甘い毒を飲み干して。
詠
睡蓮
肌寒い秋の夕暮れは、あまり好きではない。なぜなら、死んだ家族達との優しい日々を思い出すからだ。僕が身体を震わせば、羽織を肩にかけてくれた親ももう居ない。そしてその穏やかな温もりも、感じることは叶わないのだから。
今や赤い鉄の匂いがするこの両手を、握って温めてくれる人は居ない。
僕は人斬りとして、ちゃんとそこは諦めがついていた。けれど、こんな秋の日には、すこしその決意も揺らぐ。僕は茜色の夕日を眺めながら、町の大通りを振り返って歩き始めた。
***
僕は齢6の頃に両親と兄弟を亡くし、天涯孤独になった。その原因は、江戸幕府の武士たちによる村の焼き討ち。僕達の村は貧しく、幕府の土地を開拓するのにもってこいの土地だった。町を広げ、人々が暮らすために、僕達の家には火を放たれた。村人は殺され、女子供でさえも酷い目にあった上に殺された。そもそも貧しい僕達に、町に移住する権利はなかったらしい。武士たちは平気な顔で僕達の思い出を焼き払い、大切な人を要らなくなった玩具のように扱った。その行動を、僕は許しがたいと思った。しかし、じきに諦念へと塗り替えられていった。
それからというもの、なぜか生き延びてしまった僕は、野山をふらふらと歩き回った。特に何も思わず、散歩に行くような感覚で歩みを進めていた。色褪せた眼の前に、鮮やかな色が差すのを期待して。
「ちょうどよかった。夏目、おいで」
今お世話になっている家へ帰ると、「銀次さん」が玄関で待ち構えていた。彼は薩摩藩士で、倒幕派の武士。倒幕派武士の中では腕の立つ剣客で、そこそこ名の高い人物だ。そして僕は彼の部下。人斬りを生業とした、裏社会の人間だ。
「どうかしましたか、銀次さん」
僕が駆け寄って問うと、銀次さんは人の良さそうな笑顔を僕に向けた。
「いやなに、暗い顔をしていたから、元気づけてやろうと思って。ほら、これをやるよ」
僕が差し出した手のひらに、銀次さんが小さな巾着袋を手渡す。これはなんだろうと疑問に思って彼を見上げると、銀次さんは僕の頭を撫でながら答えた。
「金平糖だ。お前も最近疲れているだろうし、それを食べてちっとは元気出せよ」
「ありがとうございます」
巾着袋を懐にしまうと、銀次さんはまた優しく微笑みかけた。頬を指で優しくつままれ、ぐいーと横に引っ張られる。
「ったくお前ってやつは、優しいやつだな。ありがとよ」
最後に肩をぽん、と叩いて、銀次さんは家の奥へと引っ込んでいった。一体どういうことか分からなかったけど、特に気に留めなかった。そして、僕もそれを追いかけるように玄関で草履を脱ぎ、廊下を小走りで進む。
調理場ではいつも家事をしてくれているトメさんがせっせと夕飯の配膳をしており、僕の姿に気づくなり、ちょうどよかったと笑った。彼女はここに住み込みで働いており、僕たちのような雇われた剣客たちや、銀次さんの身の回りの世話役である。
「おーい夏目、このお使い頼むぞ」
「はい、分かりました」
トメさんは顎でくいっと運んでほしい皿を示して、僕が返事をしたあとは「ありがとよ」と言って配膳の方へ戻っていった。このとおり彼女は男にも勝る元気の持ち主で、気が強い。僕が初めてここの屋敷に来たときは、それはそれは本当に怖かった。あの年にしては、おばけよりもおっかなかったかもしれない。
僕は夕飯を持って自分の部屋に行き、部屋の中に向かって声をかけた。
「恭一郎、開けてくれる?」
すぐに障子が開いて、中から同じ部屋で暮らす「恭一郎」が顔を出した。彼は僕が手に持つ夕飯を見て、ぱっと顔を輝かせる。
「お、ありがと。丁度腹が空いてたんだ」
「もう食べようか、明日は早いし」
僕が入ったあとに、恭一郎がぱたんと障子を閉めてくれた。相変わらず気の利く優しい奴だ。彼とはほとんど同じ時期にこの屋敷にやってきたため、いわゆる同期という仲間である。年もさほど変わらないし、兄弟のように仲良くしている。僕は16で、彼は17。僕は兄がいたことがなかったから、すごく嬉しかった。
「お、おい恭一郎、僕の膳からご飯を取るのはやめてくれ」
「腹減ってるんだ。つまり必要な犠牲」
きりっとした顔で箸をかちかち鳴らす恭一郎。すぐさまにやりを笑みを刻んで、僕の膳からご飯を奪っていく。負けじと僕も恭一郎の膳からご飯を奪う。
「夏くん、自分のを先に食べたほうがいいんじゃないか?」
「その言葉、君にそっくりそのままお返しするよ」
そんな他愛もないじゃれ合いを経て、僕達はぶはっと吹き出した。なんだかおかしくって、楽しい。やっぱり気の合う彼と過ごす時間は、僕にとって大好きな時間だ。
