられなかった。エルフたちは次々と彼女を罵り続け、次第にその非難は激しさを増していった。最初に投げられた石が彼女の肩をかすめると、それを合図にしたかのように、次々と石が飛んできた。イシュタルは手で顔を覆いながら、じっと耐えた。
「お前なんかエルフじゃない!出て行け!」
「裏切り者!二度と戻ってくるな!」
エルフたちは憎悪のこもった声を上げ、石や小枝を投げつけながら、彼女を追い出そうとしていた。さらに、一部のエルフたちは剣や槍を手に取り、威嚇するように彼女に向けて構えていた。
「こんな奴、ここにいる資格なんてない!」
イシュタルはその場で立ち尽くしながらも、冷たい視線で彼らを見返した。激しい怒りが胸の奥に広がっていくのを感じたが、それを必死に抑え込んでいた。彼女に向けられた憎しみは、すべて彼女がこれまで守ってきたものに対する裏切りであり、拒絶だった。
「もし私がこの森を裏切ったというのなら、その責任は私が背負おう」と、彼女は低く呟いた。「だが、真に裏切ったのはお前たちだ。人間に怯え、仲間を信じられず、憎しみに溺れているお前たちだ!」
エルフたちはさらに激しく怒鳴り、武器を振りかざし、石を投げ続けた。
「黙れ、裏切り者!二度と戻ってくるな!」
「お前がこの森にいる限り、災厄は続く!今すぐ消え失せろ!」
石や砂、枝が再び彼女に向かって飛んできた。イシュタルはその場から動かず、背を向けることなく、彼女を囲む憎悪の嵐にじっと耐え続けた。そして、やがて村の入り口に近づくと、最後に一人のエルフが剣を振りかざし、彼女に向かって叫んだ。
「貴様の存在自体が、我々の不幸の原因だ!消えろ、そして二度と戻ってくるな!」
イシュタルはその言葉に何も返さず、無言で村の門をくぐった。その背中には投げつけられる石や罵声が降り注ぎ続けたが、彼女は一度も振り返ることなく、冷たい怒りを胸に抱きながら、森の奥へと消えていった。
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