ご飯を食べ終わって湯浴みを済ませると、もう就寝時間。僕達はいつも通り布団をぴったり隣に寄せて寝る。
「明日も頑張ろうぜ、夏」
「うん、頑張ろう。おやすみ、恭一郎」
「おう、おやすみ」
そんな言葉とともに、お互いの拳を突き合わせた。
***
そして日が昇って、朝がやってきた。今日は久しぶりに大きな仕事である。維新志士のお偉いさんたちの会合を護衛する任務だ。会合と言っても、それほど大規模ではない。そのため、僕と恭一郎だけが担当だった。だとしても、どんな敵が来るかは分からないし、気を引き締めて挑まねばならない。僕は小手をつける相棒を見ながら、大きく深呼吸して腹を括った。
「お、なんだよ夏。緊張してんのか?」
「当たり前だろ、恭一郎は緊張しないの?」
僕がそう答えると、恭一郎はにやりといたずらっぽく笑った。
「まあまあ。そう緊張せずとも、
僕はぽんと肩に置かれた恭一郎の手を軽く叩いた。
「子供扱いするなよ。僕だってそう弱くないんだ」
「まあ、そうか。俺よか強いもんな」
「…さあ、どうだろうね」
僕がそう口を結ぶと、恭一郎は僕の頭をわしゃわしゃとかき混ぜた。そして、いつもようにやんちゃな顔で笑ってみせた。
「ま、頼りにしてるぜ。相棒」
その言葉と笑顔につられて、僕も微笑み返す。ほんとにこいつは、良いやつだ。
「僕も頼りにしてるよ。恭一郎」
そして昨晩と同じように、お互いの拳同士を突き合わせた。心地良い手応えがあって、恭一郎の温かい体温が少し感じられる。家族がまだ生きていたら、こんな感じで毎日過ごしていたのだろうか。血は繋がっていない兄を見ながら、僕はふとそう考えていた。
そして、いつも通り任務をこなしていた時。時はやってきた。
僕と恭一郎が、お偉いさんの屋敷の敷地の中で雑談に花を咲かせていた時。見るからに怪しい剣客が屋敷を訪ねてきた。訪ねてきたというよりは、僕たちに声をかけられたのほうが正しいだろう。屋敷に近づいてくるものだから、僕と恭一郎で警戒して念のため声をかけてみたのだ。男は僕達より少しばかり年上で、体つきは筋骨隆々。しかも、一人でやってきた。僕達腕利きの剣客が五感を張り巡らせても、気配はこの男一人しか感知できない。不自然な物音がしないということは、本当にこの男一人だけしか来ていないということだ。よほど自分の腕に自信があるのだろう。
「お兄さん、すまんがここは通らせられん。何か用件があるなら俺達を通してくれ」
恭一郎が男にそう声をかける。その横顔は少し警戒の色が浮かんでおり、右手はさり気なく刀の柄に触れている。僕も抜刀の心構えをして、なるべく警戒していることを悟られないような振る舞いをした。
恭一郎に問いかけられた男は、少し笑みを湛えて口を開く。
「では、一言。命を奪いに来ましたとお伝え下さい」
男の口角が裂けたように不気味に歪んだ。
その瞬間、僕と恭一郎は抜刀する。初撃を仕掛けられたのは恭一郎で、奇襲にも似た攻撃をしっかりと防御している。僕は攻撃の後の一瞬の隙を見逃さずに、男の背後に素早く回り込んだ。この一撃で終わらせる。
そう刀を振り抜こうとした瞬間だった。男の左手が閃き、鈍色が空中に弧を描く。男が隠し持っていた短刀は僕の脇腹を捉え、鋭い激痛と出血を伴った。
「くっ、」
痛みに体勢を崩してしまい、僕は無様に地面に転がる。すぐに体勢を整えようと立ち上がろうとするが、躰が強張ってうまく動かない。力が入らず、立ち上がれない。刺された脇腹だけがどくどくと生き物のように脈打ち、耳元で心臓の鼓動が五月蝿く響く。恭一郎が僕に向かって何を叫んでいる。けれど、声はみるみる遠ざかる。近づくのは刀を手にした男の影だけで、五感は一切正常に機能していない。全身の痺れに襲われる回らない頭で考えて、あの短剣には麻痺毒が塗られていたのだとようやく理解した。
「無様ですね」
そう頭上から声が降ってきて、息ができなくなった。
目一杯空気を吸うが、酸素は肺に満ちない。首を踏みつけにされて、僕は空気を求めて必死に転げ回った。恭一郎が助けようとしてくれているが、僕を甚振りながら刀を持つ男に押し負けている。こんなことが、あってたまるものか。
僕は力を振り絞って、右手に握った刀を思い切り振った。ざくっと浅い手応えがして、男の足が僕の首から退けられた。ぱっと息が楽になり、視界が段々定まってくる。ぶわっと溢れる生理的な涙を無視して、僕は刀を担ぐように構えて素早く間合いを詰める。男の剣戟を躱し、間合いに潜り込む。そして背中から刀を力いっぱい引き絞って、男の頸動脈めがけて振り抜く。恭一郎も僕の動きに合わせて、一緒に男に斬りかかる。
しかし器用に両手の刃で受けられてしまい、僕達は一度間合いを取るべく後ろへ跳ぶ。ここでようやく場面は硬直状態となる。
「驚きましたね、あなたは立っているだけでやっとのはずなんですが」
男は不気味に目を光らせながら、僕に刀の切っ先を向けた。確かに、こいつの言う通りだ。立っているだけで目眩が酷い。全力で刀を振れるのは、せいぜい残り3回ほどだろう。
「五月蝿い」
すると恭一郎が刀を中段に構えて、豪快な振りを見せる。男はそれに反応し二刀で受けようとするが、少し体勢を崩した。
それもそのはず。恭一郎の剣筋は重くて豪快なのだ。真面目に受けたりすれば、刀が折れることだってある。僕の予想は的中し、華奢な短刀は弱々しい音を立てて中央で分裂した。
「俺の弟に随分と酷い事をしてくれたな」
「ほう…」
今度は男が僕達と間合いを取る。しかし顔には緊張感と言うより、戦いを楽しむような悦楽の色が浮かんでいるように見える。
「兄弟で人斬りとは、なんと尊きことでしょう」
そう言って気味悪く男が笑った途端。恭一郎ががくっと膝をついた。刀を地面に突き刺して辛うじて立ってはいるが、右肩から左脇腹にかけて紅い染みが広がっていく。鮮血は止まることを知らず、恭一郎の顔はみるみるうちに青ざめていく。ついには糸の切れた人形のように地面に倒れ込み、虚ろな瞳をどんよりと曇った空に向けた。
その様子を見てしまった僕は、怒りの炎を轟々と滾らせていた。身を焦がすような修羅の炎は痛みを、苦しさを、遂には躰の限界でさえも僕に認識させなかった。
いつのまにか刀を地を這うような低い位置に構えて、いつもならしないような本能的な構えを自分で作っていた。
「そうです、それで良いのですよ。あなたは最凶の人斬り、睡蓮なのでしょう?」
男がなにか言ったが、僕の耳には何も聞こえなかった。
***
はっと気がつくと、僕は刀を地面に突き刺し、座り込んでいた。周りには恭一郎の姿が見当たらず、僕は立ち上がろうとして激痛に見舞われた。
「っ、?!」
「あああ夏目さん!まだ立たないでください!」
肩をぎゅっと持って、誰かが無理やり僕を座らせる。誰だろうと上を向くと、眼鏡をかけた青年が僕を見下ろしていた。青年の躰を包んでいるのは、医療班の皆が着る着物。この青年も僕達を助けにやってきた医療班の人員なのだろう。
「今の夏目さんの足は、ありとあらゆる腱が切れ…」
「恭一郎は、どこなんだ?襲撃者の男はどうなった」
俯きながら青年にそう問うと、青年は動揺したような声を出した。それから、少し黙りこくった後にちゃんと教えてくれた。
「恭一郎さんは、戦死しました。……襲撃者の男の人は、ちゃんと死んでいましたよ」
「……そうか、…ありがとう」
僕はお礼を言うと、すっと立ち上がった。青年はぎょっと目を見開いたが、お構いなしに僕は歩みを進めた。今は、全身の痛みが心地よいほどだ。
「ど、どこ行くんですか、夏目さん、?」
「ちょっと、そこまでだよ。すぐに戻るから」
そう言って、僕はどこへ行くかも決めずにとぼとぼと歩いた。
お前には修羅が憑いている。沢山の同業者からよく言われた。
なぜそんなことを言われたかと言えば、その剣の強さによる。負けの二文字が僕の脳裏に浮かんだことはない。そして周りは僕を人でないように扱う。人斬りという飛び抜けた才を持っているから、誰も僕に近づきたがらなかった。そうして人斬りをする間に、段々人斬りをしているという事実を実感する脳は麻痺していく。僕には仕事仲間なんかいなくて、いつも一人だった。恭一郎に出会うまでは。
恭一郎は僕を弟のようにかわいがって、僕を怖がらないでいてくれた。いつも変わらずあのやんちゃな笑みを浮かべて、僕の頭をわしゃわしゃとかき混ぜてくれた。でも、そんな兄だと慕った彼も、もう居ない。僕が、見殺しにしてしまった。自分の秘剣を、封じ込めるような真似はしなければよかった。僕のせいで、恭一郎は命を落としたのだ。
そんな思考をぐるぐると巡らせている間に、僕はとある神社に足を踏み入れていた。小綺麗だが決して大きくはない、小さな神社。鳥居をくぐると、森林の香りが鼻をくすぐる。そういえば神社なんて、小さな子供の頃以来訪れていない。人斬りを始めてから忙しいのと、僕みたいな人間が居るべき場所ではないと思っていたからだ。僕は新鮮な気持ちで神社の境内を歩き、対の狐像の片方に近寄った。この狐像は耳が少し欠けていて年季が入っており、石の肌は苔むしているところがある。けれど葉っぱが付いていたりはしなくて、ちゃんと綺麗にされている。きっと誰かが手入れをしているのだろう、それほどまでここの神様は良い神様なのかもしれない。
そう思いながら、かわいらしい狐像に触れようとした時。
「お触り禁止です」
僕はびっくりして後ろへひっくり返りそうになった。狐像の後ろから、女の子が顔を出したのだ。
「ああ、ごめんなさい。びっくりさせてしまいましたか?」
彼女は申し訳無さそうに手をもじもじさせながら、狐像の後ろからひょこっと僕の方へ近づいてくる。彼女の艷やかで長い黒髪は腰まで流れ落ち、華奢な細い体は赤と白の巫女服に包まれていた。年は僕と同じくらいだろう。髪には鈴の飾りがついていて、彼女が首をかしげるたびにちりり、と可愛らしい音を立てる。
「……こっちこそごめんよ。急に、触ろうとなんかして」
「全然いいのです。私、怒ったりしません」
優しく微笑む彼女の顔は、驚くほど整っていた。これほどの美貌の持ち主なら、どこか良いところの娘さんなのかもしれない。
「ありがとう。…君が、ここを綺麗に管理しているの?」
「はい。すごく綺麗でしょう?」
「うん、とっても」
僕は思わず彼女の顔を見ながら答えてしまい、はっと我に返る。ぱっと口を押さえた僕を見て、彼女は一瞬きょとんとした。
しかしその後、少し頬を赤らめながら、
「神社が?」
と聞いてきた。僕は
「うん、神社が」
と回答をなんとか持ち直し、軽く咳払いをした。
しばらく気まずい空気が流れ、僕と彼女はふたりとも別の方に視線を泳がせながら、次に何を喋ろうかと考えていた。えっと、神社のことは聞いたし…
「……名前を教えてくれないかな?」「あの、お名前は?」
二人同時に同じことを聞いてしまい、しばらく硬直してしまう。更に気まずい雰囲気になったかと思ったが、彼女の方が沈黙を破ってくれた。まあ、笑い声だったのだが。
「っ、ふふ…」
口元を押さえながら上品に笑う彼女はとても綺麗で、僕はまた見とれてしまう。細めた雪のような白い瞳も、それを覆う長いまつ毛も、鈴を鳴らすような可愛らしい声も。僕の心を掴んで離さなかった。
「私、小雪といいます」
「僕は、夏目」
こゆき、と教えてくれた名前を口の中で転がしながら、僕は彼女を見た。小雪さんの笑う顔が、なぜか恭一郎と重なって見える。小雪さんの笑顔は、花が咲くように綺麗で、恭一郎の笑った顔とは大違いなのに。気づけば僕の頬を温かい涙が幾筋も流れていて、ぼろぼろと泣いていた。止めどなく溢れる思いを、止める術など知る由もない。恭一郎という兄の死に、ようやく向き合えた気がした。
「なにか、お辛いことがあったんですね」
さっと手ぬぐいを出して、僕の頬の涙を優しく拭いてくれる小雪さん。人前で滅多に泣かない僕は、自分のこの状態に心底驚いていた。けれど、この際そんなことを気にする余裕はなかった。
「私に喋ってくれなくても結構です。今はただ、泣くだけで。私がずっとそばにいましょう」
華奢な白い手で優しく背中を撫でられ、僕はただ嗚咽を漏らすことしか出来なかった。泣いたのは何時ぶりだろうか。子どものように幼稚な、下手くそな泣き方だった。
「どうです?落ち着きましたか?」
しばらく泣きじゃくって、小雪さんに背中を擦ってもらって。ようやく僕は落ち着いてぼんやりとしていた。狐像の足元にもたれ掛かって座っているけど、小雪さんは別に怒っている様子もない。むしろ、「全然大丈夫です」と微笑んでいた。
「ごめんよ、急に泣いたりなんかして」
呟くようにぽつりと言えば、小雪さんはいえいえ、と手を振った。
「とんでもない。夏目さんの心の支えになれたら良いんですよ。ここは、そういう場所ですから」
「そういう、場所…」
ざあっと風が吹いてきて、森の木々たちの囁きが聞こえてくる。秋の紅葉に染まりつつある森は、1枚の楓の葉を運んできた。きれいな赤に色づいた、立派な紅葉。夕暮れの日光の光に照らして、葉脈を透かして見る。なんだかすごく、綺麗に思えた。
「これ、どうぞ。よかったら召し上がってください」
小雪さんが僕の目の前でしゃがみ、笹の葉で包んだなにかを差し出した。麻の結び目を解いて中を開くと、ほかほかの稲荷寿司が現れる。酢飯と稲荷の甘酸っぱい匂いが、僕の空腹を刺激した。
「じゃあ、ありがたく。いただきます」
一つ手に取ってかぶりつけば、小雪さんが嬉しそうに眉を下げた。よっぽど僕の顔に「おいしい」とでかでかと書いてあったのだろう。それはもう絶品で、頬が落ちるほど上手いというのはこういうことなのだと感じるほどだった。どこか優しい味付けは、小雪さんの雰囲気によく似ていた。
「美味しいですか?」
「おいしいよ、とっても」
飲み込んでから答えると、小雪さんはまた可愛らしい花笑みを浮かべる。
「ついさっき、作ったんですよ」
そう言いながら、神社の社から少し離れた場所にある小屋を指さした。僕はこぢんまりとした小屋を見ながら、小雪さんに問うた。
「小雪さんは、ここで暮らしているのか」
「はい。一応、
白尾神社、あまり聞かない名前だ。しかし、彼女がここの巫女だと言うならば心に留めておこう。そして、また訪れよう。なぜなら僕は、すっかり彼女に心奪われてしまったからだ。
「また、来てもいいかな」
「勿論。いつでもお待ちしています」
帰り際にそう聞くと、彼女は桜色の唇に華やかな微笑を刻んだ。そして、僕が階段を下りきるまで、ずっとずっと見送っていてくれた。
***
それからというもの、僕は仕事帰りや仕事行く前、ましてや休日のなにもない日にも白尾神社を訪れた。勿論、彼女に会うためである。彼女には僕の仕事内容も、過去の話もなにも喋っていない。そして彼女も、名前と巫女だということ以外、明かしていない。だからこそ僕は、彼女と話すときだけは「人斬り【睡蓮】」ではなく「ただの夏目」でいられた。彼女と話す一欠片の時間が、僕にとっては大切な時間だった。
「小雪さん、おはよう」
境内の落ち葉の掃き掃除をしている小雪さんの背中に、僕は声をかけた。今日はまた大きい任務の日で、白尾神社へ願掛けにやってきたのだ。もう二度と、同業者や仲間を殺させやしないように。あの日の後悔を忘れないように、僕の手にはお守りとして恭一郎の小手を付けている。そして、あの時彼に怖がられると思って使わなかった自分の「秘剣」の剣術もちゃんと開放している。
「おはようございます、夏目さん。今からお仕事ですか?」
「うん、ちょっと大きな仕事なんだ」
すこし面と向かって喋るのに照れて、頬をかきながらそう答える。すると小雪さんが手を伸ばして、僕の頬に優しく手を添えた。そして、ちょっといたずらっぽく微笑んだ。
「では、おまじないをかけてあげます」
そう言って、彼女は僕の前髪をさっとかきあげた。額に少し冷たくて柔らかい感触がして、小雪さんとの距離がゼロになる。白い喉元が目の前に見えて、僕の一瞬頭がくらっとするのが感じられた。
背伸びをやめて、もとの立っていたところに戻る小雪さん。その顔は、少しだけ熱を帯びて朱に染まっていた。そして僕は、ようやく彼女が僕の額に口づけたのだと理解した。
「あっ、?!」
「巫女のおまじないです」
恥ずかしそうに口元を隠す小雪さんは、とてもかわいらしかった。整った鼻梁の先が、ほんのり赤く染まっているのも、恥ずかしがってこっちを見てくれない純白の瞳も、すべてが美しかった。時々、小雪さんが綺麗すぎて、実は妖怪かなにかだと疑ってしまうことがあるが、この時ほど疑いが増したことはなかった。しかし、もし妖怪だったとしても、彼女に食われるなら悪い気はしないと思ってしまう。それほどに彼女は僕を惹きつけていた。いや、僕が彼女にのめり込んでいたのかもしれない。
「あ、ありがとう、行ってきます」
「いってらっしゃい」
ふにゃ、と融けたように、幸せそうに笑う小雪さんを抱きしめたいという衝動が起きたが、我慢して彼女に背中を向けた。この任務で無事に帰ってこれたら、小雪さんに自分の思いを告白しよう。そんな固い決意を胸に抱きながら、僕は見慣れた神社の階段を下り始めた。
***
焦げ臭い匂いと、血の生臭い匂いが鼻をつく。建物は紅蓮の炎に包まれ、崩壊寸前だ。銀次さん達維新志士の方々は、僕以外の護衛剣客が逃がしてくれている。僕は今交戦中で、12人を一気に相手している。しかし、何人たりとも銀次さん達の邪魔をさせたりはしない。燃え盛る炎の中、僕は愛刀を握り直した。
「らあっ!」
立ち込める煙の中、空気を切り裂く音がこだます。僕は斬り掛かってきた男を一薙ぎし、絶命させた。剣筋はしっかりと急所に食い込み、手応えとともに敵を一人ずつ無力化していく。僕にとっては玩具の人形と戦っているようで、皆糸が切れれば倒れ込んで動かなくなる。やがては炎は死体を焦がし、あとは白い骨だけしか残らない。
「ば、化け物…」
「くそっ、【睡蓮】なんかに敵うもんかよ…!」
残り3人。ようやく自分の分の悪さに気がついたようで、刀を震える手で握りながら怯えている。煙を吸い込みすぎて倒れているものも居る。どうして僕をそんなに怖がるんだろう。同じ人間で、しかも所属する場所が違うだけの同業者なのに。誰が付けた志士名なのかは忘れたが、どうして僕の名に【
そんなこと、今更どうでもいい。
沢山煙を吸い込んで倒れている3人を一通り見回して、一気に二人斬り殺す。がたがた鳴る歯の音が一つに減った。相変わらず真っ青な顔で怯える最後の一人を眺めながら、僕は言い放つ。
「何か、遺言を残すかい?」
残った一人の男は歯をがたがた言わせながらも、眼光の光は鈍っていなかった。死に怯えながらも覚悟している顔だ。
「お前には、化け物が憑いてる」
僕は愛刀に付いた血を払った。
「知ってるよ」
刀を中段に構える。
「九尾の、狐の化け物が」
言い終えた瞬間に刀を振り抜いてしまって、少し残念に思った。今まで「狐が憑いている」なんて言われたことがなかったからだ。糸の切れた男をそのままにして、また刀の血を払う。そして、少しくぐもった刀身に自分の姿を映してみた。
「…っ」
僕の背後に、ぼんやりとした白い影が映っている。尖った耳が2つ付いた、尻尾が9つの白い影が。真っ白なぼんやりした瞳で、僕のことをじっと刀越しに見つめている。しかしばっと後ろを振り返っても、狐の姿は見当たらない。再度刀身に自分の姿を映しても、なにも映らなかった。気の所為、だったのだろうか。
燃え盛る建物から脱出したあと、僕は他の護衛剣客と銀次さん達に合流した。しかし、いつもなら「よくやった、ありがとう」と言ってくれる銀次さんが、僕を見て言葉を失っている。目を見開いて、驚いたような、怯えたような顔で僕を見ている。他のみんなはいつも通りの顔をしているのに、銀次さんだけが変な顔をしていた。
「夏目」
銀次さんが言う。僕は視線を銀次さんへと向けた。
「お前、すぐにお祓いしてもらえ。化け物が憑いてる」
「…え」
銀次さんまでそんな事を言い出して、ようやく僕は焦り始めた。これは僕が悪い夢を見ているだけなのか、本当のことなのか。でも、気を失った記憶はないし、おそらく夢ではないはずだ。
「何を急に言い出すんですか?僕はどうにもなっ」
「いいから、早く」
僕の言葉を遮って、銀次さんは僕の腕を掴んで引きずっていく。ずるずると引きずられてやってきたのは、すぐそこの寺だ。銀次さんは、今日は寺の近くに居てよかったな、と僕に笑ってみせた。けれど、いつもような優しい笑みではなかった。まるで、僕に怯えているような顔だった。
「栄作、頼む」
どうやらここの寺の和尚さんは、銀次さんの顔見知りだったようだ。栄作と呼ばれた和尚さんは、僕の顔を見てにこりともせずに「分かった」と銀次さんに返事をした。
それから和尚さんに歩かされて、僕はお寺の中へと通された。仏様が祀られている部屋へ入れられ、僕は座布団に座らせられる。
和尚さんは僕の斜め前あたりに座って、僕をじっと見つめていた。
「お主、名は夏目と言ったかの」
「はい」
「では夏目、お主は白尾神社という神社に聞き覚えはないか」
聞き覚えもなにも、たった今朝行った場所だ。忘れるはずがない。
「毎日通ってます」
僕がそう答えると、和尚さんは白い髭を手で撫でながら唸り声をあげた。それから見るからに古そうな書物を何冊か出してきて、僕の目の前に並べた。平安時代の書物だろうか、巻物もいくつかある。僕はその中の一冊を手にとってぱらぱらと捲ってみた。ただ、文字が古すぎて何が書いてあるのか全く分からない。ところどころ劣化している場所があって、僕に解読は不可能だった。
「読めんか」
「読めないですね」
「ふむ…」
和尚さんはどうやら僕にこの書物を読ませたかったらしいが、僕が読めなかったことによって少し予定が狂ったようだった。まだ髭を撫でながら唸り声をあげ、ようやく僕の顔をみて口を開いた。
「では、お主に見せよう。見えたほうが早いじゃろうな」
そう言って布で隠された姿見のところまで連れてこられた。和尚さんが掛けられた古い布を取ると、汚れ一つない美しい鏡が現れる。そこに映るのは、僕と和尚さんと、もう一匹。耳が少し欠けた白い九尾の狐が、僕の足元に座っていた。真っ白な瞳孔をこちらに向けて、僕のことを鏡越しにただ見つめている。
「どうじゃ、なにか見えたかの」
和尚さんは鏡越しに、僕の足元の狐に目線を向けている。和尚さんにも、見えているのだろう。
「狐が、います。足元に」
「そうじゃの。お主にすっかり懐いておる」
そう和尚さんが言った時、狐がくしゃみをするように咳き込んだ。口周りに、灰色の煙のようなものが広がっている。その時、ふんわりと何かが燃える煙の匂いがした。勿論、野焼きをしているところはないので、考えられるとしたら燃えていたあの家だ。でも、この匂いは僕の足元から漂ってくる。
「どうするかの?これくらいの低級霊じゃったら、儂でも祓えんことはない」
僕は鏡越しに、狐と目を合わせた。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
「よいよい。困ったらまた儂を頼ってよいぞ」
「ありがとうございます」
そうして、僕はお寺を後にした。
***
その夜、僕は白尾神社を訪れた。すっかり日が暮れてあたりは暗かったが、小雪さんは絶対に境内にいるだろう。案の定、三日月の晴れた夜空の下、小雪さんの影を見つけることが出来た。
「こんばんは、小雪さん」
僕が後ろからそう声を掛けると、小雪さんは振り返って僕に笑いかけた。月明かりの下でも輝くその笑顔に、僕はまた心を奪われた。
「こんばんは、夏目さん」
彼女は僕に向き直って、僕が喋り始めるのを待っていた。まるで、僕がどうしてここに来たか分かっているかのように。
「小雪さん、君は九尾の狐だったの?」
「はい……、私は、狐の化け物です」
小雪さんはどこか悲しそうな表情で僕を見つめながら、ずっと隠していた正体を明らかにした。自らを「化け物」だと侮辱していながらも、小雪さんはどこか誇らしげだった。僕は、そんな彼女を見ながら言葉を続ける。
「僕に付いていてくれた狐さんは、僕が触ろうとした石像の子だよね」
小雪さんは少し驚いた顔をして、僕の顔を見た。けれどすぐに優しく微笑んで、何も言わずに首を縦に振った。その時、強い夜風が吹いて、森の木々を揺らす。からからと枯れ葉が舞い落ちて、僕の小袖の懐にも潜り込んできた。そうして冷たい秋の風が吹き抜けた後、小雪さんの姿は一変していた。
白いふわふわの毛の、狐耳と尻尾が生えている。彼女が首を動かすと、鈴の髪飾りがちりり、と可愛らしい音を立てた。白い毛並みは月夜に映え、美しく光り輝いていた。艷やかな黒髪とは対象的な色の耳が、また僕には綺麗に思える。
「これが、私の正体です。どうです、とても…」
「綺麗だよ」
俯いていた彼女が顔をあげ、ひどく驚いた顔をして僕を見ていた。白菊のような慎ましくも華やかな瞳が、ゆらゆらと揺れている。
「小雪さんは、とても綺麗だよ」
僕が釘を刺すように、しかし優しく言うと、小雪さんは眉を下げた。いつものように笑おうとして失敗し、純白の瞳から涙を溢れさせた。透明な雫は彼女の雪のように白い肌を伝い、月明かりに輝きながら足元へ吸い込まれる。このときばかりは、僕は遠慮をしなかった。今にも消えそうな儚い雰囲気を纏う小雪さんを、消えないように優しく、しかし強く自分のほうへと抱き寄せた。華奢な彼女の躰に手を回し、壊れないように優しく抱きしめる。いつも遠くから香っていた、白百合のような華やかで甘い香りが、今はすごく近くに感じることが出来た。
「小雪さん、僕も化け物だ。人を斬る化け物なんだ。こんな僕でも、小雪さんは抱きしめてくれるかな」
僕の胸にすっぽり収まった小雪さんは、すこし鼻をすすった。それから、おずおずと背中に手を回し、優しく僕を抱き寄せた。
「勿論、です。大好きです、夏目さん」
「僕も、小雪さんが大好きだ」
二人して照れ笑いを浮かべながら、月明かりの下、じっと二人でお互いを抱きしめていた。離れ離れになったりしないように。
***
次の日の朝、僕はいつも通り小雪さんのもとを訪れてから仕事へ向かった。小雪さんに「おまじない」をかけてもらって、もう完璧だ。浮足立った気持ちで仕事場へ向かい、今日も護衛任務を行う。今日は会合に行く銀次さんの護衛だけで、特に大したことは起こらないはずだった。みんなそう思って、他の護衛剣客でさえ気を緩めていたのだ。
いつも通り銀次さんの後を付いて歩き、誰か賊が近寄ってこないか警戒する。僕以外の二人の護衛剣客は、完璧に何も起こらないと思って気を緩めていた。そのため、会合の場所が普段使わないような場所に設定されているのも気づいていなかった。僕もはじめはあまり疑問に思っていなかったが、徐々に違和感に気づき始める。僕達がいま歩いている場所は佐幕派の剣客たちがごろごろ居るような場所だ。こんなところで会合をするなんて、とんだ賭けだ。いや、いちいちこんな場所で維新志士達の会合を行う必要がない。まさか、そもそもこの会合は。
「お勤めご苦労だった」
急に銀次さんは立ち止まって、顔をこっちに向けようともせずにそう言い放った。その瞬間、僕は後ろから奇襲に気づいて刀で防ぐ。しまった、まんまと嵌められてしまったのだ。
しかも奇襲攻撃を仕掛けてきたのは、僕達の世話を焼いてくれたトメさん。顔を見た瞬間、嫌でも分かった。気を緩めていた剣客たちは何も言う間もなくトメさんに殺され、壊れた玩具のように動かなくなっていた。この人、ただの世話役かと思って油断していたが、剣術も齧っていたようだ。でも僕にとっては、もう敵以外のなんでもない。顔見知りだろうが関係なしに、僕は彼女の首を跳ね飛ばした。彼女も驚いたことだろう。僕が動揺すると思って彼女を奇襲役に配置した銀次さんでさえも、驚いてこちらを振り返ったほどだ。
「夏目…」
怯えた、驚いた顔をして僕を見る銀次さんは、もう僕の慕った人ではなかった。僕の心の中で、足元にあった「日常」という名の嘘の塊が徐々に崩壊していく。もうすべてが裏返ってしまった今、彼らはただの敵であり、殺すのも造作ない。
「僕をその名前で呼ぶな」
僕は右手を閃かせ、銀色の閃光が目の前の敵となった男を斬り裂くのを眺めていた。やがて目の前は真っ赤な鮮血に染まり、僕の着物にも少し返り血がかかる。大きく後ろにひっくり返った銀次さんは、僕から逃れようと必死に足掻いていた。けれど、もう遅い。僕は銀次さんを踏みつけにし、喉元に切っ先を突きつけた。
「僕の名前を呼んでいいのは、兄さんと小雪さんだけだ」
ぐしゃ、と喉を一瞬で潰せば、彼はもう喋らなくなった。僕は愛刀についた血を払い、鞘に納刀してから、踵を返して歩き始めた。
やっぱり僕は、自分の手で何も生かすことができない。
生かそうと頑張った命だって、結局守れやしない。慕った恩師であっても、裏切られればただの敵。すぐに斬り殺してしまった。僕の周りは、もうなにもなくなって、誰も居なくなってしまった。家族を失った怒りから、刀を手にして命を守ろうとしても、修羅は僕のなかで燃え盛るのみ。
いずれ、修羅は小雪さんにも牙を向くだろう。それがどんなきっかけなのかは分からない。僕は、考えるより諦めるほうが早いのだ。
「小雪さん」
僕はいそいそと境内の掃除に取り掛かっている、かわいらしい背中に声をかけた。彼女は振り返って僕を見るなり、ぱっと顔を輝かせる。それがとても愛しくて、かわいらしい。
「お帰りなさい、今日は早かったんですね」
僕の服の返り血など気にも留めずに、小雪さんは僕の胸へ飛び込んできた。艶々の柔らかい髪を震える手で撫でると、小雪さんは嬉しそうに声を漏らした。
僕は小雪さんの首筋に顔を埋めて、ぽつりぽつりと今日あったことを話した。小雪さんは僕の頭を撫でながら、優しい相槌を打ちながら親身に話を聞いてくれた。白百合のような小雪さんの香りが、僕の精神安定剤になっているようだ。僕はぐちゃぐちゃで真っ黒な心の毒を吐き出すように、言葉を紡ぎ続けた。
「小雪さんは、僕を裏切らない?」
僕が涙も出ない震える声でそう聞くと、小雪さんは優しく答えてくれた。
「裏切ったりなんか、しません。そんな酷いこと、できるわけがありませんよ」
その言葉を聞いても、僕は安心できなかった。銀次さんだって、トメさんだって、あんなに僕に良くしてくれていたのに。それを簡単に裏切られてしまっては、もう小雪さんの言葉にも疑心暗鬼になってしまう。本当は信じていたい。けど、ざわざわと心の中の自分が納得してくれない。ならば、もういっそ。
「じゃあ、夏目さん。私とずっと一緒って約束しましょう」
耳元で、そう優しく囁かれた。どうやら、二人共考えていることは同じようだ。
「…うん。約束しよう」
そう言うなり、僕は小雪さんの胸に刀を突き立てた。
小雪さんは地面に膝をつき、躰をふらりと揺らした。僕はその躰を片手で支えて、胸に突き刺した刀を思い切り引き抜く。
「…っう、」
苦しそうな声を漏らす小雪さんも、かわいらしい。白い巫女服をみるみる真っ赤な血で染め上げて、小雪さんは虚ろな瞳を僕に向けた。僕はそんな小雪さんの唇に口付けて、小さな口から溢れる鮮血を飲み干す。一滴も零さぬように、甘い毒をすべて飲み干した。それから、小雪さんを抱えて階段の最上階に立つ。小雪さんはもうすでに息絶えていたが、幸せそうな表情を浮かべたままだった。穏やかな寝顔を眺めながら、僕は小雪さんを抱えたまま、急な階段に身を投げた。
誰かに殺される前に、自分で奪うことが、僕たちにとっての最善の道だった。二人共、救いようのない化け物なのだから。
神社の階段の一番下にある池で、一人の青年が水に浮かんでいた。胸を穿たれた、真っ白な狐を抱いて死んでいる彼を発見した人物は、ひどく腰を抜かしたそう。
池に浮かぶ華やかな睡蓮に囲まれて、二人の亡骸は
甘い毒を飲み干して。 詠 @mamerock6
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